戦国時代、織田信長や豊臣秀吉に家臣として望まれ、東の最強武将とも称された本多忠勝(西は立花宗茂)。
その傍らには、いつも心強い味方がいた。
蜻蛉切(とんぼきり)である。
槍の穂先に、飛んできた蜻蛉が当たると、真っ二つに切れる――。
抜群の切れ味から伝説的な名前を付けられた槍を手にした忠勝は、生涯戦うこと57回でかすり傷一つ負わなかった。
まさに最強武将と呼べるその生涯とエピソードについては以下の記事に譲り、
本多忠勝5つの最強武将エピソード!家康を天下人にした生涯63年とは
続きを見る
今回は「天下三名槍」の一つとしても知られる「蜻蛉切」に注目してみたい。
お好きな項目に飛べる目次
ここぞの場面で長さを調節していた柄
天下三名槍とは、
・日本号
・御手杵(おてぎね)
・蜻蛉切
を指す。
もともとは「西の日本号、東の御手杵」と並び称され、その中に「蜻蛉切」も含めて数えられるようになった。
御手杵は結城晴朝が作らせたもの。
日本号は酒飲みの賭けに勝った黒田官兵衛の配下・母里太兵衛が、福島正則から譲り受けたものとして知られる。
蜻蛉切の穂(槍の穂先)は「笹穂」と呼ばれる、文字通り笹の葉の形をしたもので、基本データは以下の通り。
穂:刃長1尺4寸(43.7cm) 最大幅3.7cm、
茎(なかご・柄に入る部分):1尺8寸(55.6cm)
重量:498g
彫金:元に蓮花と梵字(不動明王)、樋(中央の溝)に三鈷剣(倶利伽羅剣)、上にも梵字(地蔵菩薩、千手観音、楊柳観音)
柄:詳細は以下の通り
柄の長さは一定ではなかった。
1丈半(約4.5m)が標準という当時の長槍に対し、蜻蛉切は1丈3寸(約4m)で少し短い。
ここぞという時には2丈(約6m)の柄に取り替えて使っていたという。
しかし、晩年は体力の衰えから、3尺(約90㎝)短く切り詰めたとも言われ、それ以後(隠居後)も、いつでも戦えるよう、武具を体力に合わせて調整していた。さすがの武人である。
なお、柄には青貝(あおかい・カワシンジュガイ)の螺鈿(らでん)細工が施されていたとも伝わるが、残念なことに現存していない。
蜻蛉切の初陣は、忠勝16歳のときだった
本多平八郎忠勝の初陣(ういじん)は14歳。
【桶狭間の戦い】で前哨戦となった松平元康(後の徳川家康)による大高城兵糧入れになる。
これに対し「蜻蛉切の初陣」は忠勝16歳のときで、今川軍の牧野康成の家臣・城所助之丞某との一騎打ちだった。
他には、武田家臣・小杉左近が
──家康に過ぎたるものがふたつあり。唐の頭に本多平八。
と絶賛した【一言坂の戦い】や、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が井伊直政と共に絶賛した「小牧・長久手の戦い」、約90の首を取ったという「関ヶ原の戦い」など。
数多の著名な戦いで「蜻蛉切」を手に携えている。
ちなみにであるが……。
家康の「唐の頭」とは、中国四川省やチベットにいるヤクの尾毛を唐(中国)から輸入して付けた【兜】のこと。
防水機能があり、雨水が首から鎧の中に入らないように付けられていた。
ヤクは、現在でもカシミヤと並ぶ高級獣毛であり、戦国時代の「唐の頭」も高価だった。
それを徳川武将の半数以上がかぶっていたので、内陸を領し、海外貿易とは縁の薄い武田軍は驚いたという。
特に徳川家康の「唐の頭」(戸田氏蔵・新城市指定文化財)の毛は紅白で、長さは実に1.3mもあった。まるで歌舞伎の獅子のようである。
なお、ヤクの毛を付けた軍旗を「牙纛(がとう)」と言う。
柄を2丈にして徳川軍偵察隊の殿を
別の説では、「蜻蛉切」を手に入れたのは16歳の時であり、「蜻蛉切」と名付けられたのは「一言坂の戦い」を経てからという話もある。
なにせこの戦い、まるで三国志の張飛である。
「蜻蛉切」の柄を2丈にして徳川軍偵察隊の殿(しんがり)を務め、見付に火を放って武田軍の進軍を阻止。
遠回りしてきた武田軍を食い止め、徳川家康が「池田の渡し」から、舟で天竜川を渡り切ったのを確認すると、自分も天竜川を渡った。
本多平八郎忠勝が舟に乗った時、迫ってきた武田軍との距離は、わずか
【竿1本分】
だったなんて話も伝わる。
当面見来見附台(当面見来す見付台)
台辺繋馬立裴徊(台辺馬を繋いで立ちて裴徊す)
太平有象松山色(太平象有り松山の色)
忠勝勇名倶壮哉(忠勝勇名倶に壮なる哉)
山崎闇斎『遠遊紀行』(明暦4年(1658年))
上掲の『天龍川御難戦之圖』で、右側・黒い馬に跨っているのが徳川家康で、左側・名槍「蜻蛉切」を手に栗毛の馬に跨っているのが本多忠勝。
奥に見える天竜川の対岸が池田で、さらに奥が見付台(磐田原)にあたる。
このとき家康は、忠勝をこう言って迎えた。
──今日の進退度に中り、無比類儀、我が家の良将。(『浜松御在城記』)
さらに、蜻蛉切の製作者についても触れておこう。
※続きは【次のページへ】をclick!