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【お市の方】
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小豆袋の話はウソだけど……
お市の輿入れによる同盟が功を奏したのでしょう。
織田信長は永禄11年(1568年)に将軍・義昭を奉じての上洛に成功。
これにて織田と浅井の両国もより一層結びつきは固くなるはずでしたが、友好関係は長くは続きませんでした。
2年後の元亀元年(1570年)、突如、織田軍が越前の朝倉へ攻め込んだからです。
前述の通り浅井と朝倉は同盟を結んでいます。その関係を無視したまま信長が朝倉を攻撃すれば、浅井としては立つ瀬がない。
ゆえに越前攻めはしない――という方針でしたが、信長はこれを破って朝倉方の天筒山城を落城させると、次に金ヶ崎城を秀吉の調略で開城させ、更に北へ進軍……このとき事態が勃発しました。
浅井長政が信長を裏切り、挙兵したのです。
信長の背後に襲いかかり、浅井と朝倉で織田軍を挟み撃ちにする作戦でした。
このときお市の方は兄・信長へ【両端を縛った小豆袋】を送り、織田軍が「挟撃に遭う」ということを暗に知らせたと言います。
こちら、後世の作り話と思われますが、単なる妄想とも言い切れません。
というのも、お市の方が浅井家に嫁ぐ際、密かにスパイとして同行させていた信長の家臣が、いち早く織田軍に危険を伝えたのでは?という可能性もあるからです。
いずれにせよ絶体絶命に陥った信長は、金ヶ崎から大慌てで逃げ出し、どうにか事なきを得ました。
なお、このとき豊臣秀吉と並んで織田軍の殿(しんがり・最後尾で敵を引きつける役)を担ったのが明智光秀たちです。
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浅井家の裏切りは、いわば秀吉と光秀を出世させた契機であり、この撤退戦は【金ヶ崎の退き口】として後世に知られます。
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歴史にIFは禁物ながら、もし浅井長政が裏切りなどしていなかったら、織田政権での長政は秀吉や光秀より上のランクにいた可能性が高そうですよね。
夫と兄が血みどろの戦いを繰り広げ
夫の裏切りにより兄がピンチに陥り、結果、両家が激突――。
お市の方としては立場がありませんが、この後も長政との間に次女(初)と三女(江)を産んでますので、二人の仲は崩れなかった模様です。
ただ……厳しい日々だったことは間違いないでしょう。
元亀元年(1570年)に【姉川の戦い】が勃発してから天正元年(1573年)まで。
織田と浅井は血みどろの戦いを幾度も繰り返し、ついに浅井家が滅ぼされてしまったのです。
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前述の通り、夫の長政から「信長公のもとへ戻れ」とされていたお市の方(と浅井三姉妹)は、ついにその言を受け入れ浅井家から織田家に出戻り。
問題は、まだ9歳の長男・浅井万福丸でした。
合戦の混乱にまぎれて小谷城から脱出を果たしていたのですが、程なくして秀吉に捕らえられると、関ヶ原で串刺しにされてしまっています。
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ここで考えたいのが、万福丸の実母です。
もしも、お市の方が生みの親だった場合でも、信長は万福丸を殺していたか?
一つ参考になる例があります。
信長に対して謀反を企み、謀殺された弟の織田信勝です。
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信長に殺されたとき、信勝には「津田信澄」という男児がおりました。
謀反者の男児は生かしておかない――という鉄則に従えば殺さねばならない場面で、信長はこの甥っ子を許し、自らの家臣にするため育て上げているのです。
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身内や家臣にはかなり優しいところもある信長。
ですので万福丸が血の繋がった甥っ子だったら助けていたのではないでしょうか。
それにお市の実子でしたら、彼女が何らかの命乞いをした記録や言い伝えが残っていてもよさそうです。
ちなみに長政には、お市の方と結婚する前に「平井定武の娘」と結婚していた経歴があり、さらには側室もいて、最大で4人の男児をもうけていた可能性も指摘されております。
長政の男児
・万福丸
・喜八郎
・円寿丸
・万寿丸
妻はお市の方だけ――そんなイメージもあっただけに意外ですね。
まぁ、男児が生まれてこないと浅井家の存続にかかわりますので、側室を迎えるのも自然なことだとは思います。
織田家に出戻りしていたら突然の本能寺
夫を殺され織田家に出戻りしたお市の方(と三姉妹)。
その後の彼女らはどうしたか?
実はこれも詳細は不明で
◆清洲城主だった織田信忠に預けられた
◆上野城主(伊勢国)だった織田信包(信長の弟)に預けられた
といった諸説あります。
ただ、天下人・信長の妹(と姪っ子)だけに、不自由のない生活だったことは間違いないでしょう。
お市の方は信長が再婚を勧めても断っていたと言います。
すでに彼女には3人の娘がいますし、これ以上、子供を産む必要がないと思ったか。亡き長政への愛なのか。あるいは他家に嫁いで、これ以上、戦乱に巻き込まれるのがイヤだったか。
いずれにせよ織田信長という稀代の人物の妹として、平穏な道を歩むことは許されません。
天正10年(1582年)6月、【本能寺の変】が起きたのです。
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このときお市の方たちがどこにいたのかは不明です。
おそらく尾張か伊勢だったのでしょう。頼るべき兄を突如殺され、ヘタをすれば自分自身たちも殺されかねない。
混乱する織田家の状況を一変させたのは豊臣秀吉でした。
【中国大返し】と呼ばれる凄まじいスピードで備中高松城から京都までやってくると【山崎の戦い】で明智光秀を打ち破ったのです。
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他の織田家武将たちが右往左往している中、いち早く毛利と講和を結び、凄まじい早さで光秀のクーデターを鎮圧。
次に迎えたのが清州会議。
お市の方の運命を変えるイベントでした。
清州会議は秀吉の一方的勝利ではない!?
この会議で中心になった織田家の重臣は以下の通り。
関東に出兵していた滝川一益は参加不可能と診断され、上記4名での話し合いが行われたのです。
会議は主に
・次の織田家当主(三法師)
・所領の分配
であり、お市の家族についても論じられると「勝家殿に嫁いでいただこう」ということになりました。
信長亡き後、誰かの庇護無しに生きていきてはいけない彼女たち。「秀吉が勝家を丸め込むために結婚を仕向けた」ともいわれていますが、そう単純なものではなかったようです。
存在感の大きな信長の妹を妻にできれば、勝家の立場が強まります。
巷で言われてるように【一方的な秀吉勝利の会議ではなかった】んですね。
信長の息子達はいろいろ問題があって叔母の庇護どころではありませんでしたし、ひとまず当主になった三法師(信長の孫で後に織田秀信)はまだ二歳でした。
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「勝家がお市に惚れてるのを知ってたから」と見る向きもありますが……勝家とお市は25歳も離れています。
いくら年の差婚が当たり前の時代とはいえ、娘と考えたって不思議はない年齢差。
信長死後のドタバタで勝家はとんでもなく忙しかったわけですから、実際のところ夫婦らしく過ごした時間はほぼなかったでしょう。
なにせこの清州会議(1582年)から程なくして秀吉と勝家は【賤ヶ岳の戦い(1583年)】で真っ向からぶつかるのです。
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