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女系が強い時代のリスク
外戚(妻の一族)は危険である――。
『三国志』ファンにとっては御馴染みのシチュエーションですが、呂雉にせよ、北条政子にせよ、彼女らの出身一族は台頭し、夫の一族を喰らい尽くそうとしました。
実際、源氏は不運を重ね、北条一族の台頭を防ぎようがなかった。
しかし、漢の皇族である劉氏は巻き返します。
と同時に究極の外戚対策を思い付きます。それがこの二択です。
・子を産んだら、その母は殺す
・実力のない一族から妻を迎える
あまりに苛烈な選択であるため、前者を選ぶ権力者は少数派です。
例えば、前漢武帝と鉤弋夫人(こうよくふじん)、北魏の「子貴母死制」が該当します。
後者の例としては『三国志』でお馴染みの曹操に注目しましょう。
彼の正夫人である卞氏は歌妓出身です。曹操がキャバクラ好きということではなく、彼女はむしろ質素を好み、目立たないようにし、周囲を立てる賢い女性でした。
一族が調子に乗るようなこともありません。目立てば危険だと理解していたのでしょう。
前述の通り、読書を好む知性派の徳川家康としては、そうした歴史からの教訓を読み取っていたことは十分に考えられる。
数多いる家康の妻のうち、実家の後ろ盾があるのは、本人が選んでいない築山殿(瀬名)と、朝日姫のみ。
家康が既婚者好みで知られるのに対し、秀吉は貴族や有力武家の姫を好むとされます。
これは本人たちの単なるスペック好みではなく、権力への意識もあるのでしょう。
家康としては、外戚の台頭リスクを抑えたい。
秀吉としては、女系の取り込みによって権力を盤石のものとしたい。
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中世までの日本は、男系と女系の両方を重視する【双系制】が強いとされます。
その認識が江戸時代以降に薄れたため、家康にせよ秀吉にせよ「好みの女をスペックで選んだ」と思われるようになったのではないでしょうか。
つまり両者共に「単なる女好きではなかった」と考えられるのです。
話を西郷局に戻します。
外戚としての西郷氏
西郷局当人からすれば、我が子の成長を見守れなかったことは確かに不幸だったでしょう。
しかし、冷たい言い方となりますが、外戚の台頭を防ぐという観点からすれば、徳川家にとってはよいタイミングでの死となります。
彼女の出自である西郷氏からは、秀忠の異父兄ぐらいしか取り立てられず、弱小一族だったことも浮かんでくる。
家康が大御所として長く君臨し、結果的に秀忠の統治が短いことも、外戚台頭の余地はありませんでした。
西郷氏は譜代大名として、安房国・東条藩主となるものの、三代で改易。
その後は交代寄合として存続しました。
秀忠の後の徳川家光の場合、母・お江の実家である浅井氏はすでに滅亡しています。
お江本人の気の強さに秀忠も困惑していたとはいえ、ここでも外戚台頭の心配はありませんでした。
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