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【北畠具教】
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剣術の達人?
詳しい時期は不明ながら、北畠具教は剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)に兵法と剣術を教わったといわれています。
特に剣術については奥義「一の太刀」を伝授されたという説もあり、かなりの腕前だったようで。
卜伝は具教の用意した屋敷に長期間滞在し、指南したとのことです。

塚原卜伝/Wikipediaより引用
彼は若い頃にいわゆる武者修行のような形で全国を行脚しており、その途中で伊勢に立ち寄ったのでしょう。
卜伝の流派・新当流というと剣術のイメージが強いですが、他の武器や兵法なども含まれていました。
具教も、個人の武術と軍を率いる戦術、両方を学ぶため卜伝を招いたのかもしれませんね。
卜伝は室町幕府十三代将軍・足利義輝にも剣を教えたとされています。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
義輝は天文五年(1536年)生まれで具教と歳も近く、いずれか一方が「アイツが名高い剣豪に剣を伝授されたならば私も負けていられない」と考えて、呼び寄せたとしたら面白いですね。
義輝=後醍醐天皇と敵対して室町幕府を作った足利氏の末裔
具教=後醍醐天皇に味方し続けた北畠氏の末裔
生まれからして何やら因縁めいていますので……と実は具教は卜伝だけでなく、新陰流の創始者・上泉信綱からも剣術を学んだとされるので凄まじい気合いです。

上泉信綱/wikipediaより引用
上泉信綱も永禄七年(1564年)6月17日に本覚寺で義輝に剣を披露。
永禄十二年(1558年)~元亀二年(1571年)あたりまで近畿にいたようですので、その間に伊勢で具教に教授したのかもしれません。
そこまで剣術好きな北畠具教は、一体どれほどの剣の腕前だったのか?
というと残念ながら明確な答えはありません。
武家を束ねる大名であるからには、武芸に優れているべしと考えるのも自然なこと。
純粋に自分を鍛えるためだったことも十分に考えられます。
永禄六年(1563年)に父・晴具が亡くなった際、服喪のためとして朝廷の官職から退き、嫡子・具房に家督を譲りました。
具教も実権は手放していませんので、後年の家督争い防止の意味合いが大きかったと思われます。
織田軍に攻められる
こうして父の背中を見ながら心身を鍛えていた北畠具教に、じわじわと新たな脅威が迫ります。
永禄十年(1567年)春から、滝川一益を先陣とした織田軍の伊勢侵攻が始まったのです。

滝川一益/wikipediaより引用
一益は調略も併用しながら北伊勢の攻略を進めており、具教もジリジリと脅威を感じていたことでしょう。
その結果、
◆長野氏には信長の弟・織田信包(当時は信良)
◆神戸氏には信長の三男・織田信孝
がそれぞれ養嗣子として入ります。
完全にお家乗っ取りです。
なんせ北畠氏から長野氏へ入っていた具藤は追放されてしまっている程で、生命があっただけまだマシとも言えるでしょう。
あるいは「弟の命を取らないでおいてやるから伊勢をよこせ」といった含みがあったのかもしれません。
滝川一益が北伊勢を攻略している間に、織田信長が本人自ら長島本願寺(長島一向一揆)へ攻撃していたのです。
もはや北畠氏に一刻の猶予はないも同然でした。
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