武田・上杉家 川中島の戦い

第三次川中島の戦い 全貌がわかる! 真田の調略と信玄の緻密な戦術が凄まじい

お前らはワシを本気で怒らせたようだ 逆襲の謙信

信玄に寄せられ、警戒警報が鳴りっぱなしの越後国。

高野山から戻り、改めて家臣の結束を確認した上杉謙信は雪解けを待って出撃します。

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©2014Google,ZENRIN

まずは飯山城を全力で救援。
勢いそのままに、島津氏の「長沼城」を奪い返します。

そして善光寺平に戻ってきた謙信は横山城に布陣すると、奪われた葛山城を力攻めし、再度、取り戻しました。

イラスト/富永商太

謙信は、この辺り一帯を押さえるにはやはり最前線を犀川にして、そのためには第二次川中島の戦いの和睦条件で破却した旭山城が必要と考えて再興し、ここに本陣を移したのです。

そして、その後は電光石火で次々と城を奪い返して行きました。

この間、武田方の武将は何をしていたのでしょう?

 

 「信玄が決戦を避けた」戦いと言われているが

実は武田方は城郭戦のセオリーである後詰めの布陣を敷いていません。

上杉の攻撃が早くて強力だったというのもありますが、それ以上に地元の国人衆だけを残して武田の右翼も左翼も退却していたので、ほとんど何も抵抗がなかったというのが真相でしょう。

武田本隊に決戦を挑みたい謙信は善光寺平南部まで深く攻め込み、当時、改築中であったといわれる後の海津城、松代の香坂城も破壊します。

さらに雨飾城の攻略にまでかかりますが、さすがの堅城。
これは落とすことができませんでした。

ただ、謙信の目的はあくまで武田の本隊との決戦ですので、雨飾城攻略に腰を据えて取り掛かるつもりはありません。

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謙信 怒涛の反撃ルート/©2014Google,ZENRIN

結局、善光寺平の南部、松代方面の奥深くまで進むも、武田本隊に遭遇することなく飯山城まで撤退しました。

この第三次川中島の戦いは、第二次のように武田方が平野部に出て来ず、籠城したり撤退したりしたことで「信玄が決戦を避けた」戦いと言われています。

果たしてそうでしょうか。
武田信玄の決戦を避けた意図を考える必要がありそうです。

 

ほとぼりが冷めるまで秘湯めぐり……なワケないっす

ここでまた信玄の大戦略「謙信の留守を狙え」という言葉を思い出してみましょう。

裏を返せば「謙信がいるときは動かない」ということです。
本拠地甲斐の国から遥かに離れた地で謙信と決戦など、補給がいくらあっても足りません。

善光寺平へ通じる補給ルートを次々と確保してはいますが、肝心の海津城がまだ築城中で完璧ではありません。

一方、謙信も常時、北信濃に滞在できないことはこれまでの行動で分かっています。

謙信が善光寺平にいるときは、じっと引きこもっていればいいのです。
今や盟友の北条氏康に関東で暴れてもらうという戦略も使えます。

北条氏康の関東制覇!謙信や信玄と争った57年の生涯【戦国北条五代記】

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では決戦を避けた武田信玄は、ほとぼりが冷めるまで秘湯巡りでもしていたのでしょうか。

って、んなわきゃーないですね。

実はこの間に信玄は、深志城に本陣を移し、朝廷や幕府に仲介をお願いしたり、せっかく味方になったのに敵地で孤立した北信濃国人衆に対しても救援を約束したり、武田方の武将(真田幸綱や小山田虎満)に細かい戦略を指示したり、とにかくこまめに手紙を発して総司令官の役割を存分に発揮していたのです。

同時に、越後侵入の新たなルートの開拓も進めております。

深志城からまっすぐ北上するルートで、現在の白馬村方面から山間部を抜けて糸魚(いとい)川沿いに越後に抜けるルートです。
大地震の発生でニュースになった地域ですね。

「そっちに来たか!」という信玄の一手

「そっちに来たか!」という信玄の一手/©2014Google,ZENRIN

信玄はこの糸魚川ルートの攻略に、赤備えでお馴染みの勇将・山県昌景を送り込みます。

ここには詰めの城として平倉城(ひらくらじょう)別名・小谷城(おだりじょう)があり、激戦、といっても守備側には上杉方の後詰めが遅れ、山県昌景にほぼ一方的に攻撃(=放火)されて落城しています。

しかし糸魚川ルートは、平倉城で進軍をストップ!
これ以上の越後方面への進軍は上杉と本気の正面衝突になるばかりか、善光寺平の支配というそもそもの目的からも外れてしまいます。

「いつでも越後に攻め込めるぞ!」

そんな脅威を作るだけでいいのです。
糸魚川ルートは平倉城で押さえつつ、信玄は謙信によって奪い返された善光寺平に向かい塩崎城に布陣しました。

 

山が動いた!でも動かない!武田信玄、川中島へ

第三次川中島の戦いは、最後に【上野原】という善光寺付近で武田と上杉が激突したことになっています。

が、これが諸説あります。

髻山城(もとどりやまじょう)付近の上野原説と、飯山城方面の上野原説です。

「髻山城」付近と考えると、上杉方は武田方の犀川渡河を簡単に許したことになりますが・・・。

「髻山城」付近と考えると、上杉方は武田方の犀川渡河を簡単に許したことになりますが……/©2014Google,ZENRIN

髻山城付近説では、上杉謙信は武田方を追い払った後に撤退したとされています。

しかし、あれだけ武田との決戦を望んだ上杉がちょこっと交戦しただけで追撃すらしないなんてありえるでしょうか。
しかもわざわざ旭山城を再興して最前線に再設定した犀川を簡単に突破されたことになります。

一方、飯山城付近説では、千曲川沿いに北上した右翼の信濃先方衆が、逆時計回りに上杉方の包囲を画策して、飯山城付近で千曲川を渡ったところで上杉方と交戦、撃退されたとされています。

中野付近に布陣していた武田方右翼の動き(犀川を避けて北上)を見ていくと、こちらの説の方が連続性があってしっくりきます。
が、これではもはや場所が離れすぎていて川中島の「か」の字もありません。

「上野原の戦い」は後年作られた講談などで「第三次川中島の戦い」を演出するため、無理やり川中島での戦闘を設定したとも言われてます。
しかし川中島の戦いを丹念に見ていけば、平野での決戦などそもそも設定する必要なんてありません。

これまで見てきたように川中島の戦いは攻城戦が主体なのですから。

結局、武田信玄は、西方では平倉城を得て糸魚川ルートを押さえることに成功し、要塞化を進めていた松代方面では謙信に攻められたものの、堅城・雨飾城で持ちこたえることに成功。
北信濃の国人衆も真田幸綱の活躍により多数味方につけ、越後方面への進撃ルートも複数確保することに成功しました。

一方、上杉謙信は越後方面への要衝・飯山城を死守し、善光寺平には旭山城を橋頭堡として確保しましたが、北信濃の国人衆の大半を武田方に奪われた状態で、ついに有名な第四次川中島の戦いに挑むこととなります。

 

やはり川中島の戦いは城攻め主体の陣取り合戦である

さて、第一次から第三次まで川中島の戦いを見てきましたが、いかがでした?

私の妄想が確かでなくても、川中島の戦いのイメージが変わったと思います。
また、あなたがお城マニアでなくとも、川中島の戦いはこのように城攻め主体の陣取り合戦だったことが分かるとも思います。

そしてめまぐるしく城の持ち主が変わり、もうどっちがどっちの城だか分からなくなってきて、そっと閉じる……おっと、これが最前線の城のカタチであり、領土を奪い合う合戦のカタチなのです。

最前線の城、特に川中島を取り巻く数々の城は、ほぼすべてどちらかの城攻めを受けたという「戦歴」を持つ正真正銘の戦国の城なのですなぁ。
これだけでもう川中島に3年は住めるというものです。

住んだことないけど。

筆者:R.Fujise(お城野郎)

◆同著者その他の記事は→【お城野郎!

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 



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