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信長公記 皇室・公家

信長から光秀へ「惟任日向守」が贈られた蹴鞠の会 信長公記123話

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光秀、長秀、広正に与えられた九州名族の姓

注目は以下3名の武将ですね。

・明智光秀→惟任これとう姓と日向守
・丹羽長秀→惟住これずみ
・簗田広正→別喜(戸次/べつき)姓

光秀と長秀については、既にご存知の方も多いでしょう。

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簗田広正はその二人と比べると知名度では劣りますが、おそらく若い頃から信長に仕えていたと思われます。

金ヶ崎の退き口】では殿(しんがり)の一員を務めていますし、地道に功績を積み上げたタイプという印象です。

織田信長を祀った建勲神社でも三十六功臣の一人に数えられていて、以下の武将たちと似たような存在感と申しましょうか。

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注目は、3名に与えられた姓の意味ですね。

いずれも九州の名族です。

1582年に【本能寺の変】が起きたため、織田家が直接九州を攻めることはありませんでしたが、「いずれ乗り込もうとしていたのでは?」という信長の意図を少しだけうかがうことができましょう。長秀についてはこの賜姓を一度断った話も有名だったりします。

また、光秀の没後は【日向守】が呪われた官職名だとして、他の武士から忌み嫌われます。そりゃ、そうですわな。縁起でもない名前をつけて災厄があったら目も当てられません。

しかし、これを平気で受けたのが戦国最強の暴れん坊として知られる水野勝成です。

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勝成は信長から感状を貰ったこともあり、彼らと同年代で生きていたら興味深かったんですけどね……。

次回からもしばらく、外交や政治に関する話です。

戦の話題に比べると地味ですが、信長個人や織田家の方針、登場人物の性格などを推し量る上で、こういった回も重要になってきます。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon

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