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【武田勝頼】
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想定外の武田家相続、その困難
武田勝頼の悲劇の始まり。
それは彼が想定外の後継者だったことです。
想定外の後継とは、古今東西、困難を招くものです。
例えば映画『英国王のスピーチ』でも、ジョージ6世の苦悩が描かれていました。
何かと問題を抱えていた兄・エドワード8世よりも、ジョージ6世は国王の資質があったとされております。
しかし、です。
ことの本質は【個人の資質以外】にあります。
後継者は、継承を想定した教育を受け、それを前提に、脇を支える家臣や側近が揃えられます。
そうした準備なしに継ぐということは、本人にも周囲にも軋轢を生むものです。
勝頼も例外ではありませんでした。
・不吉な側室を母とする子
乾福寺殿が側室となった時点で武田家臣団には不満があり、その子が後継者になるだけで反発が起きやすい。
後継者としての経験も、義信と比べて圧倒的に不足していた。
・親今川派であり、かつ義信側近だった家臣たちの反発
織田・徳川に内通した義信派の家臣もいた(曽根氏)。
・信玄ですら、勝頼はあくまで「中継ぎ」扱いとしている
→嫡男の竹王丸が16歳になったら、家督を譲るという指示が出された。
・諏訪法性の兜継承は許可するものの『孫子』(「風林火山」の旗)は禁止する
→「風林火山」を勝頼が失ったわけではなく、封じていたのは信玄そのもの。
いかがでしょう?
かように背負わされた不利な条件が、どれだけ勝頼を苦しめたか……想像するだけで胸が苦しくなります。
こうした「中継ぎ扱い」による精神不安定は、他の家でもあります。
織田信長の二男・織田信雄や三男・織田信孝は暗愚だと描かれがちです。跡継ぎではない彼らは、弟という時点で、長男・織田信忠に比べてハンデがありました。
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豊臣政権では、豊臣秀吉の実子・豊臣秀頼の誕生によって中継ぎにされた豊臣秀次が、重大深刻なうつ状態に陥ったとされています。
世界史に目を向けますと、強引な対処で後継を覆した例もあります。
が、禍根を残すことも多いものです。
◆イングランド王・リチャード3世
→甥殺害疑惑がつきまとう。戦場で斃れた最後のイングランド王に。
◆明・永楽帝
→「靖難の変」で甥・建文帝を倒しての即位。甥生存の猜疑心がつきまとった結果が、鄭和の大航海や宦官の重用につながる。
こうした状況は、勝頼という人となりを考える上で重要ではないでしょうか。
そして元亀4年(1573年)、ついに偉大なる信玄が亡くなります。
父の死を三年秘すべし
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄死去――。
「その死を三年秘すべし」という遺言はあまりに有名であり、後世においては信玄の偉大さを示す言葉として解釈されてきました。
が、果たしてそれだけでしょうか。
信玄の功績は確かに偉大です。
ただし、晩年の対外戦争においては強引さもありました。義信の死を招いた今川氏との関係も、その現れでしょう。
織田信長、徳川家康、上杉謙信――といった強力な大名と戦う中で、自らが倒れては危険であると認識していたということは、すなわち【武田家の不安定さを危惧していた】とも考えられます。
そして武田勝頼は、父の遺言に従い、その死を偽装し続けました。
書状に残る花押や署名に、その跡が残されています。
北条氏政が家臣を派遣した際には、叔父であり父によく似た武田逍遙軒を会見させたとされています。
こうした一連の対処法は、果たして正しかったのか。
「三年秘喪」というような処理がされたのは、なにも信玄だけではありません。
例えば三好長慶も二年間秘匿しておりますが、信玄の場合、あっけなく外に発覚してしまうのです。
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同盟者である北条氏政・本願寺顕如からは、追悼ではなく家督相続祝いが送られる一方で、敵対者の間では信玄の死という真相は、死後数ヶ月で知らされておりました。
この秘匿こそ、かえって武田の不安定さを対外的に証明してしまったことは、十分に考えられます。
懸念材料は、それだけではありません。
信玄を支えた宿老の目から見ると、息子世代の勝頼はあまりに若い御屋形様として映りました。
28という相続年齢は、決して若すぎるとは言えません。それでも彼らからすれば、そう見えてしまう。
さらには勝頼世代の家臣たちも、信玄世代から見れば、ひよっこ同然であり、両世代間には互いへの不信感があった形跡がみられます。
それだけではありません。
家督を継いだ勝頼には、課題が山積みでした。
・内政の不安
・外交や合戦により作られた敵の包囲網
・家臣間の世代格差と不和
家督相続のスタート段階で、これだけの不安を抱えさせられているのです。
これを好機とみなしたのが、織田・徳川でした。
彼らにとってはすでに状況は整っておりました。
「元亀騒乱」と呼ばれていた情勢は、劇的に織田信長の勝利に染められていくのです。
徳川家康は、信玄によって圧迫されていた三河を取り戻すべく、反攻に出ました。
駿府、井伊谷を攻めたのです。もはや三河をつなぎとめることができず、徳川につく家臣も出てきました。
飛騨・美濃も、武田家の支配下から離れます。
勝頼にとって、あまりに多難な出発でした。
二年目の進展
天正2年(1574年)、この年は追放した我が子・信玄の死を受けて、武田信虎が帰国しています。
そんな祖父の動向に、勝頼は神経を尖らせていたようです。
再び権勢を握らないかと不安になるほど、己の基盤が脆弱だと感じていたのでしょう。
このころ、信玄の宿敵であった上杉謙信は、勝頼をこう酷評しています。
「勝頼の武略は、武田の名に劣るものである」
しかし、そんな侮辱を吹き飛ばすかのように、勝頼は東美濃を攻めます。
武田勢は同地方への攻勢を強めており、その中で選択肢を迫られた一人に信長の叔母・おつやの方もいます。
彼女は甥を離れ、武田につくこととなったのです。この女城主のことを、頭の隅に入れておいていただければと思います。
勝頼には、東の援軍として北条勢、西には亡命中の足利義昭や六角義賢がおりました。
彼らと手を組めば、織田にも対抗はできるのです。
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勝頼を「小僧」とか「父に劣る」などとみなしていた周辺大名が、顔色を変えるほどの快進撃。
このあたりから遠江支配、内政基盤の拡充に取り組んでいくのです。
偉大なる父の三回忌に向け、勝頼は邁進していたことでしょう。
いよいよ喪を秘すべき三年が終わり、そして、運命の天正3年(1575年)を迎えるのでした。
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