北畠具教

北畠具教/wikipediaより引用

戦国諸家

伊勢の戦国大名・北畠具教の生涯~信長に乗っ取られた南北朝以来の名門武家

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弟の裏切り

織田氏の脅威に耐えきれなくなったのは、北畠具教本人ではなく周囲のほうが先でした。

永禄十二年(1569年)5月、具教の弟で木造城主の木造具政 (こづくり ともまさ) が、家臣たちの進言を受けて織田家に内通してしまったのです。

そして信長は永禄十二(1569年)年8月、いよいよ北畠討伐軍を起こしました。

織田信長/wikipediaより引用

具教は具房と共に大河内城(三重県松阪市)に籠城するしかありません。

戦闘の経過についてはリアルタイムの史料がほぼなく、『信長公記』や『勢州軍記』で食い違う部分があり、判然としていません。

ざっくりまとめると、信長は夜討ちや兵糧攻めなどの手を尽くすものの結局、大河内城は落ちなかったとされています。

秋雨で鉄砲が使いづらかったのも理由の一つ。

守る北畠氏も、大河内城にかなり潤沢な武器や兵糧を用意していたのでしょう。

彼らには通常の武家だけではなく、公家や国司としての誇りや意地もあったのかもしれません。

最終的には同年10月に和睦しましたが、これは朝廷の仲裁によるものという説もあり、両者とも納得していなかったはず。

和睦の条件は

◆大河内城を織田氏に明け渡すこと

◆信長の次男・茶筅丸(具豊のち信雄)を具房の養嗣子とすること

伊勢の統治を任された信長次男・織田信雄/wikipediaより引用

であり、北畠氏にとっては「命があるだけありがたいと思え」と言われているようなものでした。

とはいえ北畠氏は表立って争うことは選ばず、具教も元亀元年(1570年)に出家して矛を収めています。

また、(1573年)の織田軍による長島本願寺攻めの前には、具教・具房父子が織田方として調略に動いたこともあったようです。

調略についてはあまり良い結果は得られなかったようですが、この頃の北畠氏と織田氏は比較的友好的な関係だったといえるのではないでしょうか。

天正三年(1575年)には具房が北畠氏の家督を具豊に譲り、具教のいる三瀬館(多気郡大台町)に移りました。

ここで伊勢国司としての北畠氏は滅んだとも捉えられます。

 


裏工作で身を滅ぼす?

北畠具教は大人しく信長に従ったのか?

というと、それよりもマズイことに、その後「具教は武田信玄と通じた」とか「熊野勢の蜂起を進めた」などの風聞が立ち、信長に疑われてしまいます。

よりにもよって信玄との接近は信長にとっては最大の懸念事項。疑いを持たれるだけでも危険です。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

そしてその懸念は当たってしまいます。

天正四年(1576年)11月25日、具教は、信長の命によって北畠氏の旧臣らに襲撃されました。

具教は自ら剣を取り、19人を切り伏せるという凄まじい死闘を演じ、力尽きると、旧臣の藤方刑部少輔に討ち取られてしまうのです。

息子の具房は助命されたものの幽閉され、結局、解放された後、天正八年(1580年)1月5日に京で亡くなります。

北畠氏の旧臣に担がれることを警戒したのでしょう。

いくら剣術を磨いても、結局、戦略や戦術に長けていない限り、大名としては心もとない……とは、なんとも切ない終わりですね。

最後に……この先は余談です。

具教の剣の師匠とされる上泉信綱の弟子には

◆疋田流(疋田新陰流)の開祖・疋田景兼

◆タイ捨流(新影タイ捨流)の開祖・丸目長恵

◆柳生新陰流の開祖・柳生宗厳

などがいて、彼らの流派も枝分かれなどを経て現代に伝わっています。

後に具教の墓を作ったり供養したりした地元民がいたようなのですが、もしかするとその中には

「我が流派があるのは、信綱様に一の太刀を伝えてくださった具教様のおかげ」

と考えた門徒たちがいたのかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】

谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長軍の司令官: 部将たちの出世競争 (中公新書 1782)』(→amazon
『戦国武将事典 乱世を生きた830人 Truth In History』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典

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