天文24年(1555年)、200日もの長きに渡って睨み合いを続けた【第二次川中島の戦い】。
両軍共に疲弊が激しく和睦――かと思ったら、年明け弘治2年(1556年)から信玄は早くも動き始め、そして迎えた弘治3年(1557年)。
信玄は再び謙信と対峙し【第三次川中島の戦い】へ向かいます。
別名「上野原の戦い」と呼ばれる激突、マンガ『戦国ブギウギ武田三代記』vol.28の始まりです!
◆前27話をご覧になりたい方は以下のリンクからご覧ください
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まんが戦国ブギウギ武田三代記第27話 大熊朝秀の挙兵で越後を崩せ!
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八幡様

◆長尾景虎こと上杉謙信が勧請文を収めようとしているのは長野県千曲市にある武水別神社。
そのすぐ側には「川中島の戦い初戦の地」の碑も建っています。
以下の地図にてご確認を。
ちなみに、武水別神社から北東へ約5kmの位置に海津城こと松代城が建てられています。
JR川中島駅は、松代城から南東へ約4kmの位置。
夏休みに川中島を満喫したい方はこの辺りから攻めていくのが良さそうですね!
決意

◆川中島の舞台となった長野市エリアが完全に武田のものとなってしまうと、越後への道が一気に開けて、謙信としてもその手前で叩いておくしかない。
実際には筋などと言ってられない切羽詰まった状況がありました。
信玄はすぐに活動を再開させたのです。
進撃の武田

◆弘治3年(1557年)2月、信玄は、かつて高梨政頼の家臣だった原左京亮に対して降伏を勧告。
それに応じた左京亮は2月15日、葛山城を急襲して陥落させます。
葛山城は、すぐ東に善光寺があり、同エリアでの最重要拠点。
川中島においては中心的な存在ですから、信玄も左京亮の要請に応じてすぐに出陣します。
第三次川中島の戦いの始まりです。
晴信出撃

◆謙信がやってくる――原左京亮からの注進を受けて、弘治3年(1557年)3月14日に信玄は出陣します。
しかし上杉軍は、深い雪に阻まれ、実際に信越の国境を超えたのは同年4月18日のこと。
武田方の要塞や城を攻略しながら、善光寺に布陣しました。
ついに三度目の対決!
あまかざり城

◆たしかに前回の和睦後、信玄はすぐに北信濃エリアの国衆調略を仕掛けています。
善光寺や葛山城など、重要エリア近辺での動きですので謙信が動くのも無理はありません。
景虎出陣

◆柿崎景家や斎藤朝信といえば、上杉家でその名を轟かせる武将。
ちなみに武田方にも、この後、北条家の勇将として知られる北条綱成(つなしげ)が援軍としてやってきます。
戦略的撤退

◆謙信の南進により、いよいよ戦が本格化。
上杉に狙われていた市河氏を助け出し、敵方に所属していた地元国衆たちの調略を進めてゆく。
と、真田幸綱のもとへ東条氏や綿内井上氏などがくだってきます。
信玄は慎重にダミーの陣も作るなどして、上杉軍との対決に備えていると、8月下旬、ついに両軍が激突しました。
戦闘場所は上野原です。
分からん奴

◆武田vs上杉による上野原の戦いは決着はつかず、9月に入ると謙信も帰国します。
第三次川中島の戦いの終了です。
義信のフラグが徐々に本格化してきましたね。駿河派閥にとって謙信とのガチバトルは願ったりということかもしれません。
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漫画:アニィ高橋
文:五十嵐利休
【参考】
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典 (3) 静岡県・愛知県・長野県・新潟県・富山県・石川県』(→amazon)
柴辻俊六/平山優/黒田基樹/丸島和洋/柴裕之/鈴木将典『武田氏家臣団人名辞典』(→amazon)
武田氏研究会『武田氏年表 (信虎・信玄・勝頼)』(→amazon)
平山優/株式会社サンニチ印刷『信虎・信玄・勝頼 武田三代』(→amazon)
ほか








