絵・富永商太

武田・上杉家

武田信玄53年の生涯をスッキリ解説【家系図付】戦国最強甲斐の虎 そのリアル

更新日:

戦国時代に数多いた大名たち。

その中でも武田信玄と上杉謙信が破格の扱いをされるのはナゼなのか?

日本の歴史という大きな視点に立てば、
織田信長
豊臣秀吉
徳川家康
の三英傑が与えた影響は極めて大きく、逆に信玄と謙信は重要な存在感を発揮しきれておりません。

あくまで一地方の有力者と考えた方が自然であり、例えば受験で取り上げられるような際立った功績もない。

にもかかわらず【甲斐の虎】信玄と、【越後の龍】謙信は、やっぱり別格!

では、史実の武田信玄とは、どんな一生を送ったのか?

本稿では53年に及ぶ生涯をマトメてみました。

※本文では信玄の事績を【流れで追う】ことに主眼を置き、その他のちょっとした疑問等については別項目でマトメております。

よろしければ最後までお付き合いください。

 

名門・甲斐源氏の重厚感

まず、信玄が別格扱いされる理由を“血”の面から少しだけ掘り下げてみますと……。

浮かんでくるのが
【名門・甲斐源氏
というイメージです。

おそらくそれは我々にだけでなく、信玄が生きた戦国時代にも有利に働かせられたでしょう。

実際、信玄が関東の佐竹氏に助力を求める時、書状に
「ご先祖様は一緒でしょ」
という一節を入れたりしております。

では、そのご先祖様とは誰なのか?

源義光です。

新羅三郎とも呼ばれる甲斐源氏の初代・源義光/wikipediaより引用

甲斐源氏は、もともと清和源氏を祖として甲斐に根付いた源氏一族の一つですが、その始祖が源義光でした。

この源義光は源義家の弟でもありまして。
源義家の子孫には、あの源頼朝がおります。

つまり武田家は、将軍家と親戚にあたるわけですね(ただし頼朝には一族を誅殺されたりしている)。

ややこしいので系図でちょっと整理しておきましょう。

では信玄は甲斐源氏の何代目なのか?

源義光を初代として考えると、第19代当主であり、甲斐武田氏としては16代になります(記事末に20代までの系図あり)。

そんな一族の長というだけで特別な風格を伴うでしょうし、戦場においても伝統というのは目に見えぬカタチで相手を圧した……と思うところですが、実際はそんなにカンタンなことではありませんでした。

信玄が生まれた頃、甲斐は混乱の真っ最中。
父・武田信虎が今川勢に攻められ、窮地に陥っていたのです。

 

今川氏に攻められる最中に要害山城で生誕

甲斐国。
現在の山梨県は、四方を山に囲まれ、甲府盆地は、夏暑く、冬寒しという厳しい気候で知られます。

大永元年(1521年)。
この国を治める守護大名の武田信虎は28才になっておりました。
と、同時に彼はこのとき、大変な危機の最中にありました。

福島正成(くしままさなり)率いる今川勢に攻められ、敵軍が甲府まで迫っていたのです。
今川義元今川氏真でお馴染み、あの今川です。

信虎は懐妊中の正室・大井夫人を積翠寺要害山城に避難させました。

甲斐には城がない――そんなイメージをお持ちの方もおられますが、躑躅ヶ崎館の背後に、峻険な山と要害山城があったのです。

※赤いマークが躑躅ヶ崎館で、紫が信玄の生まれた要害山城

同年の1521年11月3日、大井夫人は避難先で無事男児を産みます。
幼名を太郎(or勝千代)と名付けられたこの男児が、のちの信玄。以降、本稿では「信玄」に統一して表記します。

妻子がここまで追い詰められるほど窮地に陥った信虎ですが、領内での二度の戦いでようやく今川勢を撃退、甲斐国には平穏が戻りました。

信玄の幼少期については謎が多いです。
伝説的な話は残されているものの、史料そのものが少ない。

最初の結婚は天文2年(1533年)、相手は、関東地方の名門・扇谷上杉朝興(ともおき)の息女でした。
が、この正室は出産時に母子ともに亡くなってしまいます。

それから三年後の天文5年(1536年)、元服して晴信と名乗ります。
室町将軍・足利義晴から「晴」の字を偏として賜り、同年七月には、左大臣・転法輪三条公頼(きんより)の二女、通称・三条夫人を継室に迎えました。

扇谷上杉と京都の公家という、2人の結婚相手を見てみますと、両家共に名家であり、信虎が嫡男を重要な位置づけとしていたことが窺えます。

信玄の初陣は『甲陽軍鑑』によれば元服と結婚と同じ、この年のこと。
武田家嫡男としてデビューを飾った記念すべき1年と言えるでしょう。

要害山城の復元予想図(お城野郎連載より引用)

 

父の追放

信玄の父・信虎は、なかなか苦労をしてきました。

わずか14才で家督を継ぎ、叔父はじめ国人の叛乱を抑え、甲斐を統一。
そのあとは周辺諸国に進出し、今川氏や北条氏と争いを繰り広げてきます。

天文10年(1541年)。
この信虎が、信玄によって追放されるという事件が起こりました。

父が子を殺し、子が父を殺すと云われる戦国時代ではありますが、しかしそこまで頻繁に親子が対立していたわけでもなく、信玄の父追放は悪逆非道の行為として、上杉謙信はじめ多くの人から非難されてきました。

しかし、そこに至るまでには様々な理由がありまして。

武田信虎/wikipediaより引用

武田信虎は戦いの日々で甲斐を統一!なぜ息子に国を追い出されたのか?

日 ...

続きを見る

『甲陽軍鑑』によれば、信虎は信玄ではなく弟の信繁を偏愛していました。
廃嫡すらしかねない状況に信玄が父の追放を決めた、とされています。

信虎が残忍な性格で、妊婦の腹を切り裂くような悪行を重ねていた、という話も伝わっています。

こうした動機は、後世の後付のような創作を感じさせます。

妊婦の腹を割くというのは悪逆人物の行動テンプレートのようなものです。
信玄の行為を正当化させるための脚色ではないでしょうか。

また、近年の研究では、百年に一度と言われるほどの飢餓が、この事件の背景にあったとも言われています。

信虎追放まで数年間、凶作、災害が相次いでしました。
にも関わらず、戦は止むことなく、ありとあらゆる階層において高まる不満。

このタイミングで信虎を追放し、強制的に領主を交替、それと同時に【交替に伴う徳政】を実施する……そうすることで、クーデターに対する理解を得ようとしたわけです。

代替わりでの徳政(借金チャラ)は当時ちょいちょい見られたものです。
冷静で合理的な判断のもと、信玄は父を追放したのでした。

 

信濃攻略

天文11年(1542年)。
父を追放し、家督を相続した信玄は、いよいよ攻勢を開始します。

まず攻めたのが、諏訪頼重です。
諏訪家には妹の禰々が嫁いでおり、夫妻の間には嫡男・寅王丸が生まれたばかりでした。

姻戚関係を結んだ相手を攻めるとなると、なかなか悪どいように思えますが、信玄にも言い分はあります。

頼重は信虎追放の混乱の最中、同盟していた信玄や村上義清と無断で、敵方であった上杉憲政と講和。
先に裏切ったのは諏訪だ――という言い分が成り立ちます。

信玄は諏訪に侵攻すると諏訪頼重を切腹に追い込みました。

諏訪氏は寅王丸に継がせることとなっていました。
が、信玄はこれも反故にします。

頼重の妹である諏訪御寮人を側室とし、彼女との間に生まれた男児(のちの武田勝頼)に諏訪家を継がせるのです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

諏訪を取った信玄の信濃侵攻は止まりません。

・天文12年(1543年) 信濃国長窪城主・大井貞隆を攻め降伏させ、望月昌頼を追放

・天文13年(1544年) 北条氏との和睦に至る

・天文14年(1545年) 4月、伊那郡の高遠城主高遠頼継、福与城主・藤沢頼親を降伏させた

・天文14年(1545年) 今川氏と北条氏の対立である「第二次河東一乱」)を仲裁

・天文15年(1546年) 佐久郡の内山城主・大井貞清を降伏させる

・天文16年(1547年) 佐久郡の志賀城主・笠原(依田)清繁を攻撃。笠原を支援する関東管領上杉氏の連合軍も撃破する。

・天文16年(1547年) 「甲州法度之次第」を制定(26ヵ条本と55+2ヵ条本があり、今川仮名目録の影響を受けている)

順調に見えた信玄の道のりですが、この後、二度の手痛い敗戦を喫します。

最初は天文17年(1548年)。
村上義清を攻めた「上田原の戦い」において、重臣の板垣信方&甘利虎泰らを失う惨敗を喫しました。

この敗戦による影響は甚大で、信濃経営すべてがオシャカになるほどの危機に陥りますが、直後の「塩尻峠の戦い」で挽回、反武田の動きを封じます。

さらに天文19年(1550年)。
今度も村上義清方の城である「戸石城」を攻めるものの、一説によれば1千名もの犠牲を出し、撤退。
この大敗北は生涯唯一の軍配違い(作戦ミス)として知られ「戸石崩れ」と呼ばれました。

こうなると
『村上義清って何者ぞ?』
『信玄に二度も勝つなんて、謙信以上か?』
なんて思ってしまいますが、信玄にも若さゆえの驕りがあったのではないでしょうか。

実際、村上義清の反撃もここまで、です。

信玄は、天文20年(1551年)に戸石城を落とし、天文22年(1553年)には葛尾城も陥落させます。
没落した義清は、越後の長尾景虎を頼り、落ち延びるほかありませんでした。

なお、このとき目覚ましい活躍したのが真田幸綱真田幸隆)です。
真田昌幸の父であり、真田信之真田信繁兄弟の祖父になりますね。

ドラマ『真田丸』では、草刈正雄さん演じる昌幸が、信玄の幻影を追うように謀略の限りを尽くしておりましたが、幼き頃より信玄に仕え、目の前で神業のような采配を見ていたら、そりゃあ憧れもするでしょう。

宗教的な立場の違いから、武田信玄のことをかなり嫌っていた宣教師ルイス・フロイスですらも
「信玄は家臣たちから大いに尊敬される」
と記しているほどです。

ルイス・フロイスは信長や戦国の世をどう描いた?宣教師の『日本史』

1 ...

続きを見る

外交においても、その能力を遺憾なく発揮する信玄。
天文23年(1554年)、武田信玄と北条氏康、そして今川義元の三者は互いに婚姻関係を結び「甲相駿三国同盟」を締結させました。

もっともこれは今川家の軍師的僧侶・太原雪斎の発案とされておりまして。
武田、今川、北条ともに「敵を絞りやすくなる」というメリットを享受します。

後顧の憂いなく、信玄の目は北へ。
そうです、越後・上杉謙信との激突です。

 

激突! 川中島

村上義清を追い落とし、勢いに乗る武田家。

しかし、それが正解だったのか?
と問われれば、必ずしもそうとは言い切れないのが歴史の面白いところでしょう。

義清が頼った相手・長尾景虎とは、信玄の永遠のライバル・上杉謙信です。
本稿ではこの時点から上杉謙信と表記します。

イラスト/富永商太

天文17年(1548年)、兄・晴景を引退させて家督を継いだ謙信。
彼は武田に追われた村上義清、高梨政頼らを受け入れます。

このまま武田が勢力を伸ばすことになれば、越後も危ういのではないか?
自らを頼ってきた信濃の者を見捨てるわけにはいかないのではないか?

そう考えた謙信は、信玄との対決に挑みます。

両雄決戦の地は、戦国ファン以外にも知られている川中島。
信玄は川中島より北の信濃を領有しており、この地はいわば国境線上のボーダーラインだったわけです。

さて、冒頭の
「なぜ信玄と謙信は、日本史の教科書に掲載されるのか?」
という話ですが……。

最も大きな要因は、川中島の戦いの人気ではないでしょうか。
日本人にとって戦国ロマンといえば川中島の戦い――そんな意識すら感じてしまいます。

ただし、この合戦は人気と知名度ほど、歴史的に見て重要ではないと思われます。

天下の趨勢を決めたワケでもない。
京都のように政治的に大切なエリアでもない。

それでいて戦国ロマンには絶対欠かすことのできない合戦。

実は、何度、戦ったのか?ということすらハッキリしていません。

しかし、それを言い出したら始まりませんので、ここでは通説に従い、5度の戦いを端的にマトメさせていただきます。

それぞれの詳細については【城の奪い合い】という面白い観点から非常によくマトメられた「お城野郎さん」の記事リンクがございますので、個々にご参照ください。

第一次合戦:天文22年(1553年)

Alias(別名):「布施の戦い」あるいは「更科八幡の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信(謙信本人が出陣したかどうかは諸説あり)
When:天文22年(1553年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:武田信玄に追われた村上義清の旧領復帰を目指す
What:放火等はあったものの、本格的な戦闘には至っていない。武田側は、村上領が奪われることを阻止。上杉側にとって村上義清の旧領復帰は失敗したものの、北信濃国衆の離反を防ぐことができた

【参照記事】

第一次川中島の戦い~信玄も謙信も【城】中心に動くからこそ

「 ...

続きを見る

 

第二次合戦:天文24年(1555年)

Alias(別名):「犀川の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:天文24年(1555年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:「甲相駿三国同盟」締結で後顧の憂いをたった武田と、離反した善光寺奪回をめざす上杉の戦い
What:武田方は食料調達、上杉方は家臣離反といった不安材料に悩まされ、両者ともめぼしい戦果をあげられず。今川義元の仲裁により和睦

【参照記事】

第二次川中島の戦い たった1つの山城が戦の趨勢を左右した

& ...

続きを見る

 

第三次合戦:弘治3年(1557年)

Alias(別名):「上野原の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:弘治3年(1557年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:北信進出を目指す武田を上杉が迎え撃つ
What:両軍とも不完全燃焼、戦果をあげられなかった。武田方が優勢であり、信玄は北信濃への進出を強める

【参照記事】

第三次川中島の戦い~俺はSHINANO生まれ♪ KITA-SHINANO育ち♪ 不満分子はだいたい・・・♪

& ...

続きを見る

 

第四次合戦:永禄4年(1561年)

Alias(別名):「八幡原の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:永禄4年(1561年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:関東進出を狙う上杉を、武田が迎撃、激突する
What:最大の戦いで、一般的に「川中島の戦い」というと、大半の人がこの戦いを連想するハズ。ただし、軍記ベースで誇張され気味で、実態は不明な点がも多い。「啄木鳥戦法」が有名で両者多数の死者(武田:4千、上杉:3千)を出すものの、決着はつかなかった。これが両雄最後の直接対決となる
Notable Deaths(主要死者):武田信繁、山本勘助、室住虎光

【参照記事】

第四次川中島の戦いがキッチリわかる!武田・上杉の城戦略から真相が見えてくる

第 ...

続きを見る

 

第五次合戦:永禄7年(1564年)

Alias(別名):「塩崎の対陣」
Who:武田信玄VS上杉謙信
When:永禄7年(1564年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:両者にらみ合いのみ

【参照記事】

第五次川中島の戦いは… 地味どころか関東・越中も巻き込んだ壮大な大戦(おおいくさ)!?

戦 ...

続きを見る

総括としましては……。

川中島の戦いとは、どこまでの範囲が含まれるのか。
何をもって合戦とみなすのか。
その基準すら変動しかねないため、はっきりと特定できないというところです。

後世の人々がロマンを託したがゆえに、話を盛った創作部分が大きすぎて、実態がよくわからなくなってしまったふしもあります。

例えば信玄と謙信の一騎打ち。
立派な銅像までありますが、これも想像の産物とされています。

一般的に最も有名なのが、第四次合戦です。
一騎打ちも第四次を想定したと考えられ、この戦いは信玄の弟・武田信繁や、山本勘助らが討ち死にする大激戦となりました。

両者ともに大きな犠牲を払った川中島の戦い。

結果からいうと、実質的には武田方の勝利と言えましょう。

激戦を通して、北信濃の支配を固めていったのは信玄です。
謙信は強いけれども、地域支配のために効果的な陣地や城を得られず、足場を固めたとは言えません。

善光寺にしても、謙信が仏像を奪ったのに対し、信玄は寺ごと甲府に移転させてしまっています。

甲斐善光寺

領地を切り取るということに関しては、信玄の方が上手だったのですね。

しかし川中島の戦いが終結する頃から、信玄の身辺には別の重大な問題が起こってきます。
下手をすれば自身が滅ぼされるほどのものでした。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-武田・上杉家

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.