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桂久武/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

桂久武(赤山靭負の弟)が西郷の親友となった哀しい経緯 井戸田潤さんが西郷どんで演じる

更新日:

大河ドラマ『西郷どん』で、突如の「切腹」により命を断った赤山靭負
薩摩ことばを流暢に操る沢村一樹さんの退場は誠に惜しいものがありましたが、このとき首を落とす介錯人のお願いに来たのが桂久武(かつら ひさたけ)でした。

演じるのはお笑いコンビ・スピードワゴンの井戸田潤さん。

『久武を演じるなんて、井戸田さんはいい役貰ったなぁ』
と余計なお世話ながらに思ったのは、この桂久武という人物が名門の出でありながら西郷と共に命を落とす、劇的な人生を送っているからです。

一般的な幕末史にはほとんど名を見せませんよね。
しかし、彼もまた熱き薩摩藩士として、1877年にその生涯を終えたのでした。

 

日置島津家の兄弟

桂久武は、赤山靭負の弟です。

すなわち彼らは戦国時代の島津四兄弟・島津歳久を祖先とする名門・日置島津家の出身でして。
当主である・久風の五男として、久武は天保元年(1830年)に誕生しました。

長男:島津久徴(ひさなる・筆頭家老)
二男:赤山靭負(ゆきえ・お由羅騒動で切腹)
四男:田尻務(つかさ・霧島神宮初代宮司)
五男:桂久武(家老、西郷の盟友、西南戦争・城山の戦いで戦死)

同家では三男が夭折しており、四兄弟が成人。
日置島津家の兄弟は、長男の久徴をのぞいて、それぞれが養子に出されました。久武は桂久徴の養子です。

日置島津家の兄弟は、全員が斉彬派に属したため、お由羅騒動では処罰対象となりました。
前述の通り赤山靭負は切腹に処せられてます。

同じ斉彬派の西郷や大久保とは大きな身分差もあり、ドラマほどに幼き頃から密接な関係は抱けなかったと推察しますが、時代が進むに連れて親しい間柄になっていくのでした。

 

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西郷の親友となった桂久武

名門の御曹司である久武は、元々、造士館演武係方を務めていました。
弓術はかなりの腕前を誇っていたのです。

しかし、そんな順調な人生も島津斉彬の死(1858年)によって暗転します。

斉彬派だった久武は左遷同様に文久元年(1861年)、奄美大島へ。
大島守衛方・銅鉱山方という、島流しよりややマシな程度の役目に就任します。

これを機に、西郷との距離が一気に縮まるわけですが、そこに至るまでの西郷の道筋も簡単に説明しておきますと……。

西郷は、1858年から始まった「安政の大獄」で、幕府から追われる身となった勤王の僧・月照を連れて、薩摩まで逃げ帰りました。
林真理子氏の原作では、西郷とBL的な関係になる僧です(ドラマでは不明です)。

この月照、薩摩にとっては非常に厄介な存在でありまして。

匿っていたのがバレたら、安政の大獄を断行する幕府(井伊直弼)にどんな難癖をつけられるかわからない。
かと言って、表立って殺してしまうのも、薩摩の非情な決断が世に知られて、具合が悪い。

そこで藩が命じたのは「暗黙の了解」による殺害命令でした。
他ならぬ西郷が月照を殺さねばなくるのです。

西郷は悲観し、彼を殺すぐらいなら、と月照と共に錦江湾へ入水。
結果、自分だけが助かってしまいます。
そして、薩摩藩では「(西郷は)死亡した」と処理して、奄美大島への流刑とするのでした。

期せずして、奄美大島で再会した西郷と久武。
同じ斉彬派であった二人が、自然に恵まれた奄美の青い海を見つめながら、将来や政治を語り合ったであろう時間は、かけがえのないものであったことでしょう。

ここで二人は親友とも呼べる間柄となるのでした。

 

「薩長盟約」に同席

元治元年(1864年)、久武は大目付、のちに家老(1865年)として藩政に復帰。
名門の出でもあり、大島で交渉力を磨いた久武は、激動の政局において力を発揮します。

何と言っても存在感を示したのが1866年でしょう。
この年、薩摩は、激しく対立していた長州藩と手を結ぶ「薩長盟約」(薩長同盟)に舵を切ります。
この大事な久武も同席したと伝えられます。

薩摩藩においても、倒幕賛成派と反対派の意見は対立していました。
それでも最終的には倒幕で一致し突き進んだのは、同じく薩摩藩の家老であった小松帯刀と同様、桂久武らの働きもあったと伝わります。

明治維新のあとも、鹿児島藩参政・執政を皮切りとして、久武は政治に参加しました。

・明治3年(1870年)権大参事
・明治4年(1871年)都城県参事
・明治6年(1873年)豊岡県権令

着実に出世しながら、豊岡県権令の後に病と称して官職を辞し、故郷に戻りました。
その後は出仕を断り続け、霧島山麓で鉱山開発を行います。

彼に何があったのか。どんな経緯で中央から身を退いたのか。詳細は不明です。

 

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西郷と運命をともに

西郷より一足先に鹿児島へ戻り、ノンビリと暮らしていたであろう桂久武。
その周囲がにわかに騒がしくなっていくのは、これまた西郷と同様に、彼が1873年、征韓論に敗れて下野してからのことになります。

翌年以降、毎年のように不平士族の反乱が勃発。

佐賀の乱(1874年)
・神風連の乱(1876年)
・秋月の乱(1876年)
・萩の乱(1876年)

こうした情勢は、当然ながら、桂久武の耳にも入っていたことでしょう。
しかし彼は当初、参戦する予定はなかったと言います。

迎えた明治10年(1877年)、ついに西南戦争が勃発。

不参戦を決めていた久武ではありましたが、出陣する西郷を見送るうちに、その“輜重隊”の粗末さに不安を感じました。

輜重隊とは、物資、つまり兵糧や武器、弾丸などを運ぶ部隊です。
戦争では目立たない、されど絶対に欠かせない重要な役割でした。

それを見た久武は、家人に刀を取りに行かせ、戦場へ向かうことになるのです。

そしてそのまま物資の運搬などを担う大小荷駄隊本部長を務めました。

久武は、西郷に従って各地を転戦。
途中から敗戦を繰り返し、西郷最期の地となった城山までたどり着いた側近40名の中に入っています。

そして城山落城の際、岩崎谷で流れ弾が当たって亡くなりました。
享年48。
その直後、西郷も腹を切るのです。

最期まで西郷と志をともにした、親友の死でした。

なお、桂久武の長子・久嵩も西南戦争で亡くなっております。

文:小檜山青




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【参考文献】
家近良樹『西郷隆盛
北康利『西郷隆盛』
国史大辞典

 

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