各軍10万を超える軍勢が真っ向からぶつかりあった関ヶ原。
小早川秀秋の東軍参戦と、それに伴う小川祐忠や赤座直保などの裏切り、更には毛利の空弁当などもあって、この大戦は実に一日足らずで終わってしまう。さすがにここまでの早い展開は、負けた三成はもとより、勝利を収めた家康ですら予想できなかったであろう。
おそらくそれは各地の諸大名たちも同じだっただろう。一口に関ヶ原と言っても、東西すべての軍勢が岐阜に集まった訳ではなく、例えば九州では黒田官兵衛が自らの勢力を拡大するため西軍大名に襲いかかり、信州上田城では真田昌幸・信繁親子が徳川の本隊に打撃を食らわせ勝利に酔っていた。
他にも戦いを挙げればキリがない中、意外と知られていないのが加賀100万石・前田家の動向だろう。
実母・まつを家康に差し出していた前田家は、当然ながら東軍につくべく利家の息子・利長が大軍を南下させようとした。そこに立ちはだかったのが、誰あろう、織田信長の家臣時代に同僚であった丹羽長秀、その息子・丹羽長重だったーー。
大軍・前田に対するは、米五郎左の息子なり
◆天国に旅立ち、信長さんと再会を果たした秀吉&利家さんもいらっしゃるではあーりませんか。彼らが競馬の対象としているのは……。
お米のように欠かせないということから「米五郎左」と称された丹羽長秀さん、その息子の丹羽長重。
槍の又左こと、加賀百万石の前田利家、その息子の前田利長。
両軍が用意できた兵は、前田の25,000に対し、丹羽が3,000ほどで、まったくもってオッズにならない取り組みでした。関が原の本戦まで2ヶ月とない、1600年7月末のことでした。
攻撃先を変更! されど、大軍の移動は簡単ではなく……
◆ここが前田と丹羽の分岐点でした。
大軍ゆえに「負けるわけがない」「無駄な討ち死には避けたい」そんな驕りが生じたのでしょう。
当初、小松城に襲いかかった前田軍でしたが、相手は隠れ有能武将の丹羽長重さんでした(西軍について後に大名復活・立花宗茂さんと稀有な例)。
全力で対応すべきだったんです。まぁ、甚大な被害になっていたでしょうが……。
寡兵の一発勝負! 浅井畷で待ち伏せや!
◆首尾よく大聖寺城(だいしょうじじょう)を陥落させた前田軍にとって問題は帰路でした。
金沢城へ戻るには、丹羽長重さんの小松城付近を通らねばなりません。
下手をすりゃ背後から襲いかかられ危険。てなわけで、殿(しんがり)に長連龍(ちょうつらたつ)と山崎長徳(やまざきながのり)を配置し、万全の警戒で挑んだハズだったのですが……
大谷吉継の策略でした!?
◆浅井畷の戦いで前田軍は、大軍が広く部隊を展開できない水田へと追い込まれ、次々に討ち取られました。
「畷(なわて)」とは細い道のことであり、丹羽家の勇将・江口正吉(えぐち まさよし)が待ち構えていたんすね。
正吉は、織田信長や豊臣秀吉、さらには伊達政宗にも警戒された――という逸話もあるほどで、まさにこの瞬間しかない!という場面で乾坤一擲の戦術を見せたんすね。兵の損害は不明なれど、丹羽の勝利で終わりました。
なお、このとき前田軍は、大谷吉継の流言に惑わされ、結局、関ヶ原へ間に合いませんでした。
漫画・アニィたかはし
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