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【ドラマ大奥幕末編 感想レビュー第21回】
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西郷の描く倒幕へ
すっかりあてが外れてしまった慶喜。
こんな馬鹿な話があるのか!と焦燥しているものの、薩長が新帝を操っていると聞かされ、動揺が見えます。
思えば慶喜は、孝明天皇が徳川家茂や松平容保に寄せる信頼を糧にして政局を渡ってきました。
所詮、自身の信頼や実績ではなかった、虎の威を借る狐に過ぎなかった。ようやく事態の深刻さを理解し始めています。
そして、幕府最後の年となる慶応4年(1968年)1月――旧幕府軍と新政府軍が激突する【鳥羽・伏見の戦い】が勃発!
予算も限られている中、このドラマが実写ロケの重要性を理解しているのがわかりますね。
映像のフレームは狭くて、その狭いところにギュッと兵士を詰めることで、エキストラの人数はかなり絞っている。
それでも火薬の煙や発砲音があるし、大砲もちゃんと反動で後ろへ下がる。この反動を受ける大砲の動きは見逃せません。
ナレーションも的確で、当初の戦況は互角であるとしています。
この戦いは言われているほど火力の差はありませんでした。
それを一変させたのが【錦の御旗】です。
堂々と掲げられた旗の前で、西郷隆盛の獅子吼が響き渡る。これぞ帝の御しるし、我らこそが官軍。徳川こそが朝敵、何も恐れず戦え。
「チェースト!」
そう叫ぶところも素晴らしく、薩摩隼人の極みといえる。
「チェスト」は誤解されがちですが、ジゲン流による攻撃時の掛け声ではありません。あれは「キエー」と叫ぶ「猿叫」です。
薩摩には薩摩琵琶があります。
和式琵琶は横に倒しギターのように持つことが一般的。しかし薩摩琵琶は、中国琵琶のように縦に持つ。
薩摩隼人は薩摩琵琶の語りを精神修養として聞き、物語がクライマックスに到達すると「チェスト」と叫んだ。
自分が描いてきた物語が最高潮に達し、堪え切れずに叫んだのでしょう。
この西郷隆盛を見るだけでも、本作を楽しんできた価値があったと思える、そんな至福の瞬間です。
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とはいえ、敵に西郷隆盛がいるというのはおそろしい。
原田泰造さんの西郷は、ここ数作の西郷隆盛像をあっという間に追い抜き、まるで巨大な像のように立ち塞がりました。
これが巨人の姿なのかとぶるっと震えそうになりました。
全てを投げ出した“豚一”が目の前に!
勝海舟の前に、驚愕の光景が広がります。
勝の、心底うんざり、げんなりして呆れ果てた表情が雄弁ではありませんか。
ありとあらゆる職を罷免されていた勝は、自宅で寝正月を過ごしていました。
で、呼び出されたらコレだよ!
慶喜が大坂城を抜け出して飯を食ってんじゃねえか!
涼しげな顔をして飯を食う慶喜が、心の底から腹立たしい。
大坂城で指揮を執っていたんじゃないのか!
勝が呆れ果てています。
勝でなくても、そう呆れるしかありません。慶喜は本来、大坂で自軍を鼓舞して戦うべきでした。
それを、まだ若い会津藩家老・山川大蔵に指揮権をぶん投げ、松平容保らを半ば騙すようにして連れ去り、軍艦でここまで逃げてきたのです。しかも、愛妾のお芳まで連れて。
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勝はここで、最悪の想定を口にします。
兵を見捨てたのか?
すると慶喜は奇策だのなんだの誤魔化しながら、いけしゃあしゃあとこう言い放つのです。
「総大将が城におらぬことになれば戦は終わるではないか」
はぁ? 何言ってんだこの野郎! 兵が残ってたらそうはならねえじゃねえか! 勝に代わってぶん殴ってやらぁ!
と腸煮えくり返っていると、勝が反論してくれます。
「そ……そりゃ詭弁ていうものでございましょう! 現に今だって戦いは続いているじゃあ、ありませんか!」
慶喜の何が極悪か?って、大坂から逃げ出す前に「薩摩を倒すべし!」と命令を下している点なんですね。
それを撤回しない限り事態が収まるわけもない。
しかし、逆ギレで押し切るつもりなのか、勝に対して血統マウントを取ってきます。
「これ以上、戦えば、私は朝敵になってしまうではないか! 私には宮家の血が半分流れておるのだぞ!」
あまりにもくだらない人間過ぎて、何も言葉が出なくなりますね。
脇にいる板倉勝静が軽蔑の眼差しを向けるところがいい。目線だけで、もう何もかもが嫌だと伝わってきます。
実際、このときの江戸城には「いっそ慶喜の首を差し出そう!」と錯乱して言い出した幕臣もいたそうです。
「私が賊軍の将に成り下がったと語り継がれるなど、承服できるか!」
何言ってんだオメエという勝の表情が生々しい。慶喜は目線がうろたえているし、勝はまばたきが増えています。
「では、何故戦をお始めなすったんで」
「その時は勝てると思った」
この馬鹿将軍が……そう言いたい。当時、庄内藩の酒井玄蕃はそう書状に書き残していたとか。
鳥羽・伏見の戦いの敗北は、慶喜に責任があります。兵力があるから、それを率いて上洛すれば鎧袖一触だと余裕をこいてたんですよ。
最大の敗因は、どう考えても慶喜なのです。
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それに大坂城に籠もっていれば、まだまだ行方はわからない状況でした。
なにせ幕府には海軍が無傷で残っていて、十分に戦えたのです。
江戸幕府の成立時、諸大名の水軍は押さえつけられました。
水軍大名は内地へ移封。大型船舶の建造および所有は禁止となっています。当然ながら予め脅威を奪っておいたわけです。
そして黒船の来航時、船に乗り込んでキョロキョロと船内を見回す幕臣たちがいた。
勝手に測量まで始めたほどでしたが、まさか日本がそれからわずか数年で海軍の形を整えるとは、黒船のアメリカ人も予想できなかったことでしょう。
その奇跡を成し遂げたのは、実は江戸幕府でした。
海軍を産み育てた一人が勝海舟。
そんな勝にしてみれば、そりゃ慶喜に向かって「無傷の海軍が残ってんじゃねえか!」と叫びたい気持ちでしょう。
実際この海軍は強かった。
蝦夷地まで落ち延びた幕府海軍に、新政府軍はアメリカ艦を買い付けるまで歯が立たなかったのです。
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勝はうつむき、震え、慶喜を突き放します。
「では、私は今、お役にもございませんので」
その場から去ろうとすると、慶喜はこうきた。
「勝。そなたを海軍奉行ならびに陸軍総裁に任ずる! 以後、停戦の交渉はそなたに任せる」
驚愕しながら振り向く勝。
「これをうまくおさめれば、亡き家茂公もさぞお喜びになろう」
袴を握る勝。この手が雄弁ですね。
和装を身につけているとなれば、それならではの動きが欲しい。
歯を食いしばり、袴を握る勝からは憤りが生々しく伝わってきました。どうしようもない無念が凝縮されています。
勝が慕っている家茂のことをダシにする慶喜は、とことん下劣でした。
なぜ慶喜の命乞いをせねばならぬのか?
無責任で狡猾な慶喜の尻拭い。
そんな屈辱的な役割を押し付けられたのは勝海舟だけではありませんでした。
天璋院の愕然とした顔が映ります。
一瞬なのに、呆れ果てたと伝わってくる表情がすごい。仲野も軽蔑を全身で表しているようだ。
時代劇の醍醐味はこういうところにあるのでしょう。
貴人の周りにはおつきの者が多い。言葉ひとつ言えぬ状況の中、目線や仕草で演技をするのです。
この勝、天璋院、仲野の背後には、似たような反応の人々が大勢いた。城の中から、江戸の街まで、それはもうズラリ。
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しかし慶喜には反省の念など一切ありません。
家臣のために恭順しているのに、薩長軍が箱根の山を越えて江戸に攻め込んでくるとは何なんだ?と困ったような顔を浮かべている。
まるで自分は1ミリも悪くないんだと言わんばかりに、キビキビとした所作で天璋院に近づき、薩摩に攻撃中止を頼んでいます。
それだけでなく和宮様まで持ち出そうとする。
ドラマでは最小限の描写ですが、これは史実通りです。だからこそ慶喜は、天璋院と和宮の月命日には墓参を欠かさなかったとか。
天璋院は懐中時計を手にして迷っています。
思えば懸念は当たってしまった。自分が嫁いできた先にこの結果がある。どれほどそのことが辛かったことか。
天璋院が親子に事の次第を告げると、彼女はキッパリと断ります。
「いやや! 何で私が実家に慶喜の命乞いをせなあかんの! 上さんはあの男に殺されたようなもんなんやで!」
「私だって嫌です」
天璋院も断言しています。視聴者も納得ですし、幕臣たちも江戸っ子も「ちげぇねぇ!」と同じ気持ちでしょう。
天璋院はまだ悩んでいました。家定に毒を盛ったのは、徳川かもしれぬし、薩摩かもしれない。そのような奴らに何故振り回されねばならぬのか。
しかし、だからと言って、江戸が火の海になることを家定は喜ばないはず。薩長が攻め込めば、多くの民が命を落とす。
これは前回、親子が嘆いた言葉の対比にも思えます。
綺麗な服を着て、カステラを食べてお茶でも飲んでいたいのに、それができない。
あの能天気にも無責任にも思える台詞は、実際には責任を背負っているからこそ成立する嘆きでした。
そう言われ、親子にも家茂の言葉が脳裏に蘇ります。
戦は多くの民にとって傍迷惑でしかない――。
そして天璋院は薩摩、西郷へ働きかけ、親子は、有栖川宮親王や公家に手紙を書きました。
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このあたりを少し補足しますと、ややこしいことに朝廷側にも幕府側につく人がいました。
幕府側についた朝廷の人というのは、孝明天皇に近かったことも押さえておきたいところです。
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