明智家 豊臣家 麒麟がくる特集 合戦

山崎の戦いで光秀がフルボッコにされた理由は本能寺からの流れでわかる

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1582年6月1日夜に丹波亀山城を出発した13,000の明智軍は、進路を京都中心に定め織田信長に襲いかかりました。

ご存知、本能寺の変です。

その後、明智光秀は自身の「天下」を盤石にすべく、あの手この手で地盤固めに取りかかります。

そして、その多くが首尾よく進まず、アタフタとしているうちにやってきたのが羽柴秀吉(豊臣秀吉)。
両者は京都で激突することになりました。

山崎の戦い――。
雌雄を決する戦いは、いかなる状況で進み、そして決着を見たのか。

その全貌に迫ってみたいと思います。

明智光秀55年の史実をスッキリ解説!大河麒麟がくる主役のナゾ多き生涯

 

本能寺直後から政権運営に着手

本能寺で信長を討ち、二条御所の織田信忠を自害させた光秀が、その後、拠点に選んだのは「近江」。
ここから彼の政権運営がスタートしました。

まずは天正10年(1582年)6月2日の午前中。
かねてから光秀の盟友として知られていた公卿の吉田兼見と対面します。

兼見は「新天下人」の光秀に対し「これから領地のコトをよろしく頼むよ」と陳情するほかありません。
この時点では、まさか光秀政権が一瞬でひっくり返るとは夢にも思っていなかったでしょう。

吉田兼見/wikipediaより引用

次に光秀は、6月3日から5日にかけて自身の居城・坂本城にて、周辺の武将を明智派に組み込むべく工作を行っています。

その一方で配下を長浜に派遣し、宣教師オルガンティーノの来城を機会として彼にキリシタン武将・高山右近への説得を手伝わせました。

矢継ぎ早に慌ただしく進みますが、なにせ本能寺の変直後のことです。

状況からして光秀は、
・単独で
・突発的に
犯行に及んだと予想され、事前の手回しなど一切していないはず。それだけに寝る間も惜しんで動き回ったことでしょう。

本能寺の変における光秀の動機については、以下の記事に諸説をマトメましたので、よろしければご覧ください。

本能寺の変~諸説マトメ!光秀はナゼ信長を討たねばならなかった?

 

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フロイス「摂津を放置したから滅んだのだ」

ともかく時間は1分でもムダにはできない状況下、6月5日には、城主不在となっていた安土城を接収しました。

城内の金銀財宝を部下に配分するとともに、彼らの手で近江領内にある羽柴秀吉や丹羽長秀の本城を立て続けに占領。
さらには、朝廷側も兼見と光秀の関係性から、光秀との仲介役を兼見に依頼しており、6月7日には二人で「この度の謀反を詳細に語り合った」ようです。

かように、本能寺勃発から数日間は光秀が精力的に活動を重ね、着々と体制を固めにかかっていたことがわかります。

しかし、6月7日と8日の動きは比較的にぶいものでした。

宣教師のルイス・フロイス
「このタイミングで空き巣の摂津を占領しなかったから光秀は滅んだのだ」
と分析しております。

実際のところ、摂津国が完全に空き巣だったのか?といえばそうではなく、有力な武将が残存していたようです。

いずれにせよ光秀の思い描いていたであろう「成功への計画」は“6月9日”を境にとん挫し、明智家の将来に暗雲が立ち込めていくのです。

いったい6月9日に何があったのか……。

 

細川・筒井を味方にできず…

6月9日――光秀は自身の娘であるたま(細川ガラシャ)が嫁いだ細川家へ、出兵の要請を送りました。

光秀の立場からすれば
『親戚の関係でもあるし、当主の藤孝とは長い付き合いだし、きっと味方になってくれる』
と考えていたことでしょう。

しかし、細川親子に文書を送る前の段階で、光秀のもとに絶望的な一報が寄せられていた模様。
それは、次のような内容でした。

細川藤孝細川忠興親子がマゲを切り、信長に対する哀悼の意を表明している(信長への忠義を表現している)】

細川藤孝(細川幽斎)/wikipediaより引用

彼らの振舞いに光秀は相当イライラしたでしょう。
それでもなお細川の力を頼りせざるを得ない光秀は「三カ条の覚書」を送り、自身への服属を求めています。

記述を要約するとこうなります。

「二人がマゲを払ったことはたいへん腹立たしいが、よく考えればそれも理解はできる。もともと二人には摂津を与えようと思っていたが、お望みならば但馬と若狭をつけてもいい。ぜひ味方してはくれないか。ちなみに、自分が謀反を企てたのは忠興らを取り立てようと思ってのことだ。近国を平定したら私は引退して次代に任せる」

「細川の態度はムカつく!」と思いながら、「でも味方してくれないと困る…」とも考える光秀の苛立ちと焦りが如実に示された表現。
思わず笑ってしまいそうな内容ですが、光秀当人にとってはクーデターの成否がかかっています。

しかし、本能寺直後から頑なに明智と距離をとっていた細川家が恩着せがましい光秀に味方するはずもなく、娘の細川ガラシャを幽閉、従者を送り返して実質的に「絶縁」を意味する回答を示しました。

これは致命的でした。

細川家はいち武将として強力なだけでなく、名門一族でもあり、周辺勢力への影響力も強い。
しかも、ただ無視されるだけにとどまらず、彼らは今後の対決が予想される秀吉に急接近するのです。

このことを知った光秀は、まさしく絶句したことでしょう…。

さらに、光秀の与力大名として勢力を拡大していた筒井順慶も、出陣要請を黙殺します。
光秀は、順慶を出迎えるため、わざわざ洞が峠(現在の大阪府枚方市付近)まで出向いたとされますが、そこに順慶の姿はありませんでした。

筒井順慶/wikipediaより引用

親戚で友人の細川藤孝と、自身の配下に等しかった筒井順慶。
この両家は、光秀も【味方である】と算段をつけていたでしょう。

戦国の世とはいえ、そんな彼らにアッサリと見捨てられた彼の心情を考えると、寒々しくて、思わず同情したくなるほどです。

 

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秀吉の神速により、開戦前から旗色は最悪に

細川と筒井の二枚看板を失った――調略失敗で泣きっ面の光秀に飛んできたのは「ハチ」ならぬ「サル」でした。

備中高松城(現在の岡山県岡山市)を水攻めで包囲していた羽柴秀吉は、変の知らせを受けると毛利氏と和議を結んでただちに撤退。
6月5~6日に大軍を引き連れて中国路を姫路へ向かいました。

この間ほとんど休息をとることはなかったと考えられ、7日には姫路に到着しています。

【関連記事】中国大返し




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秀吉は同時に、畿内エリアへの撹乱工作も忘れず、光秀に味方をするかもしれない中川清秀に対し、
【信長・信忠父子は無事に近江へ逃れた】
という偽情報を流し、中川ほか近畿の武将が明智サイドにつくことを阻止しようとしておりました。
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