戦国武将の戦略・戦術は【城の展開】から探ると意外な事実が見えてくる――。
そんな視点から迎えた、シリーズ戦国武将の城・武田信玄。
前回の【第二次川中島の戦い(以下の記事参照)】では、
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第二次川中島の戦い1555年|たった1つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した
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武田・上杉両軍が硬直したまま動くに動けず、今川義元の仲介で両軍撤退となったところまでお送りいたしました。
では、武田信玄はおとなしく甲斐に帰ったの? なんて聞いたら
「戦国をナメるな! いぶし銀なワシを見くびるな!」
と一喝されるでしょう。
停戦の盟約など屁とも思っちゃいないのが、我らが信玄公。
第二次戦いの停戦後、さっそく上杉方である北信濃衆の取り込みにかかり、その後はまたもや謙信と緻密な攻城戦が行われました。
弘治3年(1557年)2月15日、信玄が葛山城を攻略したことで始まったとされる【第三次川中島の戦い】です。
当時を振り返ってみましょう!
真田兄弟の祖父が大活躍
第三次川中島の戦いで活躍するのは「真田幸隆」です。
現在は「真田幸綱」表示のほうが一般的ですかね。
皆さんご存知、真田昌幸の父ちゃんであり、真田信之や真田信繁(真田幸村)のじいちゃん。
彼等の本拠地は信濃の小県(ちいさがた)郡にあり、一時は北信濃の名主・村上義清に追放されて上野国(群馬県)に身を寄せたりしていました。
それが武田信玄の傘下に入った頃から徐々に盛り返し、しまいには調略だけで堅城「砥石城」から宿敵・村上義清を追い出し、積年の恨みを果たしたという筋金入りのアウトローです。
信玄は村上義清と対決していたときから幸綱を北信濃方面の先鋒として送り出していました。
まるで地獄から帰ってきたかのように六文銭の旗をチラつかせて北信濃に帰還した真田幸綱。
地元の国人衆は尋常じゃないサバイバル能力を認めたでしょうし、村上義清無き今、現状に不満を抱く彼らにとっては、お近付きになりたい人物だったことは間違いないでしょう。
特に
「本家とうまくいっていない」
「相続が少ないわりに軍役が多い」
「現当主がバカだ」
といった現状に悩み多き「分家筋の国人衆」にとって真田幸綱は救いの神。
幸綱はそんな彼等に向かって説きます。

真田幸綱(真田幸隆)/wikipediaより引用
幸綱'sラップ
「YO! YO! YO! 悪いのは君じゃない♪
村上や上杉なんぞを名主に仰ぐ無能な本家筋が悪い♫
うち(真田家)なんか長年不遇だったけど武田に味方した途端に運が開けたんだぜ🎼
甲州人の下につくのが不服?それなら武田を利用してやると考えればいいのさ♪
お館様も大いに構わないと言っている♬
君も武田に味方してその不遇な生活とおさらばしようぜ♪」
実際、名主・村上義清に逆転サヨナラ弾を打ち込んだ地元出身の男の誘いです。
この説得力のある言葉に乗らない手はありません。
それに家名を残すことも家の大事です。
北信濃の国人衆がどちらに転んでも家名が残るように上杉と武田に別れる道を選んでも何の不思議もありません。
そして続々と武田方の味方になると申し出る国人衆が現れました。
彼らを総称して「信濃先方衆」と呼び、真田幸綱がリーダーとなって、その後の川中島の戦いを有利に進めて行くことになります。
手始めは葛山城だ
真田幸綱は第二次川中島の戦い後、早速、葛山城を拠点とする国人衆「落合氏」に調略を仕掛けます。
この葛山城は第二次のときには「旭山城」の付け城として上杉謙信も本陣を置いていた山城でしたね。
停戦の合意で旭山城はすでに破却されていますので、この葛山城が上杉の境目の城となります。
葛山城を拠点にしていたのは落合治吉(おちあいはるよし)という国人でした。
ここの当主がどうも分家の親戚衆とうまくいっていない――そんな噂を聞きつけた真田幸綱は、親戚衆を武田方に離反させることに成功。
葛山城攻略のお膳立てをしています。
これはほんの一例ですが真田幸綱が調略した北信濃国人衆は数多く、あまりに多過ぎて、いつ寝返りを約束したのかイマイチ分かっていない国人衆だらけです。
まぁ、調略は内密にやるものなので、そりゃ当然なんですけどね。
この第3回川中島の戦いよりずっと以前に調略に成功していた可能性もあり、主な例を挙げてみましょう。
鞍骨城の清野氏(埴科郡方面・以下「松代方面」で統一)
寺尾城の寺尾氏(松代北部)
春山城の綿内氏(須坂方面)
※本家の井上氏(井上城)ともめていた
鞍骨城と春山城は古くからこの地域の堅城として
「一に春山、二に雨飾、三に春山」
と数えられていた名城です。
武田方は幸綱の働きにより、戦わずして実に二つの堅城を手に入れたのです。
真田本城から松代方面へのルートを確保せよ
ここまで進めて、皆さんすでにお気づきでしょうか。
真田幸綱の調略先は松代方面が多い。
もちろん幸綱は信玄の指示通りに調略を仕掛けています。
では信玄の意図はどこにあったのでしょう?
地図をよぉくみると一本の筋が見えてきます。
そうです。真田の本拠地、小県郡の真田本城から峠越えで松代方面に入るルートです。
第二次川中島の戦いのときにに、信玄の問題は善光寺平攻略ルートが犀川渡河に限定されることだ――と私は書きました。
しかし松代方面から寺尾城、春山城方面に向かい千曲川沿いに北上すれば、川中島や犀川を通過することなく越後方面へ進出することが可能になります。
これで武田信玄の戦略が大幅に広がったのです。
「さっさと攻め落とせ」信玄からの圧迫書状
破竹の勢いのように見える真田幸綱ですが、一人だけどうしても寝返らない国人がいました。
先ほど紹介した「一に春山、二に~」の二番目 ・雨飾城の城主、東条信広です。
雨飾城は、雨厳城とか尼巌城、あるいは尼飾城とも書きますね。
以下の画像がそうです。
おそらく東条家は結束が固く、調略の取っ掛かりとなる親戚同士の内輪揉めがなかったのでしょう。
さらに厄介なことに居城・雨飾城は三方が切り立った崖になっており、攻め口は尾根伝いの一つだけ。
攻め口が一つということは攻撃ポイントが限定されてしまうので守備側はそこだけを守ればいいので少人数でも戦えるのです。
一言でいえば要害堅固。
絶対に力攻めしたくない雰囲気がプンプン匂う城です。現地に行くと、今も漂ってます。
真田幸綱が調略に手こずっていると、案の定、甲府の武田信玄より催促の手紙が来ます。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
要約するとこうです。
信玄's書状
幸綱へ
さっさと攻め落とせ
信玄より
って、怖っ!
この信玄の催促の理由ですが、考えられるのが上杉謙信の動向です。
謙信は、なんとこの時期、家臣同士の土地争いに嫌気がさし、すべてを放り出して高野山に旅立っているのです。
ここで信玄の大戦略を思い出してみましょう。
「謙信の留守を狙え!」
いわば絶好のチャンスなのです。
この最大の機会に真田幸綱の調略が思わしくないとなればもう力攻めしかありません。
後詰め(謙信)は高野山の彼方です。
来るわけがありません。
城への力攻めは「愚策」の一つですが、武田信玄ほどの人物が下した「城攻め」の命令は、確実な情報収集に基づいて出されていたのですね。
真田幸綱、痛恨のミス!
力攻めを指示された真田幸綱は早速攻城戦へと取り掛かります。
そして何度か失敗しています。
落城までの経緯は記録にないので分かりませんが、「さっさと落とせ」という無茶な命令を出された真田幸綱もさぞかし困ったでしょう。
ここで真田幸綱は、おそらく上司の小山田虎満に相談したと思います。
小山田虎満は武田家譜代の直臣で、後に武田勝頼を裏切る小山田信茂とは別系統の小山田氏です。

小山田虎満(昌辰)/wikipediaより引用
「上原」も名乗っていたので上原氏と紹介されることもありますが、同じ人物です。
この虎満は当時、信濃佐久にある「内山城」の城代でした。
その内山城も、切り立った崖の上に築城された山城で、虎満はこの内山城を攻城し、そのまま城代となりました。
雨飾城と似たような城の攻城経験があり、また雨飾城の攻略後、小山田虎満も雨飾城城代となって松代方面の指揮を執ったという経緯があるため、真田幸綱が小山田虎満に教えを乞い、攻城戦の実績がある兵を借りた可能性まで考えられます。
現代になって、雨飾城からは大量に焼けた米が発掘されたようです。
武田流攻城術の「放火」戦術が使われたのは間違いないでしょう。
城下町から何から放火しまくるという、武田の攻城戦はかなり酷い結果になることも覚えておくと、お城巡りの時の妄想も広がります(笑)。
武田左翼軍、猛攻開始!葛山城落城
雨飾城を落として善光寺平の南東部を固めた武田信玄は、早速、動きました。
上杉方が雪で動けない真冬を狙い、先ほどの旭山城の付け城「葛山城」に馬場信房を派遣して猛攻をしかけたのです。

馬場信春(教来石景政)/wikipediaより引用
馬場信房は武田家の譜代の家老で、この頃は松本城の前身「深志城」の城代でした。
松本から川中島までは結構な距離ですが、犀川沿いに下っていくと川中島の西方に出ることができます。その中間の位置に牧城という信濃国人衆・西条氏の居城がありました。
信玄は、武田方の味方になった西条氏には松代方面に移ってもらって、牧城まで馬場信房を前進させます。
後に馬場信房はこの牧城を改修して武田流築城術のすべて注ぎ込んだ「牧野島城」を築城。
現在でも牧野島城の遺構はよく残っており、武田流築城術を学ぶのに訪れるべき城の一つです。
馬場信房に、この牧城から出て葛山城を攻めさせたのです。
上杉軍という後詰めがいなければ、堅い葛山城でもあっさり陥落するものです。
実際、水の手を断ち切られ、火をかけられた落合氏の城兵はほぼ全滅したと言われています。
城の水の手というのは極秘中の極秘ですので、真田幸綱が調略した落合氏の親戚衆の手引きがあったのは間違いないでしょう。
このように「城の水の手を断つ」という攻城戦術を見たら内応者の存在を疑いましょう。
逆に内応者を得られないと雨飾城の攻城戦のように「水の手を断つ」戦術が使えず、苦戦する原因にもなるのです。
武田右翼軍、進撃開始! 犀川渡河は危険?
次に武田の右翼、松代を完全に手中に収めた真田の信濃先方衆が千曲川に沿って北上します。
この付近には島津氏という上杉方の国人衆がいましたが、島津氏は千曲川の渡しを管理していた居館・長沼城を捨てて、詰めの城・大倉城に籠もります。
しかし勢いに乗って迫ってくる武田の軍勢と大雪で、上杉の後詰めが期待できない状況にあっては越後まで落ちていくしかありませんでした。
武田信玄はこの間、もちろん力攻めだけを指示してはいません。
善光寺の北方、越後との国境深くまで調略の手を伸ばし、残る北信濃国人衆も親戚同士の内輪揉めにつけこんで次々と味方に付けていきます。
中野、飯山方面では高梨氏の親戚衆である山田氏と木島氏の調略に成功し、要衝・飯山城を攻めます。
飯山城は江戸時代には飯山藩として信越国境の押さえとなる独立した藩として存続していました。
この一件だけでも飯山城が交通の要衝としての重要性が分かります。
ここを奪われると本当に越後はピンチなのです。そして……。
お前らはワシを本気で怒らせたようだ 逆襲の謙信
信玄に寄せられ、警戒警報が鳴りっぱなしの越後国。
高野山から戻り、改めて家臣の結束を確認した上杉謙信は雪解けを待ってついに出撃します。
まずは飯山城を全力で救援。
勢いそのままに、島津氏の「長沼城」を奪い返します。
そして善光寺平に戻ってきた謙信は横山城に布陣すると、奪われた葛山城を力攻めし、再度、取り戻しました。
謙信は、この辺り一帯を押さえるにはやはり最前線を犀川にして、そのためには第二次川中島の戦いの和睦条件で破却した旭山城が必要と考えて再興し、ここに本陣を移したのです。

上杉謙信/wikipediaより引用
そして、その後は電光石火で次々と城を奪い返して行きました。
この間、武田方の武将は何をしていたのか?
「信玄が決戦を避けた」戦いと言われているが
実は武田方は城郭戦のセオリーである後詰めの布陣を敷いていません。
上杉の攻撃が早くて強力だったというのもありますが、それ以上に地元の国人衆だけを残して武田の右翼も左翼も退却していたので、ほとんど何も抵抗がなかったというのが真相でしょう。
武田本隊に決戦を挑みたい上杉謙信は善光寺平南部まで深く攻め込み、当時、改築中であったといわれる後の海津城、松代の香坂城も破壊します。
さらに雨飾城の攻略にまでかかりますが、さすがの堅城。
これは落とすことができませんでした。
ただ、謙信の目的はあくまで武田の本隊との決戦ですので、雨飾城攻略に腰を据えて取り掛かるつもりはありません。
結局、善光寺平の南部、松代方面の奥深くまで進むも、武田本隊に遭遇することなく飯山城まで撤退しました。
この第三次川中島の戦いは、第二次のように武田方が平野部に出て来ず、籠城したり撤退したりということで「信玄が決戦を避けた」とも言われています。
果たしてそうでしょうか。
武田信玄の決戦を避けた意図を考える必要がありそうです。
ほとぼり冷めるまで秘湯めぐり……なワケない
ここでまた信玄の大戦略「謙信の留守を狙え」という言葉を思い出してみましょう。
裏を返せば「謙信がいるときは動かない」ということです。
本拠地甲斐の国から遥かに離れた地で謙信と決戦など、補給がいくらあっても足りません。
善光寺平へ通じる補給ルートを次々と確保してはいますが、肝心の海津城がまだ築城中で完璧ではない。
一方、謙信も常時、北信濃に滞在できないことはこれまでの行動で分かっています。
謙信が善光寺平にいるときは、じっと引きこもっていればいいのです。
今や盟友の北条氏康に関東で暴れてもらうという戦略も使えます。

北条氏康/wikipediaより引用
では決戦を避けた武田信玄は、ほとぼりが冷めるまで秘湯巡りでもしていたのでしょうか。
って、んなわきゃーないですね!
実はこの間に信玄は、深志城に本陣を移し、朝廷や幕府に仲介をお願いしたり、せっかく味方になったのに敵地で孤立した北信濃国人衆に対しても救援を約束したり、武田方の武将(真田幸綱や小山田虎満)に細かい戦略を指示したり。
とにかくこまめに手紙を発して総司令官の役割を存分に発揮していたのです。
同時に、越後侵入の新たなルートの開拓も進めております。
深志城からまっすぐ北上するルートで、現在の白馬村方面から山間部を抜けて糸魚(いとい)川沿いに越後に抜けるルートです。
大地震の発生でニュースになった地域ですね。
信玄はこの糸魚川ルートの攻略に、赤備えでお馴染みの勇将・山県昌景を送り込みます。
ここには詰めの城として平倉城(ひらくらじょう)別名・小谷城(おだりじょう)があり、激戦、といっても守備側には上杉方の後詰めが遅れ、山県昌景にほぼ一方的に攻撃(=放火)されて落城しています。
しかし糸魚川ルートは、平倉城で進軍をストップ!

山県昌景/wikipediaより引用
これ以上の越後方面への進軍は上杉と本気の正面衝突になるばかりか、善光寺平の支配というそもそもの目的からも外れてしまいます。
「いつでも越後に攻め込めるぞ!」
そんな脅威を作るだけでいいのです。
糸魚川ルートは平倉城で押さえつつ、信玄は謙信によって奪い返された善光寺平に向かい塩崎城に布陣しました。
山が動いた!でも動かない!川中島へ
第三次川中島の戦いは、最後に【上野原】という善光寺付近で武田と上杉が激突したことになっています。
が、これが諸説あります。
髻山城(もとどりやまじょう)付近の上野原説と、飯山城方面の上野原説です。
髻山城付近説では、上杉謙信は武田方を追い払った後に撤退したとされています。
しかし、あれだけ武田との決戦を望んだ上杉がちょこっと交戦しただけで追撃すらしないなんてありえるでしょうか。
しかもわざわざ旭山城を再興して最前線に再設定した犀川を簡単に突破されたことになります。
一方、飯山城付近説では、千曲川沿いに北上した右翼の信濃先方衆が、逆時計回りに上杉方の包囲を画策して、飯山城付近で千曲川を渡ったところで上杉方と交戦、撃退されたとされています。
中野付近に布陣していた武田方右翼の動き(犀川を避けて北上)を見ていくと、こちらの説の方が連続性があってしっくりきます。
が、これではもはや場所が離れすぎていて川中島の「か」の字もありません。
「上野原の戦い」は後年作られた講談などで「第三次川中島の戦い」を演出するため、無理やり川中島での戦闘を設定したとも言われてます。
しかし川中島の戦いを丹念に見ていけば、平野での決戦などそもそも設定する必要なんてありません。
これまで見てきたように川中島の戦いは攻城戦が主体なのですから。
結局、武田信玄は、西方では平倉城を得て糸魚川ルートを押さえることに成功し、要塞化を進めていた松代方面では謙信に攻められたものの、堅城・雨飾城で持ちこたえることに成功。
北信濃の国人衆も真田幸綱の活躍により多数味方につけ、越後方面への進撃ルートも複数確保することに成功しました。
一方、上杉謙信は越後方面への要衝・飯山城を死守し、善光寺平には旭山城を橋頭堡として確保しましたが、北信濃の国人衆の大半を武田方に奪われた状態で、ついに有名な第四次川中島の戦いに挑むこととなります。
やはり城攻め主体の陣取り合戦だ
さて、第一次から第三次まで川中島の戦いを見てきましたが、いかがでした?
私の妄想が確かでなくても、川中島の戦いのイメージが変わったと思います。
また、あなたがお城マニアでなくとも、川中島の戦いはこのように城攻め主体の陣取り合戦だったことも分かると思います。
そしてめまぐるしく城の持ち主が変わり、もうどっちがどっちの城だか分からなくなってきて、そっと閉じる……おっと、これが最前線の城のカタチであり、領土を奪い合う合戦のカタチなのです。
最前線の城、特に川中島を取り巻く数々の城は、ほぼすべてどちらかの城攻めを受けたという「戦歴」を持つ正真正銘の戦国の城なのですなぁ。
これだけでもう川中島に3年は住めるというものです。住んだことないけど。
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