戦国時代、織田信長や豊臣秀吉に家臣として望まれ、東の最強武将とも称された本多忠勝(西は立花宗茂)。
その傍らには、いつも心強い味方がいた。
蜻蛉切(とんぼきり)である。
槍の穂先に、飛んできた蜻蛉が当たると、真っ二つに切れる――。
抜群の切れ味から伝説的な名前を付けられた槍を手にした忠勝は、生涯戦うこと57回でかすり傷一つ負わなかった。
まさに最強武将と呼べるその生涯とエピソードについては以下の記事に譲り、
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本多忠勝の生涯|家康を天下人にした“戦国最強武将”注目エピソード5選とは?
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今回は「天下三名槍」の一つとしても知られる「蜻蛉切」に注目してみたい。

本多平八郎忠勝像と愛槍「蜻蛉切」(レプリカ)
ここぞの場面で長さを調節していた柄
天下三名槍とは、
・日本号
・御手杵(おてぎね)
・蜻蛉切
を指す。
もともとは「西の日本号、東の御手杵」と並び称され、その中に「蜻蛉切」も含めて数えられるようになった。
御手杵は結城晴朝が作らせたもの。
日本号は酒飲みの賭けに勝った黒田官兵衛の配下・母里太兵衛が、福島正則から譲り受けたものとして知られる。

母里太兵衛/Wikipediaより引用
蜻蛉切の穂(槍の穂先)は「笹穂」と呼ばれる、文字通り笹の葉の形をしたもので、基本データは以下の通り。
穂:刃長1尺4寸(43.7cm) 最大幅3.7cm、
茎(なかご・柄に入る部分):1尺8寸(55.6cm)
重量:498g
彫金:元に蓮花と梵字(不動明王)、樋(中央の溝)に三鈷剣(倶利伽羅剣)、上にも梵字(地蔵菩薩、千手観音、楊柳観音)
柄:詳細は以下の通り
柄の長さは一定ではなかった。
1丈半(約4.5m)が標準という当時の長槍に対し、蜻蛉切は1丈3寸(約4m)で少し短い。
ここぞという時には2丈(約6m)の柄に取り替えて使っていたという。
しかし、晩年は体力の衰えから、3尺(約90㎝)短く切り詰めたとも言われ、それ以後(隠居後)も、いつでも戦えるよう、武具を体力に合わせて調整していた。さすがの武人である。
なお、柄には青貝(あおかい・カワシンジュガイ)の螺鈿(らでん)細工が施されていたとも伝わるが、残念なことに現存していない。
蜻蛉切の初陣は、忠勝16歳のときだった
本多平八郎忠勝の初陣(ういじん)は14歳。
【桶狭間の戦い】で前哨戦となった松平元康(後の徳川家康)による大高城兵糧入れになる。
これに対し「蜻蛉切の初陣」は忠勝16歳のときで、今川軍の牧野康成の家臣・城所助之丞某との一騎打ちだった。

本多忠勝/wikipediaより引用
他には、武田家臣・小杉左近が
──家康に過ぎたるものがふたつあり。唐の頭に本多平八。
と絶賛した【一言坂の戦い】や、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が井伊直政と共に絶賛した「小牧・長久手の戦い」、約90の首を取ったという「関ヶ原の戦い」など。
数多の著名な戦いで「蜻蛉切」を手に携えている。
ちなみにであるが……。
家康の「唐の頭」とは、中国四川省やチベットにいるヤクの尾毛を唐(中国)から輸入して付けた【兜】のこと。
防水機能があり、雨水が首から鎧の中に入らないように付けられていた。
ヤクは、現在でもカシミヤと並ぶ高級獣毛であり、戦国時代の「唐の頭」も高価だった。
それを徳川武将の半数以上がかぶっていたので、内陸を領し、海外貿易とは縁の薄い武田軍は驚いたという。
特に徳川家康の「唐の頭」(戸田氏蔵・新城市指定文化財)の毛は紅白で、長さは実に1.3mもあった。まるで歌舞伎の獅子のようである。
なお、ヤクの毛を付けた軍旗を「牙纛(がとう)」と言う。
柄を2丈にして徳川軍偵察隊の殿を
別の説では、「蜻蛉切」を手に入れたのは16歳の時であり、「蜻蛉切」と名付けられたのは「一言坂の戦い」を経てからという話もある。
なにせこの戦い、まるで三国志の張飛である。
「蜻蛉切」の柄を2丈にして徳川軍偵察隊の殿(しんがり)を務め、見付に火を放って武田軍の進軍を阻止。
遠回りしてきた武田軍を食い止め、徳川家康が「池田の渡し」から、舟で天竜川を渡り切ったのを確認すると、自分も天竜川を渡った。
本多平八郎忠勝が舟に乗った時、迫ってきた武田軍との距離は、わずか
【竿1本分】
だったなんて話も伝わる。
当面見来見附台(当面見来す見付台)
台辺繋馬立裴徊(台辺馬を繋いで立ちて裴徊す)
太平有象松山色(太平象有り松山の色)
忠勝勇名倶壮哉(忠勝勇名倶に壮なる哉)
山崎闇斎『遠遊紀行』(明暦4年(1658年))
上掲の『天龍川御難戦之圖』で、右側・黒い馬に跨っているのが徳川家康で、左側・名槍「蜻蛉切」を手に栗毛の馬に跨っているのが本多忠勝。
奥に見える天竜川の対岸が池田で、さらに奥が見付台(磐田原)にあたる。
このとき家康は、忠勝をこう言って迎えた。
──今日の進退度に中り、無比類儀、我が家の良将。(『浜松御在城記』)
さらに、蜻蛉切の製作者についても触れておこう。
作者・藤原正真について
作者は、三河文殊派第二代・藤原正真とされる。
村正の子または弟子とする俗説もあるが、まぁ間違いであろう。
なにせ『徳川家に仇為す』という俗説もある村正を、徳川四天王が使っているというのも腑に落ちない。
大和鍛冶(大和手掻系金房派)の南都金房隼人丞正真(藤原正真)と同一人物だとする説もある。
果たしてこれもどうだろうか。刀工は、同じ名の人が多いので混乱してしまう。
ここは通説通り、藤原正真を蜻蛉切の作者として彼の墓から見て参りたい。
墓所の脇には案内板があり、蜻蛉切の作者であることが記されている。
「刀匠 文殊四郎正真の墓所
大和国手掻包永の一派の刀工。田原の住人で、最も有名な作品に本多忠勝所持「蜻蛉切り」と呼ばれる天下の名槍をうった作者である。
慶長16年(1611)8月22日没 64歳」
案内板に記されている【大和国手掻包永】がわかりにくいと思われる。
これが何を指すか?
「大和五派」(千手院、手掻、当麻、保昌、尻懸)の一つである「手掻(てがい)派」。
鎌倉後期の藤原包永を祖とし、奈良東大寺の西の正門である「転害(てんがい)門」の門前で寺に従属し、室町時代まで続いた刀工集団である。
そのうち手掻派の藤原包氏・包吉が美濃国に移住すると、「包」の名を「兼」に改め、それぞれ志津三郎兼氏、善定兼吉(美濃国関※現在の岐阜県関市の善定家の祖)となる。
藤原包吉(文珠四郎包吉・龍王包吉)は、手掻派四代包永の弟子で、藤原正真の師とされる。
田原城主・戸田憲光に呼ばれて田原(愛知県田原市)に移り住むと、文殊包吉と名乗って、三河文殊派の祖となった。
永禄7年(1564年)、本多彦三郎(豊後守)広孝が田原城主に就任。
その縁で、本多忠勝(16歳)は、文珠包吉に槍の制作を依頼した。
本多氏は藤原氏の後裔なので、「藤原包吉」と聞いて若干の興味は持ったのだろうか。
しかし、文珠包吉は年老いており、彼の一番弟子であった藤原正真が、師のもとで打ったのが名槍「蜻蛉切」でった。
文珠包吉は、田原に来て4年後に亡くなっている。
──出藍の誉れ(青は藍より出でて藍より青し)
と言ったら文珠包吉には失礼であろう。
「蜻蛉切」は、藤原正真を通して文珠包吉の余命も注ぎ込まれた名品である。
藤原正真は、吉田(愛知県豊橋市)の田中久右衛門の子で、弟子の中で最も優れていたので、息子がいなかった文珠包吉は、娘と結婚させて婿養子とし、三河文殊派を継がせたのだった。
ちなみに村正は、美濃国・赤坂兼村の子で、赤坂千手院鍛冶(千手院派)の刀工とされているが、彼の活動拠点はなぜか美濃国ではなく、本多平八郎忠勝が晩年を過ごした伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)である。
工房兼屋敷跡は「田中家墓所」となっている
天正5年(1577年)、本多広孝は嫡子・本多康重に家督を譲った。
田原城主になった本多康重は、天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に伴い、上野国の白井城主となる。
父・本多広孝や藤原正真の次男・源左衛門も上野国(群馬県渋川市白井)へ。
その後、白井城主は井伊直政の次男・直孝が城主になり、本多氏の手に戻るも、康重の子・紀貞が無嗣子で亡くなったので、白井藩は廃藩、白井城は廃城となっている。
藤原正真は、白井へ移住せず、田原に残り、慶長16年(1611年)に亡くなった。
現在、工房兼屋敷跡は「田中家墓所」となっている。
戦場での主力武器は刀――ではなく槍である。
実践に用いられるため損傷が激しく、そのため現存数が極めて少ない。
「蜻蛉切」は名槍だけあって、柄こそ残されていないが、穂は現存。
今は静岡県三島市の佐野美術館に保管されている。
レプリカは、岡崎公園(愛知県岡崎市)の「三河武士のやかた家康館」の体験コーナーにあり、実際に持つことが可能。
ご興味をお持ちの方は、冬休みに足を運ばれてもよさそうだ。
※ただし、岡崎公園サイト(→link)で事前に確認を
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【参考資料】
・「忠勝ことし廿五歳、黒糸の鎧に、鹿角打たる冑をき、蜻蜒切といふ槍を、馬手のわきに、かいこうで、二反ばかりに、押寄せたる敵御方の眞中に、馬をしづかにあゆませ入れ、御方を下知して引退く、見付の人家に火を懸けて、濱松にこそ歸りけれ、忠勝が振舞ひ、敵味方の目を驚かす、敵の方より見付の坂に榜(たてふだ)を建てゝ、家康に過ぎたる物は二つあり、からのかしらに本多平八、この謡は、信玄の近習に杉右近助がよみしなり、此程は、戰國の最中なれば、外國の物は、世にめつらしかりしに、三河武者十人に七八人、冑の上に、■(牙+攵+尾)縷を装ひしを見て、かくは讀みしなり、からのかしらとは、■(牙+攵+尾)縷の事をいひしなり、槍の身長きに、柄ふとく、二丈計なるに、青貝をすつたり、蜻蜒の飛來て、忽ちに觸れて切れたれば、かくぞ名付しなる、忠勝年老て後、或日桑名の城下、町家河原に出て、馬に乘りながら、此鎗の石突をとりて振りけるに、歸りて柄三尺斗切て捨たり、人怪みければ、兵仗は、おのが力をはかりて用ゐるべきものなりといひしなり。」(新井白石『藩翰譜』・国立国会図書館デジタル)
・「一、蜻蛉剪槍は長一尺四寸二分、笹身三角、參州田原ノ住人藤原正眞作也、銘ニハ藤原正眞ト有之、穂一ハイニ樋アリ、倶利伽羅剣(イ龍)、上下ニ梵字五ツ彫物アリ、鞘は身形ノ黒塗也、柄はシホゼノ打柄長サ一丈三尺、白銀具眞鍮色繪菊桐ノ紋アリ。私考、參州田原文殊藤原正眞ガ作也ナリト云フ。」(『岡崎市史』・国立国会図書館デジタル)










