水野勝成

水野勝成/wikipediaより引用

徳川家

家康の従兄弟・水野勝成は戦国最強武将か!全国流浪したリアル傾奇者

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成政から行長、清正、官兵衛と、大大名を流転し…

まず勝成は豊臣秀吉のもとに行ってみた。

ちょうど四国征伐中であったため、陣に潜りこみ、七百石の扶持を得た。

が、何をしでかしたのか、勝成は秀吉の勘気をこうむり、慌てて逃げ出した。

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旅の途中、体の垢を丸めた物を「妙薬だ」と騙して子供に飲ませるなどしながら(ひどい逸話だが、本当に『名将言行録』に書いてある)、九州へと赴く。

その頃、肥後には佐々成政がいた。

勝成はそこで千石の扶持を得る。

肥後は国人一揆の最中であり、勝成は大暴れ。当然、数々の武功をあげたが、成政は一揆の責任をとり切腹させられてしまった。そのため、手柄は全て無しになってしまう。

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仕方なく勝成は、新領主の小西行長に仕えた。

そこでも一揆などを潰していたが、やがて加藤清正に仕えることとなった。

だが、すぐにそこも辞し、次に立花宗茂、そして黒田孝高黒田官兵衛)に仕えた。

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どこに行っても千石以上で雇ってもらえたようなので、やはり腕が立ったということだろう。

ところが、黒田孝高の長男・黒田長政の大坂行きの船に随伴している最中、勝成は唐突に姿を消してしまう。

理由は不明。戦ばかりの生活に飽きたとも、大坂で待つ秀吉を恐れたものとも言われている。

行方をくらますこと約六年。

なぜか勝成は、備中の国人・三村親成の食客となった。扶持はわずか十八石だったという。

もっとも、そこでも茶坊主を斬り殺すなどの事件を起こしている。

どこまでいっても、人間はそう簡単に変われぬものらしい。

そんな折、天下人・豊臣秀吉が薨去し、世は騒然とし始める。

勝成は、さっそく徳川家康のもとへと馳せ参じた。

が、いまだ「奉公構え」の最中なので、名乗ることもできず、仕方なく勝手に城の門番などをした。

それでも、やはり目立っていたのだろう。あっさり正体を見破られてしまう。

そこで家康は、強引に水野親子を仲直りさせた。

こうして、勝成の十五年もの放浪生活は終わりを告げたのであった。

 

奸臣・光秀の官位を喜んでもらい受ける

ところが、和解もつかの間、なんと父・忠重は石田三成の手により暗殺されるという事件が起こってしまう。

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関ヶ原の戦いを目前にひかえ、勝成は刈谷三万石を継ぐこととなってしまったのである。

水野家当主となった勝成は、大垣城攻めという見事な武功を上げた。

戦後、勝成は従五位下に叙任され「日向守」の官位を受けた。

実は、この日向守は奸臣・明智光秀が名乗っていたため、欲しがる者がいなかったのだが、勝成は喜んで貰い受けたという。

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以後、彼はその勇猛さから「鬼日向」と呼ばれることとなった。

勝成は、大坂の陣でも活躍した。

まずは前哨戦、道明寺の戦いで猛将・後藤又兵衛を軽くひとひねり。

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本戦では家康から、「絶対に一騎駆けはするなよ!」と言われていながら、やっぱりしてしまい、見事、大阪城一番乗りを果たした。

このとき齢五十二。何一つ人生を反省しない男であった。

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