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吉田稔麿/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

吉田稔麿を知れば池田屋事件が見えてくる!高杉や久坂と並ぶ松下村塾の俊英にスポットを

投稿日:

元治元年(1864年)、6月。
蒸し暑い京都の夜、男達の怒声が闇の中に響きました。

「御用改めでござる!」

待ち受けていたのは、幕末史の中でも屈指の惨劇。
「池田屋事件」です。

実践剣術を学び、圧倒的な強さを誇る新選組隊士らが、狭い室内に集まった尊王攘夷派の者たちを斬り殺してゆく、地獄絵図が展開されました。

※最初に突入したのは、近藤勇、永倉新八、沖田総司、藤堂平助の四人で土方歳三らは後から参加

池田屋事件は【新選組vs長州や土佐藩など】 坂本龍馬は直接関係ありません

新選組最大の活躍として名高いこの事件。
どうしてもおざなりにされがちなのが、犠牲者たちです。

特に、長州藩の死者の中には、松下村塾でも高杉晋作久坂玄瑞と比して負けず劣らず優秀だとされた吉田稔麿(よしだとしまろ)がおり、その後の情勢に少なからず影響を与えているのです。

本稿では、吉田稔麿を中心に、池田屋事件前後の情勢を見て参りましょう。

 

池田屋事件を中心に3つの騒動が立て続けに勃発

「池田屋事件」は、前後二つの事件と連動しています。

・八月十八日の政変(1863年)
・池田屋事件(1864年)
禁門の変(1864年)

ざっくりマトメますと……。

「八月十八日の政変」で勢力を失った長州藩および尊王攘夷派の活動家たちが巻き返しを図っていたところ、偶発的に新選組に察知されて「池田屋事件」が発生。
後の「禁門の変」がエスカレートした可能性がある――そんな流れです。

禁門の変には、二度目の流罪から戻ってきた西郷隆盛が初めて指揮を取った戦いとしても知られますね。

禁門の変(蛤御門の変)で西郷隆盛が初陣!孝明天皇の意図を探れば事件の真相が見えてくる

その前に起きていた「池田屋事件」は、明治維新を数年遅らせたとも、あるいは早めたとも、真逆のことが言われています。

一体どういうことなのか。
そもそも仮定の話で結論はできませんが、これにより「禁門の変」が戦況をエスカレートさせたことだけは間違いないでしょう。

なぜなら「池田屋事件」の犠牲者には、長州藩士が多数含まれていたからです。
その仇討ちに燃えて、歯止めが利かなくなった可能性は考えられます。

 

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池田屋事件犠牲者リスト

池田屋事件で犠牲者、あるいは傷を負ったのはいかなるメンツだったのか?
各藩ごとにマトメてみました。

 

長州藩(支藩含む)

広岡浪秀(長州藩の神職。池田屋で闘死)
吉田稔麿(長州藩。脱出後自刃)
杉山松助(事件を知り長州藩邸から駆けつけるが会津藩兵に斬られ、後に死亡)
佐伯稜威雄(長州藩の神職。捕縛され、慶応元年6月4日(1865年7月26日)に刑死)
佐藤一郎(長州藩京都藩邸吏。捕縛され、7月20日(8月21日)に刑死)
内山太郎右衛門(長州藩の無給通士。捕縛され、7月20日(8月21日)に刑死)
山田虎之助(長州藩の無給通士。いったん脱出。後に捕縛)
有吉熊次郎(長州藩。長州藩邸に脱出)
大沢逸平(長州藩。長州藩邸に脱出)
国重正文(長州藩。脱出)
酒井金三郎(長府藩。縄手後で殺される)

 

土佐藩

北添佶摩(土佐藩。池田屋で闘死。階段落ちで有名ですが創作説あり)
石川潤次郎(土佐藩。池田屋で闘死)
伊藤弘長(土佐藩。池田屋で闘死)
越智正之(土佐藩。池田屋で闘死)
望月亀弥太(土佐藩。脱出後自刃)
野老山吾吉郎(土佐藩。戦闘の後、脱出。儒学者・板倉槐堂を頼り、後に長州藩邸で自刃)
藤崎八郎(土佐藩。三条小橋で負傷後自刃、あるいは大坂土佐藩邸に送られた後死亡とも)

 

肥後藩

宮部鼎蔵(肥後藩。池田屋で自刃)
松田重助(肥後藩。池田屋で闘死)
高木元右衛門(肥後藩。脱出して長州藩邸へ逃れる)
宮部春蔵(肥後藩。鼎蔵の弟。長州藩邸へ逃れる)

 

林田藩

大高又次郎(林田藩。池田屋で闘死)
大高忠兵衛(林田藩。大高又次郎の弟。いったん脱出。後に捕縛され、7月4日(8月5日)に獄死)
北村善吉(又次郎の門人。槍傷を負うが、池田屋裏から川辺に逃れ、舟入の中へひそんで助かる)

 

その他

錦織有無之助(尾張藩。二階南側より逃走、水戸藩邸に逃げるも追い出され、捕縛され、刑死)
福岡祐次郎(伊予松山藩。池田屋で闘死)
西川耕造(京。いったん脱出。10日後に捕縛され、元治2年2月11日(1865年3月8日)に獄死)
今井三郎右衛門(豊岡藩。捕縛され、刑死)
村上俊平(上野佐位郡出身。捕縛され、刑死)
淵上郁太郎(久留米藩。脱出)

 

町人

近江屋まさ(近江屋女将。近江屋で殺害される。「ふさ」とも)
入江惣兵衛(池田屋主人。獄死)
和泉屋重助(和泉屋主人。刑死)
幸次郎(和泉屋手代。刑死)
丹波屋次郎兵衛(丹波屋主人。刑死)
丹波屋万助(次郎兵衛の子。刑死)

 

新選組

新田革左衛門(新撰組隊士、闘死)
奥沢栄助(新撰組隊士、闘死)
藤堂平助(新撰組隊士、重傷)
永倉新八(新撰組隊士、重傷)

他捕縛者多数

「池田屋事件」で生きて捕縛された者の中には、直後の「禁門の変」の最中に処刑された人がいます。
「禁門の変」では京都で大火災が発生(どんどん焼け)し、牢まで延焼したため、処刑されたのです。

皮肉なことに「禁門の変」が起きたために、とどめを刺さされてしまったのです。

 

その男は、総理大臣になれたかもしれなかった

明治時代に新政府の要職を歴任した品川弥二郎。
彼はある時こう聞かれました。

「松下村塾で一番優れていたのはどなたでしょうか?」
「そりゃ吉田稔麿が一番じゃ。生きて今頃おるなら、据え置きの総理大臣じゃろ。次は杉山松助、こりゃ大蔵大臣。久坂玄瑞は万能、高杉晋作は奇智に長け、前原一誠は勇。入江九一に寺島忠三郎、彼らもすごかった。まずこの7人が優れちょるね。その中でも、吉田は飛び抜けて素晴らしかった」

品川弥二郎/wikipediaより引用

この7人を整理してみましょう。

吉田稔麿:元治元年(1864年)「池田屋事件」にて殺害、享年24
杉山松助:元治元年(1864年)「池田屋事件」にて殺害、享年27
久坂玄瑞:元治元年(1864年)「禁門の変」にて自刃、享年25
高杉晋作:慶応3年4月14日(1867年)病死、享年27
前原一誠:明治9年(1876年)、「萩の乱」により刑死、享年42
入江九一:元治元年(1864年)「禁門の変」にて戦死、享年28
寺島忠三郎:元治元年(1864年)「禁門の変」にて自刃、享年21

なんと、7人中6人が明治維新を見ることなく、しかもそのうち5人が元治元年(1864年)に死亡しております。

中でも優秀だった二人が散った「池田屋事件」。
長州藩としては、貴重な人材を失った事件だと改めてわかります。

では、こんな濃いメンツの中でも、最も優れていたという吉田稔麿(よしだとしまろ)はどんな人物だったのか。

 

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「松下村塾」四天王

「松下村塾」で吉田稔麿は、高杉晋作、久坂玄瑞の次に優秀で「三秀」とも称された若者でした。
もう一人、入江九一を加え「四天王」ともされます。

吉田は天保12年(1841年)、長州藩の士雇(さむらいやとい・準士)である吉田清内の長男として生まれました。
幼い頃、近所に引っ越して来た伊藤利助(のちの伊藤博文)とは幼なじみで、ともに学び、遊んだ仲です。

嘉永6年(1853年)、父のあとについて江戸に勤めた吉田は、おそるべき事態に出くわします。

黒船来航です。

数え13才の若さで黒船を目の当たりにした吉田は、このままでは国が危ういと、攘夷思想に目覚め、安政3年(1856年)に帰藩すると、吉田松陰の松下村塾へ入塾。
たちまち塾生の中でも頭角を現すのでした。

師の松陰とも良好な関係を保っていた吉田でしたが、しかし、これは長続きしません。

政治情勢に失望した松陰は、老中・間部詮勝の暗殺を計画するなどの暴走を始め、吉田も距離を置き、ついに絶縁してしまうのです。
師の松陰が江戸に送られるとき、遠くからそっと見送るほかありません。

そしてそのときの姿が、師弟にとっては永別となるのでした。

 

攘夷でアピールする若者たち

師である吉田松陰の死後。
「松下村塾」出身者たちは師の遺志である攘夷を掲げ、活動に乗り出します。

吉田も、その一員として加わりました。

このあたりの経緯は、吉田の同志である久坂玄瑞の記事とあわせてご参照いただければ幸いです。

久坂玄瑞25年の生涯をスッキリ解説!吉田松陰の遺志と共に爆走した儚い軌跡

実のところ、久坂といい吉田といい、若さあふれる彼らの行動は、島津久光が先導する薩摩藩のような老獪さに欠けておりまして。
大々的に挙兵し、上洛を果たしてアピールするような、そういうパフォーマンスが長州藩にはできません。

凄惨な同士討ちとなった薩摩の内紛「寺田屋事件」も、
【ルール違反者は、たとえ同じ藩士であっても処断する】
そんな断固たる姿勢として、周囲からは評価されていたのです。

しかし、この成功を受け、アピールのために危険行動を取るグループが現れました。

京都で攘夷を叫びながら暗殺事件を繰り返す、武市瑞山率いる「土佐勤王党」。

そして長州藩の「松下村塾」出身者を中心とした一団。
彼らは、外国船への砲撃というかたちで、自己アピールに走ります。

確かに胸のうちには情熱があったのでしょう。
一人一人の若者たちは、純粋な理想に燃えていたはずです。

ただし、彼らのしたことが理にかなっていたのか? 正しかったのか? 本当に日本のためになったのか?
それについては個別に考える必要があると思われます。

 

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小倉藩からのSOS

文久3年(1863年)、小倉藩から幕府に救援要請が入りました。

「助けてください! 長州藩が、下関海峡を越えて勝手に攘夷用砲台を建設しようとしています!」

他藩の所領に出向いてまで砲台を設置するなど、明らかに度を越した行動。
一体どうした?
というと、これまた詳細は久坂玄瑞の記事にあるのですが、ともかく当時の長州藩は自らで攘夷をするだけでは飽きたらず、隣の小倉藩にまで強いようとしたのです。

そこまでエスカレートした理由は次の通りです。

薩摩藩や、「京都守護職」に就任した会津藩。
彼らの台頭に対して、長州藩は焦りを感じておりました。
挽回するためには、より先鋭化した攘夷が必要だということで過激化したのです。

しかも、朝廷に攘夷活動を報告したところ「褒勅」(天皇直々のお褒めの言葉)が出されたのですから、ますます拍車がかかります。

幕府は、こうした長州藩の行動を異常なことと認識し、詰問使・中根市之丞を乗せた蒸気船「朝陽丸」にを乗せて長州へ派遣しました。

朝陽丸/wikipediaより引用

長州藩としても、幕府との揉め事は避けたいところ。
将軍の親書を受け取ろうとしたのですが……。

「なんで、攘夷を真面目にやらん幕府の言うことを聞かにゃあならんのじゃ!」
と、一部の過激な奇兵隊士が激怒。

「ええことを思いついた! 攘夷をやらん幕府にかわってあの船を乗っ取り、わしらで使うちゃろう」
思うが早いが奇兵隊士200名は、なんと「朝陽丸」を占拠してしまったのです。

そのころ幕府の使者は、長州藩から丁寧なおもてなしを受けていました。
そこへ、占拠の報が入ったのですからたまりません。

藩の上層部は焦って奇兵隊を説得しようとします。

若い連中は聞く耳を持たないどころか、ますます暴れて、手が付けられない状況に陥ってしまいました。

ついに奇兵隊士は、幕府の使者を襲撃し暗殺。
幕府の使者である中根は襲撃から逃れたものの、直後に追ってきた刺客に殺されてしまいました。

 

暴走と呼ぶにしては計画的 その背景にいたのが……

この事件の背後で、暴走奇兵隊士に指示を出していた――というのが吉田稔麿です。

確かに暴走と呼ぶにしては計画的な凶行です。
キレ者が糸を引いていたとしても不思議ではないでしょう。

長州藩の若者たちは気勢を上げます。

「不真面目で、攘夷をしない幕府にかわり、攘夷という大正義を行う自分たちは正しい!」

彼らが、自らの姿勢に酔っていないか? と問われたら、これは否定しがたいものがありましょう。

実際、この年、京都では、とある人物が長州藩の行動に対し激怒していました。
吉田らが忠義を尽くしていたはずの孝明天皇です。

孝明天皇/wikipediaより引用

「大和行幸」の計画が勝手に立てられたことを契機に天皇の怒りが爆発。
「朝陽丸」の一件についても怒っていました。

確かに孝明天皇は外国人嫌いではありました。
しかし、それと同時に争いは好まぬ穏やかな性格であり、幕府と強調して歩む「公武合体」の賛成派でした。
何かと言えば幕府に刃向かいたい、長州藩の過激派や倒幕派とは気が合うわけもなかったのです。

ではなぜ、長州に勅(天皇からの命令)がくだされていたのか?

と申しますと、それらはすべて三条実美ら過激派公卿による勝手な行動だったのです。
孝明天皇は、こうした偽勅ラッシュに我慢の限界が訪れていました。

そんな天皇の意を受け、実行されたのが長州藩を京都から追い出す「八月十八日の政変」でした。

 

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苦しい現実逃避と募る憎悪

自分たちが武器としてきた「勅」で、今度は京都を追われてしまった長州藩。

元治元年(1864年)、孝明天皇は追い打ちをかけるように「宸筆の勅旨」を出し、徳川家茂らに自らの意志を伝えました。

無謀な攘夷をしろと言っていない。
攘夷のどさくさに紛れて幕府を倒すとか考えるとは、こんな凶暴な連中は絶対に許せない。
こんなことを考えるのは、考えの浅い卑怯者のすることだ。
罰を受けるべきだ。

として「宸筆の勅旨」を出したのです。
天皇直筆の強い命令でした。

この「宸筆の勅旨」の下書きは薩摩藩が作りました。

ゆえに長州藩は
「ありゃ薩摩に騙されたのであって、天皇の真意じゃない」
と言い逃れをするわけですが、前後の行動を見ると、天皇の真意ど真ん中ではないでしょうか。

自分たちと天皇の思いは一致していたはずだと信じてきた長州藩士たち。
その天皇から激怒をぶつけられたことを、どうしても信じたくなかったようです。

彼らは、いわば現実逃避をしたのですね。

 

薩摩がイギリスと仲良くなって激怒

むろん、正面切って天皇に怒りをぶつけるわけにもいきません。
そこで彼らが持ち出したのが「君側の奸」論でした。

要は、天皇をたぶらかせる悪い連中がいる、というワケで、薩摩藩と会津藩が敵対視されたのです。

長州藩における、薩摩藩への感情は複雑です。
憎むだけではなく、シンパシーも抱いていました。

文久2年(1863年)。
薩摩藩では生麦事件からの薩英戦争という、イギリスとの対立を起こしておりました。

長州藩は、当初この知らせに喜びました。
「わしらだけじゃない、攘夷をしちょる者は他にもおるんじゃ!」

実は薩摩藩ではかなり前、島津斉彬の父である島津斉興の時点で「攘夷は無理、開国する」と決めておりました。
生麦事件は、あくまで突発的なもので一連の事件はアクシデントなのですが……長州側としては仲間が出来たと喜び、慰問状まで送ったとか。

しかしこの後、薩摩がイギリスと手を組んだと知って、長州側は激怒します。

「攘夷をしちょると思うたそに、うわべだけじゃったたぁ! 卑怯な連中じゃ、許さん!」

よくも騙したな、というところでしょうが、薩摩としては
「わいはないをゆちょっど? 勝手に同情して、勝手に失望して、おいん知ったことじゃなか」
といったところですかね。

ともあれ、長州藩の怒りは滾るわけです。
さらに、会津藩では、長州藩からの弁明を孝明天皇に取り次ごうとはしません。

「弁明を聞いて貰うことすら許さん、憎い会津め!

会津藩側としては、孝明天皇への忠義第一で取り次がなかったのかもしれません。
頑固な気質もあったかもしれません。

しかし、そんなことは長州藩には通じないわけです。

後に会津藩が朝敵認定された際、仙台藩は『なぜそれを取り消せないのか』と訝しみました。

「あのとき、会津は弁明の機会を与えだった。今度はわしらが会津からその機会を奪うちゃる」
というのが、長州側の言い分です。

このドロドロした憎悪のスパイラルは、多くの人々の運命を暗い方向へと引きずってゆくのです。

 

急転直下する運命

幕府内では、「罰長論」が出てきます。
そろそろ長州を本格的に罰するべきだろうという判断です。

しかし、旗本・妻木頼矩(向休)などは、慎重論を唱えました。

吉田稔麿

吉田はこの妻木と江戸にて話し合い、老中・板倉勝静に対して長州藩の立場を弁明します。

しかし、この周旋は不発。
妻木は吉田に対して、長州藩はもう少し行動を抑えるべきだと説きました。

さすがに吉田もこれには同意します。
実はこのころ長州藩内では「進発派」と呼ばれる強硬派が台頭しておりました。

これに気を揉む吉田としては、ソフトランディングを望んで「割拠論」を提唱。
敵はまとまりを欠き、いずれ自滅だろうから、それまで悠々と待つべきだ、というものです。

結果的に長州藩では、吉田に幕府宛ての嘆願書を託すことになります。

贈答品を携え、京都へと向かった吉田。
このころ将軍・徳川家茂は上京しており、京都におりました。江戸まで向かわずとも、託すことができたのです。

しかし、ここで思わぬ事態が起こります。
孝明天皇は、当時の懸案事項であった政治問題の処理を幕府に一任すると決めました。

つまり長州藩の運命は、幕府に託されたのです。タッチの差で、長州藩は危機に追い込まれたのです。

しかもこの年、無謀な攘夷をとりやめなければならない年貢の納め時がやってきます。
「下関戦争」です。

イギリス・フランス・オランダ・アメリカを相手に無謀な戦いを挑んだ長州藩は、圧倒的な戦力差で敗北。
攘夷に失敗するだけでなく、京都を追われ、弁明の機会もなく、さらには幕府の手に命運を握られてしまう――という窮地に陥るのでした。

※下関戦争は1863年と1864年8月(旧暦)の二度に渡って行われ、その間の1864年6月(旧暦)に池田屋事件は起きております(誤解のある書き方で申し訳ありません)。

長州藩にとっては、最悪の展開です。
吉田は京都に留まり、しばらく様子を見ることにしました。

自分の命があと僅かであるとは夢にも思わず、彼は京都の夏を満喫していたのです。

 

運命の夜

元治元年6月5日(1864年7月8日)。
旅籠「池田屋」に、同志が集まっていました。
池田屋の主人は、攘夷派に好意的だったのです。

そこへ、新選組が踏み込んだのは四ツ時(午後十時半)。

「御用改めでござる!」

もし一日事件が遅かったら?
おそらく稔麿はこの会合にはいなかったと思われます。

旅支度をしていたからです。

稔麿は池田屋にはいなかった、という説もあります。近藤らが乗り込む直前に出て、長州藩邸に向かう途中で斬られたという内容です。
さらには、加賀藩邸に向かう路上で、多数の会津藩兵から尋問を受け、口論の末に殺害されたという目撃談もあります。

一致しているのは、池田屋の内部ではなく、外で亡くなっているということです。

稔麿は池田屋事件犠牲者でも知名度が高いため、その死も潤色されました。
長州藩邸で自刃した、手槍を持って沖田総司と戦ったという話もありますが、おそらく創作でしょう。

吉田稔麿作とされる辞世もありますが、状況的に作ることが可能であったとは思えません。
明治時代以降の創作説が濃厚です。

事件当日、旅支度をしていた吉田稔麿。もし一日事件がずれていたら、この国の歴史は変わっていたのでしょうか。
それはわかりません。

 

脱出できたとしても、「禁門の変」に巻き込まれた可能性がある

松下村塾生は、前述の通り死亡率が高いです。
この事件を切り抜けたとしても、死亡した可能性は低くはない。

吉田は当時、性病に罹患していたことが書状からうかがえまして、病死の可能性も否定できません。

ゆえに品川弥二郎の言葉が真実であったかも、判断できません。

ハッキリしているのは、「池田屋事件」が申告な人材喪失の場であったということです。

新選組が武功を立て、後世の人々の胸を踊らせる活劇を繰り広げる中、様々な可能性を持った人々が命を落としました。
あの事件には、そういう一面もあるのです。

文:小檜山青




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【参考文献】
『吉田稔麿 松陰の志を継いだ男』一坂太郎
国史大辞典

 




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