塙団右衛門直之

豊臣家

大坂の陣「夜討ちの大将」塙団右衛門直之!夜襲で名札ばらまく糞度胸

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「夜討ちの大将」の木札でブランディング

団右衛門は、20人ほどの小勢で蜂須賀至鎮(蜂須賀小六の孫)の隊を襲撃しました。

そこで重臣・中村右近を討ち取るという成果を挙げます。

新参者ゆえに預けられた兵が少なかったことを考えれば、満点といってもいいほどの戦果でしょう。

その際、宣伝を狙ってか。

【夜討ちの大将・塙団右衛門直之】

と書いた木札をばら撒かせたとか。

強烈な自己アピールは、人によっては眉をひそめそうですが、なんとも華やかな戦国武将らしいとも言える気がします。

そもそも戦国武将は兜や旗で己の生き様をアピールすしてこそ、ですもんね。

そして彼はこの功を買われ、翌年(1615年)の大坂夏の陣で大将に抜擢されます。

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さぞかしノリノリであろう――そんな印象もありますが、夏の陣が始まる前に旧友へ宛てた手紙の中でこんなことを記しています。

「定めなき世の中ゆえにもう会えないかもしれないし、会えるかもしれない」

さりげない無常観が出ていて、単なる目立ちたがり屋でないことが窺えますね。

そしてその最期は、木札のエピソードに通ずるような、関ヶ原の戦いでの一騎駆のような、団右衛門らしいものでした。

 

抜け駆けされたと知ってブチ切れ!

1615年の大坂夏の陣――。

その前年(1614年)の大坂冬の陣により、大坂城は堀を埋められた裸状態となっており、籠城には耐え難い仕様となっておりました。

徳川家康としても無駄な損耗を重ねるより「もう戦いにならんから降参せい……」と思っていたかもしれません。

が、大坂方の武将たちは、城を出て戦う覚悟を決めます。

4月28日、大野治房12,000の軍の一角を形成していた団右衛門は、3千の兵を引き連れ南へと進んでおりました。和歌山からやってくる浅野長晟(ながあきら)の軍と迎え撃つためです。

浅野長晟の浅野家は、豊臣政権の中でも特に秀吉に目をかけられた家です。

長晟の父・浅野長政は、五奉行の中でも筆頭の武将として知られていました。

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それが関ヶ原の戦い以降は徳川方に付いており、大坂の陣においても、豊臣秀頼からの再三にわたる支援要請を断っていたため、大坂方からは特に睨まれていた存在です。

言うなれば“見せ場”十分の場面。

団右衛門は、大野治房軍の先鋒として武名をあげようと意気込んでいました。しかし……。

 

白地に墨で【塙団右衛門直之】

岡部則綱(岡部大学)が抜け駆けしたとの情報が入ってきます。

これにブチ切れてしまった団右衛門。あろうことか馬に鞭打ち、一騎駆してしまうのです。

対する浅野長晟軍は5,000からの兵を引き連れた大軍です。

その中に単騎駆で突入すればどうなるか?

火を見るより明らかな結果は、和泉樫井村あたりで起きました。

敵陣に突入した団右衛門は、弓で射抜かれ、槍で刺され、あっけなく討ち取られてしまったのです。

ちなみに、この一騎駆けしたときも白い布に墨で書いた

【塙団右衛門直之】

という差物を背負っていたようです。

最後まで“らしい”生き方でした。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
永岡慶之助『大坂の陣・人物列伝「塙直之・長宗我部盛親」』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
塙直之/wikipedia

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