直江兼続/wikipediaより引用

武田・上杉家

直江兼続の真価は「義と愛」にあらず! 史実に見る60年の生涯まとめ

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豊臣政権にとって「東の切り札」

会津は重要な土地――。
豊臣政権においても、そう認識されていたのがわかるのが蒲生氏郷でしょう。

織田信長の娘を正妻に迎えるほど、若き頃から才知認められていた武将に、その統治が任されたのです。

しかし、それが同時に政宗のプライドを刺激し、両者は険悪な関係となっています。

仙台が東北第一の発展を遂げるのは、あくまで江戸時代以降です。

それまでは何と言っても会津こそが奥州の要でした。

そこを取りあげられて、上方の氏郷が支配する。政宗を筆頭に、奥州の民からすれば我慢ならぬことだったのです。

そして、この氏郷が若くして急死したため、話は余計にややこしくなります。

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氏郷の嫡男であり、家督を継いだ若年の蒲生秀行にとって、会津は重すぎました。

そこで上杉家に取って代わられるのです。

しかし、蒲生家の移封は、彼個人の器量だけでなく、【秀吉が氏郷の正室を側室にしようとして断られた】という怨恨説もあります。

あるいは蒲生秀行が、家康三女の振姫を正室としたというのも、豊臣政権から疎まれる理由として説得力があります。

怨恨説はさておき、複合的な要因があるのでしょう。

伊達や最上を抑える会津に、若年の当主ではあまりに頼りない――石田三成がそう焦燥を募らせたとしても、無理のないところ。ゆえに上杉家を入れた。

このことから、三成はじめとする豊臣政権の意向と、その意を受けた上杉家の動向は一致するのです。

会津を舞台にした兼続の戦略。

奥羽の関ヶ原への布石。

会津に上杉家がいた期間は短い間ですが、この会津時代を考慮せずに、直江兼続の生涯を振り返ることはできません。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い――。

天下分け目において、いかに

【石田三成・大谷吉継・上杉景勝・直江兼続】

たちの結びつきが深かったか。

御家の命運に至るまで、彼らはしっかりと共闘していたのです。

 

幻の決戦

迎えた慶長5年(1600年)――。

中央の動向は、石田三成の動きを見たほうがわかりやすいかもしれません。

しかし、東国となれば話は変わってきます。

上杉主従の出番です。

上杉家の居城は、会津若松城。しかし、ここまで攻め込まれてはあとがありません。

兼続が防衛戦略に考えていた城は、別にありました。

会津には、蘆名氏以来の城が残されていたのです。

向羽黒山城は奥州最大ともされるほどの規模。こうした城に加えて、兼続が着手したのが神指城でした。

西側の阿賀川を背にし、東には白河街道にのぞむ、大規模な城となる。

慶長5年(1600年)2月、雪解けを待つようにして工事に取り掛かったのでした。

完成に至らないながら、その構想は雄大なものでした。

朝鮮出兵以来、全国的に向上の見られた築城技術。当時、最新鋭の城が出来上がるはずであったのです。

皮肉にもこの決戦からおよそ二百六十年後、この城が生かされることとなります。

斎藤一率いる会津藩配下の新選組が、この城跡に立てこもり西軍と戦ったのです。

多勢に無勢で、新選組は大敗北。その時まで、利用できる跡が残されていたことは、驚異的ではないでしょうか。

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兼続が想定していた決戦の地は、会津ではありません。

白河こそが激突、天下分け目の合戦の場所となるはずでした。

奥羽街道以外のルートを封鎖し、家康がそこから飛び込んでくることを待つ手はずでした。

決戦地は皮籠原(かごはら)――。

対するは上杉・佐竹連合軍。

12万2千vs徳川軍6〜8万でぶつかれば勝利も不可能ではない。その段階では想像もできませんが、関が原本番以上の大戦となる可能性もあります。

防塁を築き、白河城で迎え撃つ。

現在の福島県から栃木県までまたがる、大規模な決戦が予測されておりました。

こうして考えてくると『直江状』がいかに挑発的であったかわかろうというものです。

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『直江状』は実在したのか?

というと、江戸期以降に加筆修正はあったものの、実在したとみなされています。

上杉謀反を捏造し、家康がケチをつけてきたことへの痛快な回答という見方もあります。

政宗と義光が密告したという見方もあります。

しかし、これには無理があります。

会津に家康との決戦に備えた史跡はじめ証拠が多数あるからには、家康が警戒してもやむを得ないのではないでしょうか。

上杉家が会津において無策であった、一方的に難癖をつけられただけ、と言い張る方が兼続を過小評価しているのではないでしょうか。

 

「慶長出羽合戦」の難しさ

しかし、この大決戦は幻に終わります。

兼続の想定していた天下分け目の決戦は、場所を西に移して関ヶ原へ。

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そしていよいよ「北の関ヶ原」こと慶長出羽合戦となるわけです。

直江兼続の真骨頂となるシーンです。

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細かな経過は上記の記事をご参照ください。

ここでは、兼続の人生でクライマックスでありながら、いまいちわかりにくい。

特に、フィクションでの扱いもモヤモヤしがちな――その理由を考えてみたいと思います。

◆江戸期にはどうしても語りにくい

天下人に楯突いて敗北した扱いですので、良くは語りにくい。

◆兼続を盛りすぎる

兼続の人生に箔をつけたい。そんな気持ちは理解できなくもありません。それをやりすぎてしまって、無理矢理彼を上杉謙信と英雄三傑に引き寄せる傾向があります。

謙信が愛し、信長が恐れ、秀吉が信頼し、家康が最も恐れた男――盛りすぎてもう何がしたいのか、意味がわかりません。

しかし、こういうノリの書籍やフィクションは存在します。

◆そして奥羽大名との関係性が不明瞭に

本稿では繰り返し、最上義光伊達政宗の動向を記してきました。

それは単純な好き嫌いではなく、兼続の生涯をわかりやすくするためです。

上杉と最上は、庄内地方をめぐり長いこと対立が続いて来ました。
伊達は、上杉が会津と伊達郡を支配することを承知できるはずがない。

そして「慶長出羽合戦」とは、彼らにとってこうした因縁の土地を奪う絶好の好機でした。

そうした積年の怨恨を考えなければ「慶長出羽合戦」は理解しにくくなるのです。

◆なぜ無理矢理、兼続vs政宗にするのか?

『天地人』ではよりにもよって、最上義光が兜シルエットでしか出てこないという、おそろしいことをやらかしたものです。

これも知名度の問題でしょう。

英雄三傑には劣るものの、ビッグスターの政宗と戦った方がカッコいいというノリ。

しかし、政宗自身は、そもそも最上領に到達していないのです。

結果、最上義光に対して極めて失礼であるばかりか、合戦の経過も意味がわからなくなってしまいました。

◆雑魚扱いされる最上勢

それでも、どうしても出さねばならない最上勢。そうなると、雑魚扱いされます。

作品そのものとしては面白い『花の慶次』が典型例です。

主人公の前田慶次が「ともかく強い」と言いたいあまり、最上軍の兵力が倍増されたうえに『北斗の拳』のモヒカンチンピラのようになってしまいました。

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しかし、江戸時代の軍記『奥羽永慶軍記』には、こう記されております。

「鮭延の武勇はすさまじい。上杉謙信公がかの武田信玄公と戦った時ですら、このような勇者はいなかったであろう」

直江兼続が、敵・最上配下の鮭延秀綱を絶賛し、褒美まで贈ったという記載があるのです。

実際、最上家改易の際には、鮭延秀綱には熱い目線が注がれました。

あの長谷堂の勇者を是非うちに!と、ザワついたほどです。

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長谷堂城をなかなか落とせず、焦燥していると思われる書状や記録も残されています。

対戦相手を貶めた結果、兼続自身にも胡散臭さが漂う。

残念な作用がそこにはあるのです。

◆勝ったとは言えないのでは

これが最大の問題点でしょう。

この合戦での殊勲賞は兼続になるかと言われたら、そうではない気がします。

前述の鮭延秀綱、前線に立って兜に被弾した最上義光の方が、ふさわしいのかもしれません。

その点、少し詳しく見てみますと……。

◆「上杉勢は一気呵成に最上領に侵入した」というのは?

最上側が「明け逃げ」(=撤退戦術)を選択したということでもあります。

山形城手前の長谷堂、上山、畑谷といった城で迎撃する予定だったと見なせます。それならば一気呵成の進軍も、さほど難しいことではない。

◆最上義光の討伐手前まで行ったのか?

兼続が、長谷堂、上山、畑谷を軽々と抜いていれば、一気呵成と断言できましょう。しかし……。

・長谷堂→△ 攻略できず

・上山→× 大敗

・畑谷→○ 一気に殲滅

3戦して1勝1敗1引き分けです。長谷堂も、予定より落城に時間がかかり過ぎて、兼続自身が焦っていました。

最上勢は、もう勝てないと覚悟していたとは言われております。

数の差を考慮すればそうなることも当然でしょう。

◆撤退戦は見事であった

最上侵攻よりも、撤退戦こそが見事であるとされています。

それはそうでしょう。
あの義光も「直江は古今無双の兵だ!」と、絶賛しています。難しい撤退戦をよくぞこなしたとは言えますが……。

撤退戦とはいえ、そもそも上杉勢の方が多い。

最上領内に取り残され、降伏した将がいる。

農兵に殺害された兵も多い。

兼続自身は無傷でも、それは上杉勢全体がそうであったとは言えない。

最上に降った将の中には、庄内攻略で活躍した者もいる。

そうしたことを考えていくと、ちょっと評価が難しいものがあります。過大評価はできないということです。

フィクションでも、このあたりがなかなか混沌として来ているものがありまして。

前田慶次と上泉主水信綱は、対最上戦に参戦。

一方で岡左内定俊、車丹波斯忠は対伊達戦に参戦しています。

しかし情勢がややこしいため、フィクションではまとめる、省く、義と愛で何とかする……といった処理をするため、どうにも不明瞭になってしまうのです。

以下の記事をご覧いただき、頭の整理をしていただければと思います。

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残念ながら、大河ドラマ『天地人』のことは忘れてください。何の参考にもなりません。

なお、ここまで読んできて、筆者は直江兼続が嫌いなのではないか? と思われても仕方のないところではあります。

そんなことはないのです。

直江兼続は、戦略、戦術ともに見事としか思えません。戦略としては、白河での決戦予想でしょう。雄大で興味深く、魅力があります。

戦術の代表例は、鉄砲の開発に尽力していたことがあげられます。

兼続は、積極的に鉄砲の開発に取り組んでいたのです。

新型銃の入手、銃弾の改良、職人の確保と好待遇の整備、射撃訓練等。そこには、兼続のきめ細やかな気配りと大胆な発想がありました。

撤退戦で最上勢を苦しめ、義光の兜に銃弾を当てたのは、こうした鉄砲の強化があってこその成果でした。

兼続は軍法も整備しています。

マネジメント能力は一流であると評価できます。

問題があるとすれば、フィクションがその部分を適切に評価せず、道徳心といった的外れなことばかりを取り上げることです。

兼続自身は、才知にあふれ、魅力的で有能な人物です。これは間違いありません。

そんなありのままの兼続に迫れないのだとしたら、アプローチに問題があると思います。
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