石田三成

石田三成/wikipediaより引用

豊臣家

日本史随一の嫌われ者・石田三成を再評価!豊臣支えた41年の生涯

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石田三成
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彼らは秀吉の遺言をないがしろにする家康を「内府ちがひの条々」にまとめて糾弾したのです。

さらに大老の一人・毛利輝元を大坂に呼び出します。

家康に対するクーデターとも言える行為でした。大老の一人・宇喜多秀家もこの動きに同調します。

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三成はこうした徳川包囲網が整う中、ひっそりと活動を開始します。

公職から退いていた彼は、懇意の大名に私信を送り始めるのです。

 

三成の再起と誤算 「関ヶ原」への道

佐和山で隠居の身だった三成は、この機に乗じて奉行職に復帰。

上杉家や真田昌幸真田幸村)のような、親豊臣派勢力と連絡を取り始めます。

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8月には伏見城を落とし、大坂城へ。さらに佐和山に戻ると、出陣の準備を整えます。

三成は尾張から三河あたりで家康を倒すことを念頭に、戦略を練りました。

一方、徳川家康は上方の動向を知るとサッと軍を引き返し、軍勢を整えます。

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上方の西軍が、政権のシンボル・豊臣秀頼を手にした以上、豊臣恩顧の将がこのまま従うのか、家康としては気になるところです。

フィクションですと「待ってました!」とばかりに軍を動かす家康像で描かれますが、実際は、味方のコントロールも十分でなかったフシが見て取れます。

要は、家康も内心では心臓バクバクだったでしょう。

「今後も徳川に味方するのか?」

「なれば行動で示すべし!」

かくして家康は、諸将に対して西へ向かうよう命じます。

言葉ではなく行動を求められた福島正則池田輝政細川忠興らは、電光石火の軍事行動で織田秀信三法師)のいる岐阜城を陥落させました(岐阜城の戦い)。

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さらに彼らは三成の大垣城まで攻めようとして、家康に止められます。

家康やその嫡男・秀忠の隊は出発が遅れています。

彼らが到着する前に豊臣恩顧の将に必要以上に活躍されても困るわけです。

江戸で様子を見ていた家康は、9月1日に出立するのでした。

徳川家康/イラスト・富永商太

三成の戦略としては、家康不在の間に畿内周辺を制圧するはずでした。

しかし上杉勢が背後から家康を衝く「挟撃案」は、そもそも上杉の背後に伊達政宗最上義光がいたことを考えるとあまり現実的とは思えません。

もっとも三成は、伊達と最上の人質を確保している以上、自分たちに味方するハズだと真田昌幸宛の書状に書き記しています。

しかしその計算は狂い、もはや西美濃で両軍が激突することは不可避でした。

秀吉恩顧の将たちですら言い訳をしつつ家康に味方し、想定以上に苦しい戦況に持ち込まれた三成。

彼にとって最大の敵は、家康よりもいつ裏切るともわからない味方かもしれません。

増田長盛、小早川秀秋らの動向があやしいということは事前に把握していました。

秀秋は陣地でも最も重要な松尾山に無断で着陣。優柔不断な秀秋が家康に射撃されたことで翻意したというよりも、むしろ裏切りを前提として最善の行動を取っていたのでしょう。

大老の一人として総大将を務める毛利輝元に至っては、大坂城から出ようとはしません。

両軍は関ヶ原に陣取りました。

長い乱世において最大規模の軍勢を指揮しているにも関わらず、三成が信じられる者はごく一部。

嶋左近清興
大谷吉継
宇喜多秀家
小西行長
島津義弘(ただし微妙な立場)

彼らは勇敢で誠実でした。

しかし、余りに少なかったのです。

 

決戦! 関ヶ原

決戦の日は、9月15日。午前10時頃、東軍の井伊直政が銃撃を加え、激戦が始まりました。

三成の本陣は、敵の激しい攻撃にさらされながらも、必死で防戦します。

彼らの奮戦ぶりは味方を勇気づけたことでしょう。

しかし、小早川秀秋だけでなく脇坂安治や小川佑忠らも裏切って戦況は一転。西軍は大きく崩れ、大谷吉継らが討ち取られていきます。

三成の本陣も崩壊。三成は再起を誓い、伊吹山山中へと落ち延びてゆくのでした。

居城の佐和山城は父・正継と兄・正澄が守っていました。

これも東軍に攻められて落城。

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攻め込んだのが小早川秀秋を中心とする関ヶ原での裏切り者たち(朽木元綱・赤座直保・小川祐忠・脇坂安治)というのは、なんとも酷だなぁと胸が痛くなりますね。

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このとき三成の正室が討ち死にしたという説もありますが、同城にはおらず生存していた説もあります。

伊吹山を逃亡していた三成は、田中吉政の追っ手によって捕まりました。

吉政が三成を丁重に扱ったところ、三成は形見に「石田貞宗」を贈りました。

かつて秀吉から下賜された名刀でした。

 

かがり火とともに消えた忠臣の命

10月1日、三成は小西行長・安国寺恵瓊とともに京都の市中を引き回されました。

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そして籠城河原で斬首。享年41。

辞世は以下の通りです。

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

三人の首は、自刃した長束正家の首とともに三条大橋のたもとに晒されました。

三成腹
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ただし長男は助命されて出家。

二男は津軽家に匿われ、苗字を「杉山」と変えて仕官します。

三女は、弘前藩2代藩主・津軽信枚の室となりました。

非業の死を遂げた三成ですが、彼の子は厚遇を受けたのでした。

当時の人々は、三成に対する処分をおかしいと感じていました。

処刑そのものではなく、三成が総大将であったかのように処罰されたことに対して、です。

三成は確かに大きな役割を果たしましたが、西軍最大の責任者は毛利輝元であったはずです。上杉景勝も、慶長5年の軍事行動において三成と同等、あるいはそれ以上の責があるはず。

ところが彼らは助命されました。

三成は罪を背負わされ、死んでいったとも言えます。そして悪名もまた、背負わざるを得なかったのです。

豊臣秀吉は、異例の出世を遂げた「太閤はん」として人々に愛されました。

しかしその一方で三成は、秀吉の偉業を台無しにし、家康に逆らった奸臣として、あまりに不名誉な扱いを受け続けたのです。

かくして江戸時代を通して、奸臣の代表的存在とされてしまった石田三成。

しかしそんな時代にあっても、三成ゆかりの地に住む人々は、彼の名君ぶりをひそかに伝え続けたのでした。

画・富永商太

冒頭にも書きましたが、現在は奸臣としての石田三成像は古いものとして認識されています。

人格的や性格的に問題があったというよりも、立場として憎まれ役にならざるを得なかったというのが実態ではないでしょうか。

圧倒的な不利の中でも豊臣家のためにぶれずに尽くし、そして散った彼の姿は、これからも人気を集めてゆくことでしょう。

そんな三成への熱い思いがこめられた動画を、2016年に滋賀県が作りました。

※石田三成×滋賀県公式サイトより(→link

彼への思いが詰まった動画です。

よろしければ最後にご覧ください。

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文:小檜山青

【参考文献】
国史大辞典
中野等『石田三成伝』(→amazon
三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(→amazon

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