豊臣家

長束正家(豊臣五奉行の一人)は家康も警戒する有能な戦国武将だった

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忠勝の妹を正室に迎えている

文禄・慶長の役(1592~1598年)では、特筆すべきエピソードはありませんが、三成と協力して仕事をしていたのかもしれませんね。

そして、同じ仕事をしているはずなのに周囲からの好感度の差は何たることや。

話が前後しますが、九州征伐の年(1586~1587年)、長束正家は本多忠勝の妹・栄子を正室に迎えました。

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三年後には長男が生まれていますので、夫婦仲はそこそこ良かったのではないでしょうか。

おそらくは、徳川家との関係を良くしておきたいという秀吉の方針でしょう。

秀忠が人質としてやってきたときには、正家が出迎えを務めるだけでなく、外交役も任されておりますので、かなり人当たりのいい性格だったのかもしれません。

また、正家は内政にも関心を持っていました。

文禄の役と慶長の役の間に、豊臣秀次に相談の上で豊後(現・大分県)の荒れた農村を再建すべく、手を講じています。

いろいろと細かいところに気が回る人っぽい感じがしますね。

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関ヶ原では東端に位置しすぎてどうにもならんかと

このように地道な仕事を積み重ねた結果、長束正家は、秀吉に認められて近江水口城五万石を賜りました。

二年後には12万石に加増され、領内の寺を保護したり、蒲生家の浪人を召し抱えたりもしています(蒲生秀行の代で蒲生騒動が起き、92万石→18万石の大幅減封となっていた)。

本人が意識していたかどうかはわかりませんが、関ヶ原の戦い前【会津征伐(上杉征伐)】の頃からやや西軍よりの行動を見せ始め、徳川家康には警戒されています。

正家はともかく、

「正家の息子と家臣が水口城で家康暗殺を企てている」

という噂が立ち、家康は水口城には立ち寄らずに東へ抜けました。

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武働きや計略はさほど得意ではない(と思われる)正家ですが、関ヶ原の前哨戦である【伏見城の戦い】や、【安濃津城の戦い】では成果を上げています。

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伊勢では、家康の本隊と東軍の小規模な船団を間違えて退却する――そんな、うっかりすぎるミスもしています。

このころ家康はまだ江戸を出てすらおりませんので、なぜ勘違いしたんですかね。

いくら情報の伝達速度が現在とは比べものにならないとはいえ、ここはちょっと疑問符がつきます。

そして関ヶ原の戦い本戦へ。
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