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カーネーション

朝ドラ『カーネーション』のモデル小篠綾子~最期までパワフル人生92年をスッキリ解説!

更新日:

ドコモのCMで、ブルゾンちえみさんと競演している女性がおります。
母娘設定で、インパクトある見た目がそっくり!

 

とまぁ、私がご説明申し上げるまでもなく、皆さんご存知でしょう。
デザイナーのコシノジュンコさんです(公式サイト)。

強烈な存在感は一度見たら忘れられませんし、しかも、彼女だけでなく姉のコシノヒロコさん(公式サイト)も、妹のコシノミチコさん(公式サイト)もデザイナーとしてご活躍されているのですから、同時に興味が湧いてくるのがこの一点。

ご両親って、どんな御方なのでしょう???

注目は母親でして、小篠綾子コシノアヤコ)さんと言います。
2011年の朝ドラ、カーネーションのモデルにもなった女性で、驚異的なデザイナー一家の長でした。

ドラマも、朝ドラ史上に残る大傑作と評されており、彼女自身の生き様、情熱には、三姉妹の存在感以上に圧倒されるばかり。
小篠綾子とは一体どんな人生を送った方だったのか?

スッキリまとめてみました!

※文中敬称略とさせていただきますので、ご了承ください

 

番頭とお嬢様の恋

明治末期。
大阪の堺に、ハナというお嬢様がおりました。

実家は、他人の土地を踏まずに隣町へ行けるほどの敷地を持つ資産家。
維新三傑の一人、あの木戸孝允の家に行儀作法を習いに行っていたというほどですから、まさしく深窓のご令嬢であります。

そんなハナは、男前の呉服屋番頭・古篠甚一に惚れ込んでしまいました。

女性が好む着物や帯を売り歩く男性ですから、物腰も柔らかく、気の利いた様子。
ハナがぼうっとなってしまうのも、無理のないことでした。

しかし、そんなことをハナの親が許すわけもなく……。
「なんやて! 番頭風情に惚れた? お前なんてもう、うちの娘やない!」
そう言われて、ハナは家を追い出されてしまいます。

このときハナのお腹には、小さな命が宿っていました。
夭折したものの、次に生まれた女の子は、元気いっぱいに育ちました。

こうして1913年(大正2年)に産まれたのが古篠綾子でした。
糸と麦をあわせた「綾子」という名前は、裁縫で食べて行けるように願いをこめたものでして。

このあと夫妻には男の子が三人生まれたものの、すべて夭折してしまいます。

「きょうだいの星が強すぎたんやろか?」
周囲はそう囁きました。
綾子はそう言われるほど、気の強い少女だったのです。

 

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岸和田のだんじり娘、ミシンと出会う

岸和田で生まれ育った綾子は、だんじりが大好きな少女に育ってゆきます。

スピーディで豪快。
彼女の気性にぴったりで、成長してからも毎年だんじりを楽しみにしていました。

そんな調子ですから、おてんば娘なのは言うまでもありません。
遊び相手は男の子ばかり。負けん気の強い性格でした。

駆け落ちして家を追い出されたとはいえ、母ハナの両親、つまり綾子の祖父母も、彼女が生まれると怒りを解いたようです。
綾子は、神戸にある祖父母邸で、洋服を見る機会に恵まれました。

当時の岸和田で、洋服姿の人などごく限られたものです。
女性となれば、ほぼ存在しませんでした。

15才になった綾子は、ある日、女学校からの帰り道にパッチ屋の前で立ち止まります。
パッチとは、股引のことです。
要するに服を修繕したりする、そういうお店ですね。

ここで綾子は、ミシンを見たのです。

力強い勢いで、ダダダダッと縫うミシン。
綾子はその動きのとりことなり、毎日パッチ屋の窓からミシンを見ていました。

 

その姿を見たパッチ屋の主人は、綾子を店の中に入れてミシンを見せてあげることにしました。

 

パッチ屋で2年間 雑用修行をこなしたが

かくして毎日のようにパッチ屋へ通うようになるのですが、これに怒ったのが例の祖父母です。
15の娘が得体の知れない店に入り浸って何ごとか、というわけですね。

一方、綾子は父・甚一に顛末を話しました。
と、甚一も叱りつけます。
「何しとんねん、あかん!」

しかし、綾子は粘り強く、ミシンの魅力を語ります。
娘の気の強さを知っている甚一は折れるしかありません。

「しゃあない。せやけど、中途半端なのはあかん。女学校やめて、ちゃんと働きに出なさい」

こうして綾子はパッチ屋で働く機会を得て、まずは2年間、男ばかりの中でお茶くみ等の雑用をこなします。
そしてあるとき、こっそりと職場のミシンでアッパッパを縫うのでした。

アッパッパというのはゆったりした婦人服で、大正末期から昭和にかけて大流行。
チュニックドレスの丈を長くしたようなもので、かつては夏場のおかあちゃんの定番でした。

しかし、これをパッチ屋の主人にとがめられ、綾子はクビにされてしまいます。

大正時代のモダンガールたち/wikipediaより引用

 

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ミシンが家にやって来た!!

クビになってしまい、自宅でしょんぼりするばかりの綾子。
そんな様子を見た甚一は、娘の作ったアッパッパを着て近所を歩き出します。

「どうですやろ? うちの娘が縫ったんやで」
唖然としていた綾子ですが、ハッと気がつきます。

『うちが縫いたかったのは、パッチやのうてドレスや……うち、婦人服の勉強する!』

にわかに自分の進む道を見つけた綾子。
数日後、外出先から戻るろ、目の前に驚きの光景が広がっておりました。
なんと、ミシンがあるではないですか!

「これ、誰のや?」
「わからへん。せやけど、誰のかわからんのなら、誰が使ってもええんちゃう?」

関西人らしく、愛らしいおとぼけをする甚一。
当時は高嶺の花であったシンガー社製ミシンを月賦(ローン)で購入したのでした。

シンガー社ミシン(1922年モデル)/photo by Panjigally wikipediaより引用

愛娘の尋常ならざるミシン愛に対し、自身も呉服屋である甚一は、相応の覚悟を持ち得たのでしょう。
昭和初期、大卒初任給が65円の時代に、ミシンは165円以上するものでした。

かなりの高級品です。
それなのに自ら買ったとは照れて言い出せなかった甚一は、綾子にこう持ちかけました。

「和歌山の先生がミシンの使い方教えてくれるらしいで」

しかし、これは特定の製品購入者用の講習会でして、綾子には受けることができません。
再び、落ち込んでしまう綾子。

そんなある日、彼女が帰宅すると、甚一が女性に謡(うたい)の稽古をつけているのを見ました。

実はこの女性、和歌山のミシンの先生でした。
得意の謡の稽古をつけるのと引き換えに、娘にミシンを教えるよう頼んでいたのです。

かくして綾子はミシンの使い方を覚え、父の呉服屋の隅っこでオーダーメイドの注文を受け付けるようになりました。

 

苦し紛れにトライした立体裁断、実は……

あまりに嬉しかったのでしょう。

浮かれてしまった綾子は、
「ええよ、お代はええから」
と、当初はタダで洋服を作っておりました。

怒ったのが甚一。
遊びじゃない、ちゃんと商売としてやれ。
かくして綾子は、紳士服店に修行に出されます。

しかし、パッチ屋同様、女は雑用係にされてしまうばかり。
綾子は来客の身体的特徴に似合う服を想像しながら、退屈をまぎらわせるほかありません。

それから半年後。
岸和田の店に女性がやって来てドレスを注文するではありませんか。

周囲の人は、誰も作ることはできません。

綾子は大急ぎ本で調べ、布地も見繕い、型紙も作りました……が、裁断の仕方がわかりません。

そこで思いついたのが苦肉の策。
客の体に布を巻き付け、裁断したのです。

この手法、実は立体裁断と呼ばれるもので、オートクチュールの本場パリから日本に伝わるまで、実に四半世紀も前のことでした。
後に娘からこのことを聞いた綾子は、得意げに自慢していたとか。

綾子が作ったイブニングドレスは、大層な評判を呼びました。
ひっきりなしに女性客が訪れ、ドレスを注文するようになったのです。

あまりに評判が良かったのでしょう。
ダンスホールのダンサー全員が注文しに来たほどで。

しかし、このタイミングで甚一は綾子を別の店に転職させます。
セーラー服店でした。

ここで綾子は裁断の技術や、セーラー服の縫製技術を磨き、めきめきと腕前を伸ばしたのです。

「コシノ洋装店」

しかしこの店も甚一によって辞めさせられ、綾子は実家に戻されます。
甚一は、自分の母親と綾子だけを店に残し、残りの家族と引っ越してしまいます。

ここで綾子はハッとしました。

おそらくや、甚一は娘のありあまる才能を見抜いていたのでしょう。

そもそもパッチ屋の主人と甚一は知り合いでした。
ミシンに興味を抱かせ、技術を教え、修行を積ませ、赤字だった呉服屋を洋装店にリニューアルすることで、生き残りをはかったわけです。

娘を理解していた父は、実は策士でもあったのです。

とはいえ、これは綾子にとっては望むところ。
昭和9年(1934年)暮れ、「コシノ洋装店」の看板が掲げられました。

綾子は営業の才能もありました。
あるとき紡績工場専属の看護婦が着物姿で働くのを見た綾子は、生地見本を持って工場に押しかけます。

一週間粘りに粘り、ついに注文を取ります。

「見ててや! いまに町じゅうの服を全部うちの服にしちゃる!」
そう意気込む綾子でした。

 

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結婚、三姉妹誕生

洋装店が一周年を迎えようというとき、甚一がふらりと店にやって来ました。

用件は縁談です。
綾子は22才で、当時としては結婚適齢期後半に入りつつありました。

「お前を気に入った人なんや。一緒になれるなら、婿入りしええと言うとる。こないにええ話、そうそうないで」

婿にまで入る、しかもお見合いが当然の時代に、綾子に惚れているというのだから、これはなかなかの話です。
相手は、紳士服テーラーの川崎武一でした。

仕事が面白くて仕方ない綾子は渋ったものの、結局、押し切られ綾子は武一と結婚。
夫妻の間には三人の娘が産まれることになります。

・長女の弘子 昭和12年(1937年)
・二女の順子 昭和14年(1939年)
・三女の美智子 昭和18年(1943年)

仕事の鬼・綾子。
さしもの彼女も、泣きわめく我が子の前ではセーブをするかな、と思ったらそんなことはなく……。
泣きわめく娘をあやすのは、父である武一でした。

綾子は我が子を人に預け、ひたすら布を裁断し、ミシンを踏み続けたのです。
三姉妹の記憶にある母は、やさしく抱きしめて微笑む姿ではなく、自分たちに背を向け、洋服をつくるひたむきな姿でした。

母というより洋裁の先生、それが綾子。
娘たちは母の気を引きたくていたずらをしますが、そんな時も綾子は振り返るだけで、またすぐ仕事に戻ってしまうのです。

 

夫と父との永訣

当時、日本では急速に洋服が普及していました。
20代以下の9割が洋服を着るようになっていたのです。

綾子の事業が順調なのも、そうした時代の流れがありました。
街角にはモダンなドレス姿の女性も闊歩しました。
その日本から、僅か数年で鮮やかな服装が消えてしまいます。

戦争です。

1942年(昭和17年)、武一にも召集令状が届きました。
このとき弘子は幼稚園、順子は3才、三女が綾子のお腹の中。

「ほな、いってくるわ」
「うん……」
綾子は泣くわけでもなく、そう言うのが精一杯でした。

このあと一度だけ一時帰郷しますが、それが最期の別れとなります。
武一は1945年(昭和20年)、中支方面で戦病死を遂げてしまうのです。

出征前、武一は心斎橋で綾子にショールを買っていたそうです。
仕事一筋の綾子にとっては、数少ない夫との思い出でした。

『何か予感でもあったんやろか……』
綾子はそう思ったようで。

そんな彼女の元へ、父・甚一が武一の上着を持って来ました。
ポケットの中から出てきたのは、見知らぬ女性と映った写真。
「ああ、これな、武一さんのええ人や。女房が仕事ばかりしとったら、男はそういうことするもんやで」

浮気相手だと知らされ、綾子は憮然としました。
本人がいたら問い詰めてやるところですが、怒りをぶつけようにも相手はいないのです。
しかも、【仕事熱心なお前が悪い】とまで言われてしまう始末。

あるとき綾子は順子を海に連れて行き、こう語りかけたそうです、
「お母ちゃんと一緒に死のうか……」
夫を失い、三人娘を抱えて必死で働いているのに、芸者との浮気が発覚。しかも父には「お前のせいだ」と言われる。
気丈な彼女とて、さすがに耐えがたかったのでしょう。

綾子は海に叫びました。
「アホー!!」
それから娘を連れて、家に戻ったのです。

「いなくなって清々したわ」
娘には夫のことをそう語ったこともあるという綾子。その本心は、複雑であったことでしょう。

夫の出征から一ヶ月後、綾子は三女・美智子を自宅出産しました。

このころ、父・武一も死去。
火傷の治療のために逗留していた富山での出来事でした。

戦火の中、小篠家は女性ばかりになってしまいました。

 

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ヤミやのうて工夫や

戦時中、奢侈は禁止され、贅沢な衣服は取り締まり対象となりました。
そんな中でも綾子は、工夫をこらします。

刺繍入り生地でワンピースを作り、模様の部分をコサージュで隠したワンピースを売り出したのです。
これが大評判で、飛ぶように売れます。

30円以上の品物が課税されたら、29円99銭にして販売。
赤字になることもありましたが、不足分を物品で補う客もいました。食料難の中でも、小篠家には物が集まって来たのです。

「あのうちはヤミで商売しとるで」
そう陰口をたたかれましたが、綾子はこう言いました。

「うちがしとるのは工夫や。ヤミなんかしとらへん」
綾子は才覚に長けた女性でした。
布地を買い集め、東北出身の縫子(ぬいこ・衣服の縫製に携わる人)さんを通じて米を貰い、生活をしのいだのです。
娘三人を抱えた彼女は、どんな手を使ってでも、生き延びねばなりませんでした。

小篠家からは、金属製のミシンが供出されることすらありませんでした。
綾子の様々な工夫のおかげでしょう。

太平洋戦争中のもんぺ/wikipediaより引用

 

母の背中と、恋と

昭和20年(1945年)、戦争が終わり新たな時代が到来しました。

三姉妹は成長しましたが、綾子は育児よりも仕事命でした。
授業参観にもろくに出ることなく、娘が気を引こうとするとこれみよがしに布地を裁断する、そんな母親であったのです。

綾子は娘たちにお稽古をさせました。花嫁修業でも何でもありません。
要するに、娘をなるべく家に置きたくなかったのです。
娘を追い出して、ともかく仕事をしたかったのでした。

そんな綾子も、仕事以外の趣味が出来ました。
社交ダンスです。
夜にならいに行くと、寝ている娘を起こしてダンスの振付を見せ始めたのです。

それだけではなく、綾子はなんと恋に落ちていたのでした。

思えば仕事一筋、周囲から言われるままに結婚し、その結婚もわずか数年で夫とは死別。
30を過ぎたばかりの綾子が恋の炎を燃やしたとて、誰が責められましょうか。

しかし……世間的には問題がありました。
相手は妻子ある身だったのです。

別宅を借り、堂々と交際する綾子とその男性に周囲は呆れました。

「私は間違ってへん!」
そう宣言する綾子ですが、周囲は許しません。
あるとき、よってたかって、彼女を糾弾したのです。

「あんたなあ、ええ加減にせえや。子供に気の毒やと思わへんの!」

しかし、ここでその娘たちは泣きながらこう言いました。
「私らええねん! これでかまへん」

子供に泣かれては大人も困るわけで、大人は退散しました。

娘としてはそりゃ複雑なのです。
たまに交際相手といる母を見ると、それまで見たことがないほど幸福そうな、花が咲いたような笑顔でいるのです。
おかあちゃんは、幸せなんやな……そう思ったわけですね。

 

コシノ姉妹の躍進

三人娘が全員デザイナーになった――。
さぞや英才教育を施したのだろうと思われがちですが、実はそうではありません。

そのことは、今までの記述からもおわかりでしょう。

しかし三姉妹の長女・弘子が高校を卒業した時、綾子は突如、進路に口を出しました。
美大志願に強く反対したのです。

頑固な母に逆らえず、弘子は受験を失敗します。
くすぶっている弘子に、綾子はこう勧めます。

「ドレメ(ドレスメーカー学院)行ったらええんちゃう?」

ハメられた!弘子は悟りましたが、とりあえず通うほかありません。
しかし他の生徒は花嫁修業の一環として通っているようなもので、弘子は物足りない。

一年後、文化服装学院への進学を希望すると、今度はあっさり、綾子は許します。

「おかあちゃんみたいには、絶対ならへんからな!」
そうツッパッていたはずの弘子ですが、あれよあれよと、デザイナーの道へ。
しかも才能がとびきりありました。

そんな姉の姿を見て対抗心を燃やしたのが、妹の順子です。
コシノ姉妹の上二人は、実は幼い頃からライバルで、何かあるごとに喧嘩していたのです。

そんな妹が、デザイナーの道を歩む姉への対抗心を燃やさないわけがありません。

順子は、文化服装学院への進学という、姉と同じ道を歩みます。
2年の基礎コースを1年で終えるという猛烈な学びぶりで、新人デザイナーの登龍門「装苑賞」を最年少の19歳で受賞するのです。

弘子は、2位どまりでした。
綾子に呼ばれて岸和田に戻っていた弘子は、複雑な気持ちで妹の報告を聞きました。

ここで順子は、意外なことを言い出します。
「あのな、銀座小松ストアーの仕事受けたんやけどな。お姉ちゃんと一緒やないとあかんて言ったんや」

こうして火花を散らしていた姉妹は、東京で共に仕事をするようになったのです。

その4年後、弘子は綾子からまた大阪に呼び戻されました。
大阪の一等地である心斎橋に「洋裁店を開いたらどうや」と持ちかけてきたのです。

綾子の奔走の甲斐もあって、昭和39年(1964年)、東京オリンピックの年に『クチュールコシノヒロコ』が開店。
その2年後には、順子が銀座に『COLETTE』を開き、ファッションがめまぐるしく替わる1960年代、その嵐の中心でコシノ姉妹が燦然と輝き始めるのでした。

 

末っ子もロンドンへ

三姉妹でも歳の離れた美智子は、おっとりとしていてマイペースでした。

子供の頃からテニスに打ち込み、着る物にはまるで無頓着。
しかし運動神経はバツグンで、学生時代には全国大会で優勝します。

この美智子がまた底知れぬ女性で。
高校卒業後に実家を手伝い始め、その後、結婚→離婚で再び家に戻ると、突如こう言いだし周囲を驚かせるのです。

「うち、ロンドンに行く!」

彼女は、姉二人のようにみっちりとデザインの基礎を学んだわけでもありません。
にもかかわらず1973年(昭和48年)にロンドンへ。
無邪気な末っ子ならではのパワーというやつでしょうか。

綾子から渡された金を使い果たしす等、様々な荒波を乗り越えながら、美智子もまた持ち前のマイペースと精神力で乗り切り、デザイナーとして一人立ちするのです。

こうして三人姉妹は、全員がデザイナーとなったのでした。

 

古希を過ぎてデザイナーに

そんな三姉妹のショーを誰よりも熱心に見ていたのが、母の綾子でした。

作家の藤本義一からこう言われます。
「コシノ三姉妹じゃなく、四姉妹やね」

綾子の中で何かが燃え上がったのでしょう。
なんと1988年(昭和63年)、74歳で「アヤコ・コシノ」ブランドを創設したのです。

しかも、娘たちのものをまんまパクったデザインまであるではないですか。

「おかあちゃん、これうちのデザインと同じやん」
「あんたら生んだのはおかあちゃんやねんから、どれもおかあちゃんの作品や」

すごい理屈ではあるのですが、これには娘たちも苦笑するほかありません。

エネルギッシュな綾子はタレントの才能もあったのか、テレビ出演することもありました。
88才の歳には、宝塚の病院でファッションショーを開催したこともあるほどです。

歩けなくなってからも人力車でファッションショーに登場する等、どこまでもエネルギッシュな女性でした。

娘から「そろそろ隠退したら?」と言われたとき、綾子はこう返ししました。
「うちのこと、殺す気か!」

休むことは、考えられない人生。
2006年(平成18年)に永眠するまで、彼女はデザイナーとして生き続けました。
享年92。

「さあ、人生これからやで!」
それが綾子の口癖でした。

生前、綾子は朝ドラマを見てこう言っていました。

「わたしもこんなん出たいわぁ」

その願いは叶います。
2011年朝の連続テレビ小説『カーネーション』。
彼女のエネルギッシュな人生は、日本中に活力を届けたのでした。

U-NEXTで『カーネーション』ほか多数の朝ドラ・大河作品が視聴できるようになっています。詳細は以下のサイトを覗いてみてください。スマホでもOKですよ。




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文:小檜山青

【参考文献】
だんじり母ちゃんとあかんたれヒロコ』コシノヒロコ
人生、これからや!』コシノジュンコ

 



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