秀吉と言えば女好き。
漫画やドラマなど各種フィクションでは必ずと言っていいほど数多の女性関係が取り沙汰され、一説には側室が16人いたとも囁かれます。
でも、それは本当のことなのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』で描かれた秀吉は、弟の秀長から茶々との縁談を持ちかけられ、「寧々が悲しむようなことはできない!」とキレていました。

寧々のイメージイラスト
まるで寧々以外の女性は一切側に置いていないかのようなリアクション。
さすがにそれは白々しくないか?とツッコミたくなる場面でしたが、史実の秀吉がどれだけの女性を妻としていたのか、正確に答えるのは難しいことかもしれません。
例えば、研究者の福田千鶴氏は著書『豊臣家の女たち』の中で、秀吉の妻を7人と数えています。
福田氏の見解に従えば、寧々と茶々のほかに5人。
では誰のことで、どんな基準で選ばれているのか?
本記事では、史実面から秀吉の女性遍歴について見てみましょう。
秀吉の時代に「側室」の身分はなかった
本記事では、ここから先「側室」ではなく「妻」という言葉を使わせて頂きます。
なぜ「側室」ではないのか?
一般的に戦国時代の女性といえば正室と側室という表記をイメージしますので、秀吉の場合は「正室の北政所(寧々)と側室の茶々(淀殿)など」という描き方が定番となるでしょう。

茶々イメージイラスト
しかし、秀吉が生きた同時代の史料の中に「正室」と「側室」という言葉は見当たらないと福田千鶴氏は『豊臣家の女たち』の中で指摘。
妻が一人でそれ以外が側室という考え方は江戸時代の話であり、秀吉の場合は家を取りしきる「正妻(寧々)」の他に正式な妻として扱われる「別妻」が複数いたと言います。
しかも、です。
別妻以外にも「妾」がいたため、豊臣家は「一夫多妻多妾」とするのが正しいとのこと。
さすがに妾までは把握しきれませんので、今回は妻とされる7人に注目してみましょう。
史料から浮かぶ7人の女性
まず、豊臣家では何をもって妻とするのか?
妻であると判定する有力な手がかりは、独立した御殿や居所を与えられていたかどうかとなります。
福田氏は、これを第一の指標としており、例えば茶々が淀城に住み、「よどの物」と呼ばれたのはその典型。
こうした呼び名や居所、豊臣家中での扱いを踏まえ、妻として取り上げられるのが次の7人です。
寧々(北政所)
◆正妻/杉原定利(道松)の娘で浅野長勝の養女

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用
秀吉の正妻として圧倒的に有名なのが寧々ですね。
まだ身分の低かった頃の秀吉と結ばれており、後に彼女は豊臣家を支える正妻として無くてはならない存在となります。
例えば他の大名家の奥方や子息などのケア、寺社や朝廷との折衝など、並の武将以上に重要な役割を果たしました。
南殿
◆石松丸の母か/出自は不明
南殿は、秀吉が長浜城主だったころ、城の南の郭に置かれた女性です。
琵琶湖竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)に残る寄進の記録に名が見え、石松丸の母と推定されています。
ただし、大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証を務める黒田基樹氏は著書『羽柴秀吉とその一族』の中で、南殿が別妻だったのか妾だったのかは確定できないとしています。
姫路殿
◆姫路城に置かれた妻/織田信包の娘
姫路殿は、あまり聞き馴染みがないかもしれません。
天正九年(1581年)と推定される秀吉の書状に「ひめぢ」として登場し、姫路城に置かれた妻とされます。
福田氏は織田信包(信長の弟)の娘としていて、のちに離縁され、妻の地位から外れました。
江戸時代の『伊勢国司伝』では、信包の妻が娘を手元に留めて返さなかったためだと伝えています。
京極龍(松の丸殿)
◆京極高次の妹

松の丸殿(京極竜子)/wikipediaより引用
京極龍は、近江の名門・京極家の娘で、前夫は若狭の武田元明でした。
黒田氏は著書『お市の方の生涯』の中で、兄の京極高次が天正十二年(1584年)に秀吉の直臣に取り立てられたころには、龍が別妻になっていた可能性が高いと推定しています。
浅井茶々(淀殿)
◆鶴松と秀頼の母

淀殿(茶々)/wikipediaより引用
浅井茶々は、のちに鶴松と秀頼を産みます。
結婚の経緯は、以下の記事で詳しく扱っています。
-

秀吉に茶々との結婚を勧めたのは秀長だったのか?32才差夫婦が結ばれた経緯
続きを見る
三の丸殿
◆織田信長の娘

三の丸殿/wikipediaより引用
三の丸殿は、秀吉の主君だった信長の娘。
太田牛一の著書『大かうさまくんきのうち』に登場した女性で、慶長三年(1598年)3月「醍醐の花見」で触れられています。
四番目の輿に乗っていたと記されていて、別妻の序列としては三番手だったと考えられています。
加賀殿(前田摩阿)
◆前田利家の娘
前田利家の娘・摩阿(まあ)で、天正十四年(1586年)の上洛からほどなく秀吉の妻になったとみられます。
醍醐の花見に並んだ5人
三の丸殿の欄で記したように、秀吉の最晩年となる慶長三年(1598年)3月15日に開かれた「醍醐の花見」では、妻たちが並びました。

『醍醐花見図屏風』に描かれた豊臣秀吉と北政所/wikipediaより引用
北政所・淀殿・松の丸殿・三の丸殿・加賀殿の5人であり、この順番が、そのまま当時の妻たちの序列を表しています。
ただし、5人というのは妻の総数ではありません。
例えば南殿は、長浜時代以降の史料では名が見えず、姫路殿はすでに離縁されているなど、7人は、秀吉の生涯を通じた人数です。
では「側室16人」という話は、どこから来たのでしょうか?
なぜ後世では16人まで増えたのか
研究者の菊地浩之氏は著書『豊臣家臣団の系図』の中で、『伊達世臣家譜』に「秀吉の側室は16人」と記されていることに着目しています。
『伊達世臣家譜』は、仙台藩の家臣たちの系譜をまとめたもので、成立は寛政四年(1792年)。
秀吉の死から約200年後に成立した編纂物であり、16人という数字はそのまま受け取れません。
しかし、中にはよく知られた名前もあり、例えば以下の女性たちが該当します。
◆後世に側室とされた主な女性
・三条殿……蒲生賢秀の娘「とら」とされる
・甲斐姫……成田氏長の娘
・香の前(お種)……伏見の侍・高田次郎右衛門の娘
・嶋姫(月桂院)……足利頼純の娘
・山名氏……山名豊国の娘
このうち三条殿について福田氏は、蒲生賢秀の娘で秀吉の妻妾になった者はおらず、信長の娘・三の丸殿と混同されたものであろうと指摘。
甲斐姫も、後世の記録や伝承で側室とされている女性です。
香の前は、『伊達世臣家譜』に、秀吉から伊達政宗の家臣・茂庭綱元(もにわ つなもと)へ与えられた女性として出てくる人物で、秀吉の妻だったと確かめられてはいません。
このほか嶋姫(月桂院)や広沢局なども、妻だったことを示す同時代の史料はナシ。
結局、『伊達世臣家譜』など江戸時代の史料では、秀吉と関わったと伝わる女性をまとめて「側室」に数えたものがあり、同時代で確認できるのは冒頭の7人です。
女好きのイメージと比べると、意外に少ないと感じたでしょうか。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
若い娘を300人とは!?
確かに、フロイス『日本史』では、秀吉が政庁内に大身の若い娘300人を置き、各地の城にも多くの女性を置いていたと記されています。
しかしこれは秀吉を厳しく非難するための文脈で記されていて、300人をそのまま実数とは見なせません。
全員が妻や妾だったわけでもなく、かなり誇張された表現でしょう。
いずれにせよ、秀吉が寧々だけを愛し抜いたという人物でないことは明白。
茶々との結婚も弟の秀長が強引に推し進められたようにドラマでは描かれましたが、その詳細についても以下の関連記事で考察しておりますので、よろしければ併せてご覧ください。
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秀吉に茶々との結婚を勧めたのは秀長だったのか?32才差夫婦が結ばれた経緯
続きを見る
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石川数正はなぜ秀吉のもとへ走ったのか?豊臣兄弟第39回史実解説
続きを見る
参考文献
- 福田千鶴『豊臣家の女たち』(2025年10月 岩波書店)
- 黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(2025年5月 KADOKAWA)
- 黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(2023年1月 朝日新聞出版)
- 藤井讓治『天下人の時代』(2011年11月 吉川弘文館)
- 菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(2019年11月 KADOKAWA)
- ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史④ 秀吉の天下統一と高山右近の追放 豊臣秀吉篇Ⅰ』(2000年4月 中央公論新社)
- 仙台市博物館「伊達世臣家譜・伊達世臣家譜続編」


