万治元年(1658年)10月12日は、加賀藩主・前田利常(としつね)の命日。
前田利家の四男で、加賀百万石を受け継いだこの殿様には、奇妙なあだ名があります。
「鼻毛大名」です。
幕府に警戒されないよう、わざと鼻毛を伸ばして愚か者を装った――そんな逸話で知られるのですが、果たしてこれは史実のことなのか?
利常が幕府に何度も疑われ、加賀藩が存亡の危機に立たされていたことは間違いありません。
いったい利常は、どれほど幕府に睨まれていたのか?

前田利常/wikipediaより引用
「鼻毛大名」と呼ばれるようになった背景を振り返ってみましょう。
「鼻毛大名」の逸話はどこから?
前田利常の鼻毛の話は、江戸時代の逸話集『明良洪範』などに見えます。
話をザッとまとめると以下のような内容です。
【意訳】
鼻毛が伸びているのを、皆が愚か者だと言っているのは私も知っている。
鏡を差し出されたり、近習がわざと鼻を気にするそぶりをしたりするのも、皆の差し金だろうと察していたが、そのままにしておいた。
賢いところを鼻にかければ、人に警戒され、思いがけない難儀を受ける。
愚か者だと思われてこそ、安心して三か国を治め、お前たちを栄えさせることができるのだ
出典:『明良洪範』(意訳)

鼻毛を伸ばしたという逸話のある前田利常(絵・富永商太)
フィクションならではの、よく出来た話ですよね。
『世界人物逸話大事典』によれば、江戸時代の作家・井原西鶴の作品にも、利常が鼻毛を伸ばして愚かなふりをしていた話が出てくるといいます。
西鶴が活躍したのは利常の死から30年ほど後ですから、鼻毛の話は世間に広まっていたのでしょう。
しかしこれは、本人や家臣の記録で確かめられる話ではありません。
ならばなぜ、そんな話が出てくるのか?
逸話が生まれた背景には、前田家と幕府の張り詰めた関係がありました。
四度もあった加賀藩存亡の危機
前田利常が受け継いだ加賀藩は、言うまでもなく外様大名の中で最大の大名家。
徳川家からは常に警戒の目を向けられています。
『石川県の歴史』では、利家・利長・利常の三代のあいだに、

前田利家と利長/wikimedia commons
領国の存続にかかわる危機が四度あったと整理しています。
①慶長四年(1599年)家康が前田家討伐を図ったとされる加賀征伐
②慶長十九年(1614年)新川郡の返還問題
③元和元年(1615年)四国への国替え問題
④寛永八年(1631年)幕府の疑いを受ける
利常の代になって表面化したのが、②慶長十九年の新川郡(越中)の問題です。
兄・利長が亡くなると、隠居領の新川郡について、幕府から「本当に前田家の領地なのか」という疑問が出されました。
この土地は、もともと秀吉から口約束で与えられていたため、正式な文書がなかったとされます。
疑われても仕方のない問題でしたが、このときは家臣の本多政重が縁故を頼って奔走し、ようやく事なきを得ました。

本多政重/wikipediaより引用
一通の文書がないだけで領地を失いかねない。
それが外様の大大名の立場だったのですね。
そして利常自身にとって最大の危機となったのが、④寛永八年の一件でした。
寛永八年には幕府から謀反を疑われ
寛永八年(1631年)、家中の刷新を図る前田利常は、新たに若者を召し抱えるなどして藩の立て直しを進めていました。
しかし同年11月、この動きに対し、幕府が不審を抱いているという知らせが届きます。
城の石垣を直し、武具をそろえ、船を買った――いずれも見方によっては戦の準備に映ってしまう。
利常は嫡男の光高とともに急いで江戸へ向かい、家臣の横山康玄を江戸城に送って釈明させました。

江戸城/wikipediaより引用
石垣は火災で傷んだところを直しただけ。
武具も火事で失った分を補っただけ。
船は幕府に何かあったときのためのもので自国に置いていない。
それまで前田家では、2代将軍・徳川秀忠の娘である珠姫を利常の妻に迎えていましたが、珠姫はすでに亡くなっており、幕府との婚姻関係を結び直す必要に迫られていました。
そこで水戸徳川家の娘・大姫を将軍家光の養女とし、光高に嫁がせることになります。
そして、その後3年間、利常と光高は国元に帰らず、重臣たちも人質を出して幕府への恭順を示しました。
鼻毛を伸ばして剛毅を示すどころではない、必死の弁明だったわけです。
隠居して富山・大聖寺の支藩を置いた
寛永十六年(1639年)、前田利常は家督を光高に譲りました。
このとき利常は、嫡男の光高に本家80万石、次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石を譲り、自身は32万5千石の隠居領を持って小松城へ移りました。
本藩の両側に支藩を置くことで、軍事的な防備を図った可能性も指摘されますが、その狙いの真意は不明。
万治元年(1658年)9月、利常は江戸城の天守台を築く工事の手伝いを終えて国元に戻りました。
それから間もない同年10月12日、急死します。
享年66。
『石川県の歴史』によれば、実際の利常は、学問はときに邪魔になる、人の取り得を見抜く知恵があればよいと語る現実家で、茶の湯は小堀遠州の流れを好んだといいます。
そんな人物が本当に鼻毛で愚かな人物を装ったのか?
事の真偽はともかく、利常が幕府に睨まれながら加賀百万石を守り抜いたことは間違いありません。
だからこそ世間では「わざと愚か者を装っていたに違いない!」という物語で盛り上がったのではないでしょうか。
前田利常の生涯については、以下の関連記事をご覧ください。
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前田利常の生涯|最後の戦国武将が見せた加賀百万石の運営手腕とは?
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参考文献
- 高澤裕一ほか『石川県の歴史』(山川出版社)
- 山本博文監修『江戸300藩 物語藩史 北陸・甲信越篇』(歴史新書)
- 川口素生『江戸大名家事典』(2013年3月 新紀元社)
- 朝倉治彦ほか編『世界人物逸話大事典』
- 真田増誉『明良洪範』(1912年 国書刊行会)

