佐久間盛政(鬼玄蕃)

佐久間盛政(鬼玄蕃)を描いた『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』作:楊斎延一/wikipediaより引用

織田家

鬼玄蕃と恐れられた佐久間盛政(勝家の甥)秀吉の誘いも笑って一蹴!30年の生涯

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
佐久間盛政
をクリックお願いします。

 

お好きな項目に飛べる目次


荒山合戦

清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が信長亡き織田家に敵対。

越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵しました。

あまり知られてませんが、天平寺は強敵です。

要害の石動山を本拠地として、昔から能登の国人衆に強い影響力を及ぼした一大組織であり、一向一揆勢が同エリアに浸透しなかったのはその存在があったからです。

ただし、織田信長が存命だった頃には、織田家の勢力拡大により、天平寺の寺領も大半が没収されておりました。

そんなタイミングで起きた本能寺の変――。

千載一遇の好機!とばかりに彼らは動きます。

1582年6月下旬。

能登国の温井景隆ら国人衆も、景勝の扇動により蜂起して荒山城に籠城しました。

彼らを扇動したのは、信長の死により息を吹き返した上杉景勝

能登へ戻る国人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備まで進めます。

彼ら反織田家の軍勢は、能登と越中の国境にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の改修工事にも取り組みました。

当時の上杉家は、宿敵だった北条家と和睦の交渉を進めていた最中です。

背後の憂いが無くなれば、越中・能登の反織田勢力を糾合して、織田家の北陸方面軍と対決するには絶好のタイミング。

本能寺の変直後、前田利家明智光秀の討伐ではなく、能登に留まることを選んだのは、北陸で燻っていた勢力を懸念したゆえでしょう。

上杉家の後ろ盾もあれば、この【荒山合戦】が勢力図を一気に塗り替える危険性もありました。

前田利家
前田利家~槍の又左62年の生涯~信長に追放されてもド派手に復活!

続きを見る

そこで前田利家と柴田勝家は、佐久間盛政にも応援を要請するのです。

盛政はすぐに出陣。

共に連れ添った拝郷家嘉(居城は大聖寺城・だいしょうじじょう)と、わずか二日で兵を集めて、荒山近くの高畠という土地に入りました。

 


 上杉家の影響力を排除

おそらく両武将は事前に準備を進めていたのでしょう。

この段階ではまだ、敵・荒山の砦工事は進んでいない状態です。

現地の人々の協力を取り付けた佐久間盛政と拝郷が、荒山の砦改修の情報を知ると直ちに現地へ向かいます。

斥候せっこう(偵察)を出して状況を把握。すかさず反乱軍の主力数千人が籠る荒山を猛攻撃しました。

と、これが実に凄まじい。

佐久間勢の猛攻を受けた敵軍の指導者は、尽く戦死。

指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かうと、今度は退路に回り込んだ拝郷勢が次々に捕捉して、敵部隊を壊滅させます。

友軍を失い孤立した石動山も、程なくして前田利家が 制圧しました。上杉軍が送った援軍は間に合わなかったのです。

結果、織田家は能登と越中北部から 上杉家の影響力を排除することに成功します。

そしてその後は、佐々成政と傘下の越中国人衆が 独力で上杉軍を抑え込み、 北陸の情勢は安定するのでした。

佐々成政
信長の側近から戦国大名へ出世した佐々成政!最期は秀吉に潰された生涯53年とは

続きを見る

荒山合戦における佐久間盛政の働きは鬼気迫るものがあり、 約350年後、日本陸軍の戦史研究チームから絶賛されます。

それは一体どんな内容か?

『第九師団管古戦史』を基に、佐久間盛政の要点に注目してみますと……。

【荒川合戦の勝因まとめ(手順)】

・事態を想定していた

・速やかに出陣した

・現地の住民を味方につけた

・戦機を見逃さなかった

・諸将とよく協力した

・手柄を前田利家に譲った

佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、盛政は前田利家に譲りました。おそらくや能登を安定させるためでしょう。

結果、佐久間盛政はその采配と戦術眼を高く評価されるようになります。

そしてその能力を発揮する場はスグにやってくるのです。

秀吉との全面対決となった【賤ヶ岳の戦い】です。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-織田家

×