ゴールデンカムイ 明治・大正・昭和

『ゴールデンカムイ』で注目 南樺太の歴史とは?戦前の日本経済に貢献した過去を知る

日露戦争直後の北海道を舞台にした大人気作品『ゴールデンカムイ』。

 

14巻終盤から本作の舞台は「樺太」へと移動し、15巻からはこの土地を旅する杉元ら先遣隊の足跡を追うことになります。

日露戦争後に日本領となったこの地は、北海道と似ているようで、異なる場所でした。

・北海道より降雪が早い

ヒグマだけではなくクズリという猛獣が存在する

・住民は、日本人だけではなく、樺太アイヌ、ロシア人らが含まれる

・特産品はフレップワイン

猛者である杉元すら「樺太やばいな」と連呼する“未知の場所”でした。

現在はロシア領となった樺太ですが、明治時代初期までは日本の領土。日露戦争後は南のみ日本領に復帰するものの、太平洋戦争の最中に奪われていきました。

では日本領であったころ、樺太の人々はどんな暮らしをしていたのか。

本稿では南樺太の歴史を振り返りたいと思います。

※よろしければ、以下、樺太の歴史と合わせてご覧ください。

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日露戦争で取り戻した南樺太

そもそも江戸幕府が樺太を意識し始めたのは、いつ頃なのか?

ロシアが進出してきた江戸時代の後期頃からでした(以下、関連記事)。

江戸・明治時代の日露関係はアイヌを見落としがち~ゴールデンカムイで振り返る

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当時の幕府は、ロシアとの交渉をとにかく先延ばしにする外交方針。

煮え切らないその対応に苛立ったロシアは、クシュンコタン(のちの豊原・現在のユジノサハリンスク)を襲撃します。

ロシアにとって樺太は“不凍港”を持つ魅力ある島でした。

こうした動きを警戒し、警備に当たったのが会津藩や仙台藩など奥羽の有力諸藩です。

間宮林蔵に探険を行わせたのも、このあとのことでした。

黒船来港以来の幕末期にも、北蝦夷と呼ばれた樺太最南端の警備を奥羽諸藩が担当していましたが、戊辰戦争により、奥羽諸藩はそれどころではなくなってしまいます。

そして明治新政府の発足。
蝦夷地は北海道となり、開拓が始まりました。

樺太も開拓すべきという意見があったのですがが、明治3年(1870年)、イギリスが強引に干渉してくるのです。

「樺太なんて、古船一艘の価値もない土地です。ロシアにくれてやればいい」

西郷隆盛や、幕臣出身でアイヌとも交流のあった官吏がこれに反発。

しかし新政府は押し切られてしまいました。

こうしてロシア領にされた樺太。日露戦争で日本軍が樺太に攻め込み、快勝をおさめます。

ロシアは樺太を占領していたものの「囚人の島」と呼ばれたほどの扱い。

革命前夜であり、政情は不安定でした。

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樺太を死守する気はさらさらないロシアと、奪還に意欲を燃やす日本。モチベーションの時点で、かなりの差があったのです。

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しかし日露戦争は、日本の勝利とはいえ、実態は薄氷を踏むようなものであり、賠償金も領土も、日清戦争より少なく、国内には不満が渦巻きました。

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そんな中、なんとか得られた南樺太です。

実に貴重な獲得領土でした。

銭湯の客「兄ちゃんたちが戦ってくれたから 日本は南樺太を取り返せた おかげでこの港町はこれからもっともっと栄えるだろう 本当にご苦労様でした」
杉元「……儲かるのは商人だけだろ」
(『ゴールデンカムイ』1巻3話)

マンガ『ゴールデンカムイ』の中で、杉元は銭湯で客とこんな会話を交わしますが、それは、こうした状況を踏まえたものです。

このときまさか、自分が樺太に行くとは思いもしなかったでしょう。

杉元一行がたどり着いた南樺太。そこは、古船一艘どころではありません。

商人以外もたんまり利益を得ることのできる、豊かな島でした。

杉元が訪れた頃は、樺太民政署が樺太庁に変わった頃と同時期と推察されます。

日本による統治が、進んでいった時期でした。

 


魚介類が豊富! ニシンが取れる

『ゴールデンカムイ』4巻収録。

37話から登場する辺見和雄は「ヤン衆」の一人です。

「ヤン衆」とは、北海道で盛んだったニシン猟に従事する、季節労働者のことです。

東北地方出身者が多く、辺見のようなおたずね者でも紛れ込みやすい労働現場でした。

ニシン漁で財を成し、立てられた「鰊御殿」内部・ヤン衆が寝泊まりした場所/photo by タクナワン  wikipediaより引用

当時の北海道でニシンは、猫でもまたぐ「猫またぎ」と呼ばれたほど。魚が好きな猫すら食べないほど、ニシンが大量に捕獲されたという意味がこめられています。

あまりの量の多さから、食料ではなく燃料として用いられたほどでした。

辺見のようなヤン衆が向かった先は、北海道だけではありません。

南樺太が日本領となると、まず注目を集めたのはその豊富な漁獲量であったのです。

南樺太が日本領となる前の明治20年代(1890年代)頃から、日本人漁業者が樺太へ進出。ロシア側でも、彼らに漁場を開放することが利益につながると考えるようになります。

漁獲されたニシンは、辺見の妄想でもおなじみの圧搾機「角胴」で肥料「鰊粕」にされ、日本に向けて送られます。

圧搾機「角胴」/photo by タクナワン wikipediaより引用

また昆布は、清国向けの輸出品として重視されておりました。昆布はアイヌ語由来の単語で、古来より北の味として和人に珍重されてきました。

清国が欲しい海産物としては、乾燥ナマコもあげられます。「海参(ハイシェン)」と呼ばれる乾燥ナマコは、中国料理の高級食材です。

こうした漁業は「薩哈嗹島漁業(サハリン島漁業)」、短縮して「薩島漁業」。

彼らは日本とロシア政府の狭間にありながら巧みに立ち回ります。

そんな状況ですから、南樺太が日本領となり、「薩島漁業」から「樺太漁業」に転換したことは、非常に喜ばしいことでした。

故郷でじっとしているよりも、漁業で発展する北海道や樺太で稼ぐ方がよい――。

東北地方の人々は、こうしてヤン衆となったわけです。

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