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薩英戦争で鹿児島に押し寄せるイギリスの軍艦/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

薩英戦争で意外に少ない薩摩の被害!イギリスと仲良くなった理由がそこにある

更新日:

島津久光上洛の翌年、文久3年(1863年)。
薩摩藩きっての秀才であり、また開明派でもある五代才助(後の五代友厚)は、とある知らせを聞いて愕然とします。

「イギリス艦隊が薩摩を攻撃しに向かっとうだと!」

このままでは、薩摩に勝ち目はない――そう確信した彼は、長崎に立ち寄るであろうイギリス艦隊に直談判し、賠償金1万ポンドを払い、その責めを負って切腹しようと決意を固めます。

五代友厚/国立国会図書館蔵

しかし、五代の読みは外れます。
イギリス艦隊は一直線に薩摩を目指し、絶体絶命の危機が迫っておりました。

薩英戦争の始まりです。

【関連記事】生麦事件

 

5W1H

薩英戦争は、西郷隆盛があまり関与していません。
ゆえに『西郷どん』では扱いが小さいかも知れませんが、ここを外すと幕末史がわかりにくくなりますので、しっかり見ておきたいところです。

英語では
” Anglo-Satsuma War”
あるいは
”Bombardment of Kagoshima”(鹿児島砲撃)
と呼ばれています。

まずは簡単に5W1Hを確認しておきます。

Who: 薩摩藩 vs イギリス海軍

When: 1863年8月15日-1863年8月17日

Where: 鹿児島湾

Why:
イギリス:生麦事件実行犯の引き渡しを要求
薩摩:実行犯ではなく、藩主父子の首を要求されたと誤解する
松平容保の首を求められた会津藩が戦争回避できなかったように、当時は藩主の首を求めることは相当に重たく、受け入れられません。
例えば西郷隆盛と山岡鉄舟との会談でも、慶喜助命を求める鉄舟は、
「あなたがこちらの立場で、藩主の首を求められたらどうするのか」
と問われ、西郷が折れています

・この年5月には、長州藩はじめとする尊皇攘夷派の朝廷工作により、攘夷が国策とされていたこともあり、戦争は不可避であった

How:砲撃戦で双方被害死傷者が発生。補給物資が不足し、上陸戦は不利と判断したイギリス側の判断もあり、講和に持ち込まれる

What:
・薩摩とイギリスの接近 → 薩摩藩とイギリスは急接近を果たす
・薩摩とイギリスの密貿易開始 → 薩摩藩が伝統的な収入手段としていた密貿易範囲が、イギリス相手に拡大。南北戦争で品薄となっていた綿花が主要な輸出品となる
・薩摩藩士がイギリスへ留学 → 五代才助ら、留学生がイギリスを目指す。ここでの知識を生かして、五代は明治時代に商業的な発展を果たす
・西郷隆盛の政治復帰 → 当時、沖永良部島へ二度目の流刑だった西郷が、故郷が戦争に陥ったと知るやいてもたってもいられず、政治復帰への意欲を高めた
・長州が薩摩を敵視 → 自分たちと同じく攘夷に励んでいると思った薩摩藩が、密貿易をしていると知り激怒。「八月十八日の政変」とも重なり、両者間には敵意が募り「禁門の変」で頂点に達する
・イギリスが反幕府勢力の支持方針を固める → 当時、海外から来日した国は、日本は幕府と天皇を中心とした二重の体制があると判断。フランスが幕府支持であることをふまえたうえで、イギリスは天皇を中心とした反幕府勢力の支援を決定
・庶民は幕府に失望 → 攘夷により賠償金をむしり取られて物価が高騰。西日本を中心に「幕府が潰れて新しい体制になればいいのかな?」と倒幕待望論が庶民の間でも流行る

【よくある間違った見方】
「薩摩藩は、この戦争の敗北によって攘夷の非を悟った」
理由は後述します。

生麦事件~そしてイギリス人奥さんは丸坊主にされ、薩英戦争から友情が生まれる

 

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外交官サトウは見ていた

博識な五代才助が【御家の存亡危機だ】と慌てるほどだった薩英戦争。
読み通り、鹿児島城下はイギリス艦隊の砲撃により、火の海となりました。

アーネスト・サトウはこう書き残しています。

「わが方は鹿児島の町を焼き払うため火箭(ロケット)をも発射したが、これは実際うまく行きすぎたほどであった。火炎を消そうとする町民のあらゆる努力も無益であったに違いない」

ニッポン大好きな幕末の外交官アーネスト・サトウは「佐藤さん」じゃなかった

18世紀後半。
イギリスはインド現地軍との戦いで、敵のロケットに悩まされました。

これを受け、イギリス軍では「コングリーヴ・ロケット」を開発、ナポレオン戦争、米英戦争等で、猛威をふるいます。

※コングリーヴロケットの発射再現

更にはライフルや鋼鉄製大砲も開発され、19世紀には下火となるロケット。
これが薩英戦争では効果的だったのです。

鹿児島を砲撃するユーライアラス/wikipediaより引用

ロケットによって燃え上がる薩摩の青白い炎。
鹿児島城を焼き尽くす様は、サトウらも思わず息を呑むほど壮観でした。

木造建築中心の日本家屋は、それこそ簡単に燃え上がってしまったことでしょう。

砲台は破壊され、城下市街地の一割が燃え尽きました。
その中には、島津斉彬が心血を注いだ「集成館」も入っています。貴重な船舶も損傷を受けました。

集成館事業とは? 薩摩切子と芋焼酎を楽しめるのは島津斉彬さんのお陰です

 

薩摩の方が人的被害が少ない

ところが、です。
ド派手な砲撃が行われる一方で、薩摩側が受けた人的被害は思いのほか少ないものでした。

・砲台の死傷者10名
・市街地での死傷者9名

これに対しイギリス側は戦艦損傷3隻で死者20名に負傷53名(諸説あり)。
要するに「割の合わない損害」とも言えます。
捕虜にした五代才助から、上陸戦では勇猛果敢な薩摩隼人に苦戦は必至と聞かされておりました。

ただ、こうしたこと以上に、イギリス側としては石炭や砲弾の不足があり、戦闘打ち切りとしたようです。
お互いにこれ以上戦っても無益であると悟った段階で、賠償金を取って話を終えたほうがよいわけです。

さらにここで一歩踏み込んで、イギリス側の考えを想像してみましょう。

「どうも日本という国は、武力で植民地化するには骨が折れそうだ。ここは金の卵を産む鶏として、生かさず殺さずにしたほうがよいかもしれん」
それぐらい考えてもよさそうではありませんか?

戦後のイギリスの行動を見ますと、そうした考えが透けてきます。

双方は、交渉のテーブルにつきました。

薩英戦争後の交渉に挑む薩摩とイギリスの首脳部たち/wikipediaより引用

薩摩藩が支払った賠償金は2万5千ポンド。
当時の通貨に換算して7万両です。

しかしそれ以上の利益を、互いに得ることができました。

結果、薩摩側も見方を変えていくのです。
イギリス人というのは話が通じるし、これは味方につけたらよいのではないかというわけですね。

一方、イギリス側も、抜群の政治センスを持つ島津久光と薩摩藩は、大きな味方としてとらえます。

その後、薩摩はイギリスを会食に招いて見事な豚肉料理をふるまい、双方、舌鼓を打ちながら親睦を深め、そして「この接近は成功だった」と確信することとなるのです。

 

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薩摩と長州は、険悪の頂点へ

さて、ここで、前述の宿題へ戻りたいと思います。

【よくある間違った見方】として挙げた
「薩摩藩は、この戦争の敗北によって攘夷の非を悟った」
という話ですね。

海と琉球に直面し、「宝島事件」はじめ、海外からの圧力に向き合ってきた薩摩藩は、島津斉興の時点で攘夷は非現実的であると悟っておりました。
斉興、斉彬、そして久光と、薩摩藩の名君たちはずっと現実的な対処を模索していたのです。
理想ばかりが先行。後先考えずに孝明天皇へのアピールばかり重視して攘夷を繰り返した長州藩とは真逆の対応なんですね。

「攘夷の非」は、薩摩藩にとってはとっくにわかりきっていたこと。
ただ、今回の戦争は様々な要因によって不可避だったのです。

薩長同盟】という用語のせいか。
両藩は行動パターンが似ていると思われがちですが、真逆に近い考え方や性質を表にマトメてみました。

薩摩 長州
気質 陽性
積極的で体育会系
陰性
理想先走りの傾向あり
主な勢力 精忠組
寺田屋事件で実質壊滅
松下村塾
禁門の変までに犠牲者多数
伝統的な特徴 将軍家との縁談 朝廷に最も近い藩
攘夷への対応 島津斉興の時点で消極的(薩英戦争はやむを得ず) 積極的(朝廷の勅を奉じて行う・奉勅攘夷)
将軍継嗣問題 藩をあげて「一橋派」 吉田松陰は「一橋派」支持だが藩としては不参加
公武合体運動
(朝廷と幕府)
肯定的 否定的
藩士の制御 島津久光が常にコントロール(粛清も辞さず) 毛利敬親は消極的で不干渉
主な攘夷戦争 薩英戦争(引き分け) 下関戦争(敗北)
孝明天皇の信任 あり なし(偽勅を出して信頼失う)
佐幕派への感情 同情的で寛大 厳しく否定的

まるで違うと思いませんか?

特に【気質の差】とはいうのは大きく、薩長同盟が成立して明治時代となってからも、両者は激しく対立することがありました。

「薩英戦争」に話を戻しますと、悲しい長州の勘違いが発生します。

自分たちだけが外国勢相手に攘夷戦争をしていると思ったのに、薩摩藩もイギリスと戦争をしたというのですから、長州藩は嬉しかったんですね。
無邪気だったんですね。
「わしらは一人じゃない! 薩摩も仲間じゃ!」

と、思っていたら、薩摩が裏でイギリスと手を組み、密貿易でガッツリ儲けていたのですから、失望感は半端ないわけです。

しかもここで「八月十八日の政変」が重なり、京都を追い出された長州たち。
薩摩への怒りはマックス!
仕返しとばかりに薩摩船を沈め、島津久光の殺害予告までバラ撒くという行動に出ています。

島津久光/wikipediaより引用

血の気の多い薩摩藩も、リベンジはできません。
密貿易を自ら公にするわけにもいかないのです。

西郷隆盛が政治復帰を果たす前。
薩長の間柄は、険悪さMAXだった――それをアタマに入れておくと、後の薩長同盟の成立が難しかったかも、理解しやすいことでしょう。

禁門の変(蛤御門の変)で西郷隆盛が初陣!孝明天皇の意図を探れば事件の真相が見えてくる




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文:小檜山青

【参考文献】
明治維新とは何だったのか: 薩長抗争史から「史実」を読み直す』一坂太郎
幕末史 (新潮文庫)』半藤一利
西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』家近良樹

 




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