筒井順慶

筒井順慶/wikipediaより引用

戦国諸家

筒井順慶~松永と戦い 秀吉と光秀に挟まれた戦国大名36年の生涯とは

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光秀につくか秀吉につくか

筒井順慶にとって明智光秀は恩人でした。

織田信長への執り成しを助力してもらっていただけでなく、日頃から教養を通じて親しい仲。

軍事的にも傘下にあったと考えられ、例えば天正九年(1581年)に行われた信長の一大軍事パレード【京都御馬揃え】でも、順慶は「大和衆」として明智光秀に付き従ったと考えられます(『信長公記』に名前は掲載されていない)。

当然のことながら【本能寺の変】後は光秀から「味方してくれるよね」という誘いが届きました。

そもそも本能寺の変は、光秀が秀吉の援軍に出向く途中で起きた事件であり、順慶もその援軍に加わる予定でした。

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しかし、コトはそう単純でもありません。

いかに戦国時代とはいえ光秀は主君を討った謀反者。日頃の付き合いだけで御家の将来を委ねるワケにはいきません。

光秀につくか、秀吉につくか。

この、悩み動けずにいる筒井順慶を評した慣用句が「洞ケ峠(洞ケ峠を決め込む」ですね。

光秀と秀吉による【山崎の戦い】が起きた戦場付近にいて、立場を明確に示さないずるい姿勢=「日和見」の代名詞として知られる言葉ですが、現実はそこまで酷くありません。

確かに順慶はなかなか決断できずにいました。

明智につく姿勢を示したり、やはり思い直したり。時間をかけながら、最終的には【中国大返し】で畿内へ迫ってくる秀吉サイドに加わることを決定します。

そうしたところ【山崎の戦い】が、わずか一日でケリがついてしまうのです。

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大和の支配権は秀吉の弟へ……

いずれにせよ戦いに参加できなかったのは事実。

順慶は秀吉の怒りを買いますが、大和での支配権は認められました。

跡継ぎの筒井定次も人質として送り、その後、秀吉が柴田勝家織田信孝らと揉め(後に賤ヶ岳の戦いへ発展)したときにも、今度は明確に秀吉サイドに付くことを意思表示しております。

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賤ヶ岳の戦い本戦そのものには参加しておりませんが、そのころは一揆軍と交戦しており、自身の基盤固めに邁進していたようです。

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宗教勢力の強い大和ですから、秀吉もまずは筒井勢の力を利用しようとしたのでしょう。

しかし、度重なる合戦や政争が心身の負担になっていたようです。

順慶は天正12年(1584年)3月に起きた【小牧・長久手の戦い】にも参加しながら、同年8月、とうとう力尽きて亡くなってしまいます。

享年36。

まだ若い、惜しまれる死でした。

なお、順慶が生涯を賭して願った大和国の支配については、秀吉の弟・豊臣秀長のものとなっています。跡継ぎの筒井定次は伊賀へ転封となりました。

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長月 七紀・記

【参考】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
洋泉社編集部『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(→amazon
国史大辞典
筒井順慶/wikipedia

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