石川数正/wikipediaより引用

徳川家

石川数正の生涯と5つの知将エピソード【年表付き】なぜ出奔?その後は?

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岩盤のように固い結束で戦国の世を制した徳川家。
その徳川家にあって、突如、豊臣秀吉のもとへ出奔し、裏切り者呼ばわりされた武将がいる。

石川数正だ。

石川家の家紋「笹竜胆」(蓮泉寺)

本多忠勝酒井忠次などの徳川四天王に並び称される実力者であり、徳川家康の竹馬の友とでもういうべき存在でありながら、なぜ石川数正はそんな行為に走ったのか。

そして、豊臣政権崩壊後、その身はどうなったのか?

本稿では、5つのエピソードに注目しながら、石川数正の出奔理由や生涯に迫ってみたい。

 

情の鈍い人 石川数正

情の鈍い人であった──。

岡崎三奉行の一人・高力清長※1による、石川数正評である。
情に鈍いとは、つまりは感情を表に出さないということであろう。

一方で数正は、他人の表情から感情を読み取るのに長けた人物だと伝わっており、その広い見識を用いての「交渉」や「外交」が得意であった。
いわば「知将」や「インテリ」であり、「田舎者」と総評される三河武士にしては珍しい「文化人」である。

そんな石川数正が口癖のように使っていた言葉がある。

「三河者は狭量(きょうりょう)

狭量=心が狭いとは何やら穏やかではないが、男では石川、女では築山殿(徳川家康の正室)が、泥臭い三河の中で「掃き溜めの鶴」が如く光輝いていたゆえであろう。

そんな三河武士には家内でランクがあり、基準は、
【いつから松平家(後の徳川家)に仕え始めたか?】
という偏ったものであった。

戦や外交の活躍で得た禄高ではなく、生まれが全て――とは、まるで公家社会のような旧態依然としたものであるが、では、数正は三河でどのようなポジションにいたのか。

※1「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」と謡われた「仏高力」こと高力清長

 

譜代中の譜代「安祥七譜代」だった

徳川家康は松平宗家の出ではない。
安祥(愛知県安城市)を本拠地とする安祥松平家であり、したがって三河武士の最高ランクも安祥城主時代からの家臣となる。

彼らは「安祥譜代」と呼ばれた。

通説では、酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村の7家が「安祥七譜代」であり、石川数正の石川家もそこに数えられる名門である。
というか松平氏を安祥に呼んだのは石川家であるといってもよく、その子孫の石川数正は「家康の懐刀」として活躍した。

しかし、数正は出奔した。

本来「出奔(しゅっぽん)」とは「逃亡して行方をくらますこと」であるが、彼の行き先は、あろうことか家康のライバル・豊臣秀吉。

幼少期には共に駿府で暮らした「竹馬の友」であり、戦国大名になってからは「懐刀」となった存在、いわば重臣中の重臣が敵の麓へ走ってしまったのである。
家康にとってその衝撃は、本能寺で明智光秀に急襲された織田信長以上のものであっただろう。

むろん秀吉も数正自身も、徳川家康や三河武士に与える衝撃の大きさは理解していたはずである。

にもかかわらず、なぜ彼は出奔したのか?

まずは、石川家の始まりと、数正の生まれを見ていこう。

 

episode① 名門生まれの「七人小姓」

石川数正は、小川城主・石川康正の嫡男として三河国で生まれた。
生年はハッキリせず、ここでは通説にしたがって天文2年(1533年)としておく。

父はの石川康正は同家の宗主であり、母は、松平信康の具足親である能見松平家宗主・松平重吉の娘だった。

前述の通り、三河では抜群の血筋である。

小川城は、愛知県安城市小川町志茂にあり、石川康頼(出家して明了・石川政康の四男)が同地に建てた蓮泉寺には、三河石川氏の祖・石川政康の墓もある。

三河石川氏の祖・石川政康の墓(蓮泉寺)

江戸幕府の公文書『寛政重修諸家譜』によれば、石川家の氏祖は、あの八幡太郎義家(源義家・源頼朝足利尊氏の祖先)に遡るという。

源義家の6男に源義時がおり、その3男に生まれた源義基。
この源義基が、河内国石川郡壷井の石川荘(現在の大阪府羽曳野市壷井)を領して「石川」と称したという。

──鎮守府将軍義家朝臣より三代武藏守義基、河内国石川郡を領せしかば、「石川」と称す。(『徳川実紀』)

一言で言えば「河内源氏」(家紋は笹竜胆)である。

ちなみに今川氏も河内源氏ではあるが、家紋は「足利二つ引」である。

石川義基の子孫は、下野国小山(栃木県小山市)へ移って「小山」と称し、政康35歳の時に、一向宗本願寺蓮如と共に三河国へ移り、以降、小川城を築いて苗字を「石川」に戻したという。

石川政康「由緒碑」(蓮泉寺)

さて、松平3代信光は、松平郷(愛知県豊田市)から南下して、岩津(愛知県岡崎市)に進出、岩津城を居城とした。

その後、松平宗家(岩津松平氏)は衰退し、安祥に進出した信光の3男にして安祥松平家初代・親忠の安祥松平家が宗家となった。

松平4代親忠の安祥進出にあたっては、安祥の国衆である石川氏への挨拶が当然あるべき。

それを受けて『寛政重修諸家譜』には、

──しばしば小川に赴き、伯父・康長と相はかり、野寺※2、其の外の地侍を御麾下となし、親忠君を安城の城に入れ奉る。(「石川忠輔」の項)

──親忠君、政康が男一人召されて家老となされるべき旨、仰せありしにより、三男・源三郎某を参らす。(「石川政康」の項)

と記されている。

石川政康は、松平親忠の安祥進出を許可し、3男・源三郎(当時14歳)を出仕させた。

後に源三郎は、元服時に「親忠」の「親」をいただいて「親康」と名乗り、石川家を継いだというから、石川氏は、徳川家康を輩出した「安祥松平家」創設の立役者とも言える。

関係は浅くないというより功労者である。

ゆえに天文18年(1549年)、まだ8才の竹千代(後の徳川家康)が人質として今川家の駿府(静岡県静岡市)へ赴く際、石川与七郎数正(17歳)も供の者「七人小姓」に選ばれたのだろう。
両者は幼くして苦楽を共にすることになった。

その際、数正は「其の随一」とも記されていて、最年長だったことを窺わせる。

──天文十八年、東照宮、駿河国に赴かせ給ふの時、供奉の人を選はる。数正、其の随一なり。(『寛政重修諸家譜』「石川数正」)

駿府における竹千代一行には辛い暮らしがまっていた。
「三河の田舎者」と馬鹿にされ、誰もがみな「一日でも早く三河へ帰りたい」と望んだという。

しかし、数正だけは、そう思わなかった。

「第二の京都」と呼ばれた駿府の町並みは、「都路」と呼ばれた故郷・土呂(一向宗土呂殿本宗寺の寺内町・愛知県岡崎市福岡町)の町並みに似ていて、違和感がなかったのだ。

しかも、である。
元服して「数正」と名乗っており※3、「岡崎五人衆」内藤義清の三女とも結婚、天文23年(1554年)には長男・石川康長にも恵まれた。

駿府とは、石川数正にとって「思い出の地」であり「第二の故郷」であったのだ。

※2「野寺」:地名。後に「三河一向一揆」を起こした「三河三ヶ寺」(三河国における本願寺教団の拠点である野寺本證寺(安城市野寺町)、佐々木上宮寺(岡崎市上佐々木町)、針崎勝鬘寺(岡崎市針崎町))の本證寺がある場所。小川町の南。

※3 石川数正の元服は、駿府へ行く直前という説もあり

 

episode② 桶狭間と家康自立

数正と家康にとって、運命の日はやはり永禄3年(1560年)5月19日であろう。

桶狭間の戦い」である。

織田信長に今川義元が討たれると、松平元康(後の徳川家康)は、たった18騎で大高城から東へ向かった。

矢作川を渡れば、そこは岡崎。
右岸の北野から左岸の大門へと渡っている。

この渡河点は、3匹の白鹿が渡っているのを石川数正が見つけ、以降「三鹿の渡し」と呼ばれるようになった。

現在は、以下の写真の通り、四代目「鹿ヶ松」と案内板があり、次のように書かれている。

「三鹿の渡し」の四代目「鹿ヶ松」と案内板

「永禄3年(1560年)3月21日、桶狭間の合戦に敗れた松平元康(当時19歳の徳川家康公)は、織田軍の追跡を逃れこの地まで来たが、矢作川が前日の雨で増水し、渡ることができずにいた。

その時、長瀬八幡宮の森から鹿が出て、松の大木の陰から矢作川を大門の郷へと渡った。

家臣の石川伯耆守がこれを見て「八幡大菩薩の化身である。浅瀬を知る鹿に続け。」と主従18騎で川を渡り、無事に大樹寺に入ることができた。

後に徳川幕府は、矢作川堤防のこの地に松を植えた。以来、この松は「鹿ヶ松」と呼ばれるようになったという。」

【案内板より】

「鹿ヶ松の由来」(長瀬八幡宮)

正直、この「三鹿の渡し」伝承には疑問があり、仮に一定のところまでが史実だとすると実際はどうだったか、当時のことを想像してみよう。

交渉を得意とする石川数正が、近くの長瀬八幡宮へ行くと、神官3人が馬に乗ってやってきて、渡し舟を使わず、騎乗のまま矢作川を渡れるかどうか試した――そんなところではないか。

「桶狭間の戦い」後、松平元康は、岡崎城への帰還を果たし、駿府へは戻らなかった。

主君である今川氏真には
「西からの織田勢の追撃を食い止める」
と伝えて岡崎城に残り、織田信長や水野信元と、尾三境界で領地(境界)争いを繰り広げるのである。

例えば永禄4年(1561年)の「石ヶ瀬川の戦い」では、石川数正も、水野信元(後に徳川家臣)の家臣・高木清秀と7度にわたり槍を交えている※4。

なお、水野信元とは、徳川家康の実母・於大の方の兄である。つまり家康の叔父である。

信元は、後に徳川家臣となるのだが、天正3年(1575年)12月、織田家臣・佐久間信盛の讒言により誅殺命令が出されてしまい、家康は、石川数正と平岩親吉に大樹寺(岡崎市鴨田町広元)で暗殺させた。

兄を殺された於大の方は、石川数正を深く恨み、この暗殺が、後の家康嫡男・松平信康とその実母・築山殿の粛清や石川数正の出奔の原因になったともいう。

とある時代小説では、織田信長から松平信康と築山殿の誅殺命令が出ると、悩む徳川家康に対し、実母・於大の方は、
「われも兄を殺されたのじゃから、そなたも妻子を殺せ。それが戦国の世というものじゃ」
と粛清を促している。

井伊直虎を描いた大河ドラマでも、於大の方が非情な決断を促していた。

こうした紆余曲折を経て、織田信長は、滝川一益を石川数正へ遣って和議を申し込み、これが契機となって永禄5年(1562年)、松平家康と織田信長の間に「清洲同盟」が成立した。

※4 石ヶ瀬川と鞍流瀬川との合流地点付近での松平元康と水野信元の戦い

 

episode③ 今川家との人質交換

織田家と徳川家の間に成立した「清洲同盟」。
これは同時に今川との衝突を意味しており、新たな危機の訪れでもあった。

「裏切られた!」と怒った今川氏真が、人質的存在となっていた3人を殺す可能性が出てきたのである。

◆松平元康の正室・瀬名姫(後の築山殿)
◆長男・竹千代(後の松平信康)
◆長女・亀姫

そう、徳川家康の正室とその子どもたちである。

彼らを助けるため石川数正は、松平元康の反対を押し切って駿府に単騎で乗り込んだ。
そして、上ノ郷城城主・鵜殿長照(うどのながてる・今川義元の妹の夫)の2人の遺児(鵜殿氏長・鵜殿氏次)と松平康俊(徳川家康の異父弟)との交換条件を持ち出し、見事に3人を取り戻すことに成功した。

トレードマークの「八の字髭」(大髯)を風に靡かせ、あたかも口で噛んでいるが如く下へ反らせながら、颯爽と岡崎に帰ってきた数正。
馬の背には竹千代も乗っており、岡崎の人々は歓喜、岡崎東端の根石原(念子ヶ原・愛知県岡崎市若宮町)まで迎え出たという。

この日は、石川数正にとって、人生最良の日であったろう(史料『三河物語』と『常山紀談』を記事末に掲載)。

この人質交換、私も感情的には、岡崎の人々同様、出迎えて拍手したい。
が、政治的にはどうだったのか?

徳川家康の父・広忠は、水野氏が織田方に寝返ると、於大の方(水野氏)を離縁して、今川氏に忠義を示した。
これと同様に、政治的には妻・瀬名姫を離縁して駿府に残し、子供たちだけ岡崎に連れ帰るのが正解だったと思われる。

しかし、石川数正は、同じ河内源氏の瀬名姫の命を救いたかったのであろう。
人質交換の結果、徳川家康に対する怒りの矛先を失った今川氏真は、駿河御前の両親を自害に追い込んでいる。

──では、岡崎入りした「築山殿」は、幸せであったろうか?

一説に「徳川家康を今川の重臣とし、結婚後も駿府に住めば良い」と言われたからこそ築山殿は家康と結婚したのであって、「三河(田舎)に行け」と言われたら、プライドの高い文化人である彼女は断っていたであろう。

実際、縁談を断っていたので、結婚適齢期を過ぎていたともいう。

田舎では色々な物も入手しにくいせいであろう。
正室の役目として、家臣の妻たちと仲良くしようと思い、女子会を開いて「十炷香(じしゅこう)をしましょう」と言ったら「何のことですか?」と返されたという。

彼女以外は誰も知らなかったのだ。
おそらくや三河弁も嫌っていたであろう。

同じくプライドの高い文化人である石川数正も、駿府から田舎(三河)に戻って、三河には、弓懸(ゆがけ・弓を引く時に使う手袋)の緒の結び方を知る人がいなくて嘆いている。

数正は、自らが助けた築山殿が三河に馴染むことができず、嘆く姿を見て同情したに違いない。

おまけ:瀬名姫はなぜ築山殿と呼ばれる?

幼名不明で一説に「鶴姫」とも。瀬名氏の娘なので、便宜上、「瀬名姫」と呼ばれた。

父・瀬名義広は、関口氏の養子となって関口親永と名乗っている。
瀬名氏も関口氏も今川氏の傍流で、河内源氏であり、一説には人質交換後、離縁されたという。

瀬名姫は、宿敵・織田信長を倒してくれる人を探して、好色で有名な朝倉義景の側室になったが、朝倉義景が口先だけだと知って失望。
離婚して大坂にいた時、長男・松平信康に岡崎へ呼ばれ、岡崎城外の築山(地名)に住んだため「築山殿」と呼ばれたとも伝わる。

離縁されていたので「築山御前」とは呼ばれなかった(一次史料『家忠日記』での呼称も、「御前さま」ではなく、「信康御母さま」である)が、現在、浜松市では「築山御前」と呼ぶようにしている。

 

episode④ 三河一向一揆と三方ヶ原の戦い

今川義元の偏「元」を捨て、「松平元康」から「松平家康」に改名した後の徳川家康。
当面の目標は三河統一となったが、そこで後に【三方ヶ原の戦い】や【神君伊賀越え】と並び「家康三大危機」と称される危機に直面する。

【三河一向一揆】である。

往々にして宗教戦争の根は深い。
事実この時代には加賀や越前などで猛威を奮っていたが、三河ではわずか半年、永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)までの間で済んでいる。

他地域に比べればかなりの早さである。

ではなぜこれが「家康三大危機」と呼ばれるのか?

浄土宗である松平家康の家臣には、一向宗(浄土真宗)の信者が数多くいて、家臣団が真っ二つに割れてしまったのだ。

そこで激しく悩んだのが他ならぬ石川数正である。

このころすでに父・石川康正から石川家の家督を譲られていた数正は、主君・徳川家康に対抗する一向宗(浄土真宗)のリーダーでもあった。

そもそも三河石川家の氏祖・石川政康は、本願寺蓮如(蓮譽)に
「三河国で一向宗信者の武士たちのリーダーになっていただきたい」
と言われ、はるばる下野国からやってきた人物である。

◆参考資料『寛政重修諸家譜』「石川政康」……「文安年中、本願寺蓮譽、法を弘めむがため下野国に来たるの時、政康に語りて曰く、「三河国は我が郷党なり。武士の大将として一方を指揮すべき者無し。願はくは、三河国に来りて我が門徒を進退すべし」となり。これにより、蓮譽と共にかの国に赴き、小川城に住す。」

当然ながらその立場は一揆サイドになってしまうが、ここで石川家は【一族内で袂を分かつ】という道を選択した。

康正が一向宗側で、数正と家成たちは浄土宗に改宗して松平家康についたのだ(石川家成は康正の弟・数正の叔父にあたる)。

結果的に数正のチョイスは正しかった。

一揆勃発から半年後に和議が成立。
上和田浄珠院で起請文を交換し、続けて土呂殿本宗寺の寺内町に石川家成が乗り込み、武装解除させて戦乱終結となったのだ。

三河一向宗の中心地は、石川政康が蓮如に寄進した【土呂殿本宗寺】だった。
蓮如は、本宗寺に孫を住職として入れて「一家衆寺」(一向宗の法主の血縁者が住職の寺)としたので、本宗寺は別格扱いされていた。

また、土呂(とろ)の賑やかな町並みは、京都に似ていることから「都路」と表記されていたというが、「三河一向一揆」の最後の最後に焼け野原と化している。

家督が剥奪された(石川家の家督は石川家成に与えられた)石川数正は、土呂の復興事業に専念。
土呂城の築城や土呂八幡宮の再建、「土呂の三八市」の開催に尽力している。

『泥棒』の語源は『土呂御坊』だと言われるくらい荒れていたとされるが、市の開催により、賑やかな町に戻った。

「土呂城址」碑

「土呂八幡宮」現地案内板

「土呂三八の市発祥地」碑(本宗寺門前)

「三河一向一揆」を鎮圧した松平家康は、東三河にいる今川勢力の平定に専念し、ついに永禄9年(1566年)に三河国を統一。
そこで「徳川家康」に改名し、徳川家臣団の編成を「三備(みつぞなえ)」とした。

「三備」の制とは以下のような3つに分けられた軍団を意味する。

◆旗本……家康直参
◆西三河衆……旗頭が石川家成
◆東三河衆……旗頭が酒井忠次

※旗頭=惣先手侍大将(軍団長のこと)

程なくして永禄12年(1569年)。
石川家成は掛川城主に任命され、次に甥の石川数正が西三河の「旗頭」となった。

◆参考資料『徳川実紀』……掛川城をば石川日向守家成に守らしめらる。是より先、三河一国帰順の後は、本国の国士を二隊に分け、酒井忠次、石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが、家成、今度、掛川を留守するにおよび、旗頭の任は、甥の数正にゆづり、その身は、大久保、松井等と同じく、遊軍にそなへ、本多、榊原等は御旗下を守護す。

その後の徳川家康は、遠江国にも侵攻。
快進撃を続けたところで、ついに巨大な壁に激突する。

最強の戦国大名・武田信玄である。

石川数正は、さすがに武田信玄には勝てないと思ったらしく、土岐家の浅岡某に弓懸の緒の結び方を学んだという。

討ち取られた後、
「こいつ、弓懸の緒の結び方も知らんのか、田舎者だな」
と笑われるのが嫌だという逸話である。

後にこの話を信玄が聞いた時
「武士のたしなみ、誰でもかくあるべきなり」
と称賛したという。

小さなエピソードだが、石川数正が文化人であった(文化人たらんとした)ことを示す重要なエピソードでもあろう。

◆参考資料『常山紀談』「石川数正、浅岡某に韘の緒の結び様を習ふ事」

味方原合戦の時、数正は、信長の加勢として遠州に向ひけるが、「武田、おしよする」と聞き、とつて返す。美濃の守護・土岐家に有りといふ浅岡の某、弓箭をとりてさるふる兵と聞えしかば、彼が許に行き、「此度、本国に帰りなば、必ずうち死仕るべし。数正、弓箭をとり打物とりてかたの如く軍にあふ事、度々なり。然ども、軍に臨むの日、韘の緒むすぱん様、故実ある事と承りていまだ学候はず。されば、死後に『韘の緒とむる骨法しらざりし』と、かたき笑れ候はん事、骸の上の恥辱にて候へば、教を承り度くこそ」とて習ひ伝へ、夜を日につぎて馳下り、味方原の軍にも殊にすぐれて武勇をふるひたりけり。

家臣が分裂した「三河一向一揆」(1563年~1564年)。

武田信玄にトコトン追い込まれた「三方ヶ原の戦い」(1573年)。

2つのピンチを乗り越えた家康に1579年、さらなる悲劇が待っていた。

築山殿と松平信康の自害である――。

石川数正が命がけの「人質交換」で助けた2人が自害に追い込まれてしまった。

数正にとっては同じ河内源氏であり、「文化人」として気が合った築山殿と、後見人(傅役)を務める松平信康が相次いで自害したのである。
不思議なことに、この時の石川数正の顔が見えない。

織田信長に弁明するのは、西方の外交担当である石川数正の責任のハズだ。
にもかかわらず織田家のもとへ行ったのは、なぜか東方外交担当の酒井忠次である。

松平信康のもうひとりの後見人である平岩親吉は浜松城に駆けつけ、
「後見人である自分の首を織田信長に差し出して許してもらって下さい」
と松平信康の助命嘆願をしていた。

いったい数正は、こんな重要な時期に、どこで何をしていたのか?

残念ながら詳細は不明。
いずれにせよ岡崎城主・松平信康の自害後、石川数正は、城主がいなくなった岡崎城の城代に就任した。

徳川家康は、彼に地位を与えることにより、その怒りを鎮めたのだという。

※一説に、松平信康の2人の後見人は、平岩親吉と榊原清政(榊原康政の兄)だという。
榊原清政は、平岩親吉が持っていた松平信康の遺髪を譲り受け、江浄寺(静岡県静岡市清水区江尻東3丁目)に遺髪を納めた供養塔をたてた。
石川数正は、根石原の若宮八幡宮(愛知県岡崎市朝日町)に松平信康の首塚、根石山祐傳寺(愛知県岡崎市両町2丁目)に築山殿の首塚を築いた。

 

episode⑤ 謎の出奔

桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦い、そして松平信康の自害。

徳川家のピンチは、何かと織田が絡んでいるが、その最たるものが「本能寺の変」であろう。

信長の接待を京都で受けた後の家康は、明智光秀の凶行を聞くや、「神君伊賀越え」(1582年)を果たして三河に舞い戻った。

神君伊賀越えルートはここ!家康はどんな道を通って三河へ帰還した?

天 ...

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このときも石川数正は付き従っている。
「家康三大危機」を全て数正と乗り越えた。

その翌年以降の動きをまずはザッと確認しておこう。

・天正11年(1583年)51歳「初花」を贈る使者に選ばれる。
・天正12年(1584年)52歳「小牧・長久手の戦い」
・天正13年(1585年)53歳 数正が出奔し、羽柴秀吉に仕える。

徳川家康は、上方の事には無関心を装い、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家が潰し合って共に弱小化するのを待っていたとされる。

しかし、天正11年(1583年)4月。
賤ヶ岳の戦い」に敗れ、北ノ庄城(福井県福井市大手3丁目)へ逃げた柴田勝家が、同年4月23日にお市の方らと共に自害したと聞いて、
「早や、早や(早い、早すぎる)」
と絶句したと伝わる。

すぐに頭を切り替え、坂本城の羽柴秀吉のもとへ石川数正を派遣した。

◆史料『徳川実紀』……十一年五月、石川数正を京に御使して、築前守秀吉のもとへ「初花」といへる茶壺を、をくらせ給ふ。秀吉よりも使もて「不動国行の刀」を進らす。

早速、徳川家康は、戦勝祝いとして織田信長愛用の茶入「初花」を贈った。
これに対して羽柴秀吉は、織田信長愛用の名刀「不動国行」を返礼として贈ったという。

暗く閉鎖的な三河武士と相反する、明るく開放的な羽柴秀吉。
石川数正は、その人柄に惚れたという。

家康に茶器なし──という言葉がある。

「茶器を持っていても、外交の道具として使い、風流を心得ていない田舎者」という意味で、その由来は次の通り。

諸大名を集めた席で秀吉と家康の会話が行われた。

「徳川殿は、どんな宝をお持ちか?」
「私は田舎者なので美術品は持っていない。宝は、私のためなら火の中、水の中と命を惜しまない500騎の武士である」
「そういう宝ならワシも欲しい」

「徳川殿には何の宝をか持せらるゝ?」
「それがしは、しらせらるゝ如く、三河の片田舍に生立ぬれば、何もめづらかなる書画、調度を蓄へし事も候はず。さりながら、某がためには水火の中に入ても命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家康が身に於て第一の宝とは存ずるなり」
「かゝる宝は、われも欲しきものなり」

まさか、この徳川家康の言葉が原因で、徳川家臣の調略を始めたとは思いにくい。

されど豊臣秀吉だったら
「ならばその500騎の徳川家臣を我がものとし、『そちの為に命を惜しまないと言っていた家臣が、今はわれに命を捧げると言っている』と言い返してやろう」
と考えそうな狭量な面も否めない。

いずれにせよ……。

天正13年(1585年)11月13日 石川康輝出奔──。

※数正は数度の改名をしており「石川康昌」(「長篠合戦図屏風」)の後に「石川康輝」とあるが、本記事では「石川数正」で通す

なぜ出奔したのか?
今なお徳川家でも最大のナゾである、その諸説・理由を3項目に分けて挙げてみる。
※続きは次ページへ

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