新選組でも屈指の、謎めいた剣士・斎藤一(はじめ)。
『るろうに剣心』でのイメージが影響しているのか、成熟した人物像を抱く方もおりますが、実は沖田総司より歳下です。
彼は、新選組の中でも最強クラスの剣術だと囁かれると同時に、ファンの間で必ず話題になる議論がありました。
「斎藤は、イケメンだったのか?」
きっとそうだ、と信じたファンもいれば、肖像画を見て「ちょっと違うでしょ……」と口ごもる方も。
眉毛が太く、目つきが鋭く、長身。
肖像画にしても、デフォルメされたものや、息子の顔から想像して描かれたもので、どうにもハッキリしませんでした。
美男子だと証言の残る土方歳三と違い、斎藤の容姿は、長いこと謎に包まれていたのです。
そして、その謎に決着のつく日が遂に訪れました。
平成28年(2016年)7月15日、遺族から提出された鮮明な肖像写真が広く発表されたのです。
各種メディアでも取り上げられましたので、新選組ファンにあらずとも、この画像を見たことがあるかもしれません。
スーッと通った鼻筋に、二重まぶたの切なげな表情。
年老いてなお端正な顔つきは、斎藤が最後まで戦い抜き、心を寄せていた会津の福島県立博物館に所蔵されております。
もちろん新選組ファンはざわつきました。
「やっぱりイケメンだったじゃないか!!」
大正4年(1915年)9月28日はその命日――斎藤一72年の生涯を振り返ってみましょう。
謎多き若年期
斎藤一は、天保15年1月1日(1844年2月18日)に誕生。
元旦生まれとは、なかなかおめでたいものですね。
はじめから斎藤一と名乗ったわけではありませんが、今回は統一させていただきます。
まず彼の出生ですが、詳細はよくわかっておりません。
幕末に活躍する人物としては、若い部類に入ります。
同年に生まれた人物は、陸奥宗光や雲井龍雄などがおり、参考までに他の幕末著名人と比較してみますね。
天保2年(1831年・13才年上):孝明天皇、佐川官兵衛
天保5年(1834年・10才年上):近藤勇、橋本左内、前原一誠、川路利良、江藤新平
天保6年(1835年・9才年上):土方歳三、松平容保、福沢諭吉、小松帯刀、岩崎弥太郎、高橋泥舟、三島通庸
天保10年(1839年・5才年上):永倉新八、高杉晋作、相楽総三
天保13年(1842年・2才年上):沖田総司、大山巌
弘化2年(1845年・1才年上):山川浩、新島八重
新選組隊士としては最古参にあたりながら、最古参の中ではかなり年齢が若い――そういう位置づけです。

近藤勇/Wikipediaより引用
若いだけに、明治を迎えてからも長い人生が待ち受けておりました。
その長い人生で、学校の守衛になったこともあれば、庶務を務めたこともある。
不思議な人物です。
生まれも育ちも江戸なれど
さて、そんな斎藤の出自ですが、父の山口右助は、播磨国明石藩の足軽子孫にあたり、そのため斎藤は明石浪人とされます。
母・ますとの間には、姉の勝(ひさ)、兄の廣明、そして山口二郎がおりました。
新選組隊士の永倉新八と同様、斎藤は生まれも育ちも江戸です。

永倉新八/wikipediaより引用
永倉の場合、幼少期のことが書き残されておりましたが、斎藤の場合はそうではありません。
多くのことが謎めいている中でハッキリしていること。
それは、新選組が京都大坂で隊士を募集した際に、彼が入隊を果たしているということです。
十代も終わりのころ、些細な喧嘩から旗本某を斬ってしまった斎藤一。
父がツテを頼り、京都の吉田某という道場主に匿われたと伝わります。
そこでも強さの際立っていた斎藤は代稽古をつとめるまでになり、その後、新選組隊士募集の噂を耳にして入隊したというわけです。
永倉のように、試衛館に出入りしていたわけでもなく、近藤らと共に上洛してもいない――と、これもよくわからない点があります。
永倉の記憶では、斎藤は試衛館にいたメンバーの中に入っています。
土方の記録でも、試衛館時代に斎藤がいたとされます。
一体何が正しいのか?
これはあくまで推理ですが、以下のような流れであれば、経歴に整合性が生まれます。
永倉のように、試衛館に出入りしていた斎藤
↓
そんな中、旗本を斬ってしまう
↓
近藤らとは別に上京
↓
旧知の近藤らが新選組を結成したと知って入隊
こう考えれば、近藤らと上洛していないことや、その割には最古参として新選組中核にいたことが矛盾なく成立します。
斎藤の若年期は、まるで霧が掛かったような印象ですよね。
おそらく何か語りにくい状況があったのでしょう。
あるいは同じく新選組隊士の藤堂平助のように、貴人のご落胤説があるわけではなく、ただ過去を語らないだけなのではないかと思われます
力士との乱闘事件は斎藤の腹痛がキッカケ
文久3年(1863年)の入隊当時、山口一と名乗っていた斎藤。
メキメキと力を発揮し、副長助勤、剣術師範を務めるようになります。
新選組というと、歴史的には、語るのが難しい点があります。
特に活躍とはいえないエピソードも多いことです。
喧嘩とか。
乱闘とか。
遊女とのロマンスとか。
んなもんどうでもエエわ~と斬り捨ててしまうと、彼等の儚さという魅力が失われてしまうことも確か。
そんなわけで、斎藤のやらかしたことも見ておきましょう。
文久3年(1863年)夏。
新選組隊士は大坂で、六角棒を抱えた力士と乱闘事件を起こしました。
この事件、力士との乱闘であり、そのキッカケは斎藤が腹痛を訴えて乗船を停止させたからです。
よほど腹痛がひどかったのでしょう。
斎藤本人は参加しておりません。
元治元年(1864年)の「池田屋事件」にも現場へ駆けつけました。
ただし、あとから到着した土方隊の一人です。
そのため近藤勇や永倉新八ほどの活躍は確認できません。
それでも合計17両の褒賞を得ています。
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新選組最強三剣士の一人、小野派一刀流を学んだか
なぜ斎藤一は、新選組に入隊し、そこで頭角をあらわすことが出来たのか。
ごく当たり前ながら、剣術の実力が抜きん出ていたからでしょう。
新選組最強の剣士は、年齢が若く、ともかく強かったこの三名とされております。
永倉新八
沖田総司
斎藤一
彼らは剣術師範として、隊士を指導しております。
新選組・阿部十郎の証言によれば、剣の腕前は、僅差で
【永倉>沖田>斎藤】
になるとか。
斎藤は、成人男性の平均身長が158センチ程度であった当時、170センチ前後であったと推察されております。
大柄で、この点だけでも、有利であるといえます。
二十歳前に代稽古していたのですから、当然ながら強いのでしょう。
しかし、実は斎藤がどんな剣術を使ったのか。
これが長いこと不詳でした。
前述の阿部十郎によれば、この最強三名のうち、永倉だけが別流派だったということになります。
永倉は確かに新選組幹部としては毛色が違い、攻撃箇所を叫びながら攻撃する癖がありました。
実践的で騙し討ちも辞さない【天然理心流】とは異なる、道場剣術の【神道無念流】を会得していた彼らしさと言えるでしょう。
斎藤が沖田総司と同じ流派だとすれば、天然理心流ということになります。
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しかしこれも、斎藤が試衛館に出入りしていたのか不明であるため、ハッキリとしないのです。
斎藤の流派には諸説ありました。
・小野派一刀流
・一刀流(山口一刀流) ・天然理心流 ・無外流
現在は小野派一刀流が有力とされています。
フィクションでの斎藤といえば『るろうに剣心』の牙突がありますが、あくまで創作上の技です。
明治以降 剣はサッパリ捨てた
斎藤の流派がよくわからない理由として、左利き説がありました。
が、これは、現在は否定。
警視庁時代の撃剣等級は四級で、劇剣世話掛でもありません。
警視庁でも、新選組時代の噂は流れ、試合に出たことはあったのですが、腕前を見せ付けるようなことには熱心でなかったようです。
明治以降も、剣の道に生きた永倉新八とは対照的です。
スポーツマンシップで剣をふるっていた永倉と、あくまで剣すら目的のための手段でなかった斎藤。そんなところかもしれません。
我が子への指導も、いかにして死なずに生き延びるかという、実践的なものであったそうです。
永倉ですら斎藤とはあまり会話していないため、流派の判別ができなかったと語っているのですから、これまた驚かされます。
出生も若年期も、流派すら謎。
そして最近まで、容貌すら謎だった……どこまでもミステリアス。
それが斎藤一なのです。
現代の漫画、アニメ、ゲームでは、斎藤のこうしたミステリアスさがプラスに働くこともあるようです。
近藤勇や土方歳三、それに永倉新八と比較すると、霧に包まれているため自由に動かすことができます。
そうしたことも、彼の人気を後押ししているのでしょう。
スパイとしての斎藤一
斎藤の活躍として目立つのは、剣士よりもむしろ間者としての働きも大きい。
最大の活躍ともいえるものが、伊東甲子太郎率いる御陵衛士への潜入です。
慶応3年(1867年)、正月早々、斎藤は永倉新八と共に伊東の誘いを受け、島原・角屋で酒宴にふけりました。
前年から伊東は御陵衛士を結成しており、新選組幹部でありかつ最強剣士である永倉と斎藤を、勧誘しようとしたわけです。
このことがキッカケで、二人は謹慎処分を受けております。
永倉は裏表のない性格であり、近藤ともしばしば対立し、土方が宥めることがよくありました。
彼の場合は、近藤への反発があったのかもしれません。
一方で、斎藤はどうでしょうか。
一度脱退するも復帰後、御陵衛士となった阿部十郎は、明治になってから、このときの斎藤をこう語っています。
「金を持ち逃げした、女にのろい奴」
斎藤は、国家も勤王のこともわからない、剣術ができるだけの奴。
しかも女にだらしがない。
御陵衛士の本拠地は、自分が馴染みの女との行き来に楽だから加入した。
挙げ句の果てに、伊東の50両を持ち逃げし、女遊びに使ってしまった。
そのせいで、近藤の側にやむなく戻っただけ。
斎藤は何か思うところもなく、自分が遊んでいる女の側にいたいから、所属先をふらふらしていただけだ――。
と証言しているのです。
果たして、そうなのでしょうか?
これは斎藤のフェイクであったと見たほうが妥当。
斎藤はまんまと阿部を明治まで騙しきったことになります。裏表のない阿部は、コロリと騙されてしまったのでしょう。
斎藤は無口でストイックな性格だったと思われます。
人となりがはっきりしにくいのは、そうした性格のせいのようで、だからこそスパイ向きと思えるのです。
斎藤は、同年11月まで仲間とみなされたまま、御陵衛士におりました。
そしてひそかに脱出すると、近藤暗殺計画を新選組側に報告。
11月18日、伊東は近藤の接待を受けた帰り道、大石鍬二郎らによって殺害されました。

伊東甲子太郎殉難の地碑(本光寺)/wikipediaより引用
囮にされたその遺骸を引き取りに来た御陵衛士の藤堂平助、服部武雄、毛内有之助も殺害されています(「油小路事件」)。
実はこのとき、御陵衛士を襲撃した新選組隊士の中に、斎藤の名もありました。
前述の通り、阿部十郎は「明治になってまで斎藤はふらふらしていただけ」と証言しているわけです。
見事にスパイの役割を果たしていたからこそ、と言えるのではないでしょうか。
天満屋事件であわや!の一幕
慶応3年末といえば、坂本龍馬が暗殺された時期でもあります。
このことに怒った土佐藩士は、龍馬の暗殺犯人を血眼になって捜しておりました。
現在はその犯人は確定しておりますが、当時は藪の中。
新選組の原田左之助ともされておりました。
※坂本龍馬の暗殺犯……黒幕は会津藩主・松平容保で、実行犯は京都見廻組(襲撃犯については今井信郎や佐々木只三郎の説あり)
そんな中、陸奥宗光は佐幕論者の紀州藩士・三浦休太郎が犯人であると確信し、付け狙うようになります。
結果的には陸奥の誤認です。
が、そう思うのも無理はなく、紀州藩と坂本龍馬の間には「いろは丸事件」による遺恨がありました。
かくして海援隊士・陸援隊士から命を狙われた三浦。
その命を守るため、紀州藩は会津藩経由で新選組に護衛を依頼したのです。
新選組というと、暗殺者集団のような印象を抱かれます。
しかし、そもそもは治安の悪化した京都警護を目的とした集団。
当時は、佐幕派も倒幕派も、殺伐として互いに殺し合っていたことを忘れてはなりません。
そんなある日。
斎藤ら新選組隊士七名を護衛につけ、三浦は天満屋二階で酒宴を開きます。
このとき、斎藤は襲撃に備えて鎖帷子を着用しておりました。
しかし酔いが進むと、鎖帷子の手の甲が邪魔になってきます。
なんとか外せないか。と斎藤が苦戦しているところに、闖入者が現れました。
刺客でした。
「三浦か!」
連中は、そう言うなり襲いかかってて、三浦は顔面を切られてしまいます。
蝋燭も切り倒され、暗中での死闘が始まりました。
そして斎藤すら刺客に後ろから抱きつかれて危ういところ、新選組隊士の梅戸勝乃進が負傷しながら斎藤を救い、一命を取り留めます。
このとき、永倉、原田ら別働隊が応援に駆けつけようとしたものの、これまた刺客らと斬り合いになり、到着できません。
結果、紀州藩士が死者三名を出しながら、三浦は顔面負傷のみで助かりました。
幕末らしい死闘の夜。
斎藤すら死を覚悟したほどの事件でした。
※三浦は明治以降、三浦安と名前を変え、東京府知事まで務めております。
鳥羽・伏見の戦い
1867年、冬。
時代はまだまだ激しく動きます。
12月9日、王政復古――徳川慶喜、松平容保、松平定敬は大坂へ向かいます。
12月18日、近藤勇は御陵衛士から狙撃を受け負傷、大坂に退きます。
そのため、土方が指揮を執ることになりました。
そして新選組が籠もった伏見奉行所が襲撃に遭いました。
京都の屋内や路上での戦いには強い新選組ですが、本格的な戦闘となると、いかんせん不利は否めません。
ここから先は苦戦が続きます。
慶応3年が明けると、もはや引き返せない方向へと歴史は突き進んでゆきます。
会津藩内でも、山本覚馬らは戦争回避を模索しておりましたが、そんな動きを探っていた赤松小三郎、坂本龍馬らが殺害され、戦争への道は不可避となっていくのです。
慶応4年(1868年)。
このころから山口二郎と名乗るようになりましたが、本稿は斎藤一で統一します。
この年明け、斎藤は、伏見奉行所で150名の隊士と共に迎えました。
敵方には【錦の御旗】がひるがえり、賊軍とされた新選組は淀や大坂で戦い抜こうとします。
大坂から戦艦で江戸を目指す新選組。
しかし、江戸無血開城を計画していた勝海舟にとって、彼らは邪魔者でしかありません。
勝は以前から新選組を煙たがっておりました。
そこで勝は「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」という名目で新選組を江戸から追い払い、彼等は【甲州勝沼の戦い】で大敗北を喫し、そのまま分裂してしまうのです。
永倉と原田は、ここで近藤らと袂を分かちます。
さらに近藤は、土方の制止をふりきって捕縛され、板橋で斬首されてしまいました。
斎藤は、近藤と土方の別れの前に、別行動を取っています。
永倉らとも袂を分かち、負傷していない隊士20数名と一緒に、江戸ではなく会津へと向かっていたのでした。
山口二郎隊長、北へと奮戦す
閏4月5日、会津藩主・松平喜徳(※徳川慶喜の弟)により、斎藤は新選組隊長に任命されております。
喜徳の義父である松平容保は、恭順の意を示すために隠居済み。
そして土方とも行動を別にするようになり、新選組隊長の座は斎藤にめぐってきたということになります。
土方は宇都宮での負傷後会津に立ち寄り、湯治も行ってはおりますが、さらに死に場所を求めるかのように箱館戦争まで転戦します。
近藤死後の新選組は、土方と共にあり、そして函館で終焉を迎えたと考えられがちです。しかし、会津藩の預かる組織としては、斎藤の指揮下の元、会津で終焉を迎えたとも言えるのです。
そう考えると、明治以降の斎藤の生き方や会津とのつながりも理解しやすくなります。
閏月四月下旬、新選組は、それまでの剣としての装備ではなく、銃器で武装して白河口での戦闘に参加しました。
斎藤は実戦経験に基づいた献策をするものの、西郷頼母は受け入れることはありません。
一族自刃の悲劇で知られる西郷頼母は、実戦経験に乏しく融通の利かない者であり、指揮官としては能力が高かったとは到底言えない器でした。
同じく会津藩家老であった山川大蔵(のちの山川浩)とは異なります。
奥羽への玄関口とされる白河口の指揮官に、西郷頼母がいたということは大きなミスでした。
白河は陥落し奪還はできない状況。
西軍が平潟に上陸を果たし、棚倉城も陥落します。
秋風が吹き始めるころには、会津へと撤退するほかありませんでした。
奥羽の宿場町では、放火や殺人も発生しています。
こうした行為に、新選組が一切関わらなかったとは、状況的に断言できません。
奥羽は戦乱の中へと落ちてゆきました。
斎藤も、ともかく会津まで逃れるだけで必死でした。
会津戦争へ向かってゆく中、猪苗代の陥落は東軍の予想をはるかに上回るものだったのです。
この背景には、会津藩の命令系統の混乱もあります。
母成峠と猪苗代の陥落は、会津藩の指揮系統のつたなさも一因であったのです。
そして西軍は、母成峠を乗り越えて会津城下になだれ込みます。
会津藩は猪苗代湖の十六橋破壊による足止めを狙うものの、これすら失敗。
急を告げる鐘が鳴り響く中、会津若松城下の人々は混乱に陥りました。
白虎隊の悲劇は、こうした中で起こったものでした。
猪苗代から会津若松へ向かう滝沢峠での戦闘後、飯盛山へと撤退する最中、あの悲劇が起こったのです。
如来堂でも生きていた!
こうした最中、会津にたどりついた東軍の間でも、意見が別れます。
土方は二本松城陥落後、海路に面している仙台への転戦を考えるようになります。
伝習隊を率いる大鳥圭介も同じ、彼らは函館へと転戦することになります。
一方で斎藤は、会津で戦い抜くことを考えていました。
彼らは塩川(現在の喜多方市)で袂を分かちます。新選組幹部の多くも、ここで斎藤と別れております。
斎藤らが率いる新選組は、神指城如来堂に籠もりました。
神指城とは、かつて直江兼続が徳川家康を迎え撃つべく、建てようと考えていたものの実現しなかった城跡です。
現在はただの平原ですが、幕末期には遺構が若干は残されておりました(会津若松観光ナビ)。
それを頼りに、斎藤らは籠城を決意したわけです。
人数は20名ほど。
そんな少数ながら、会津若松城を目指す西軍に攻撃を仕掛けたらしいことはわかっております。
残念ながら、詳細な情報はあまりに残っていません。
今わかっていること。
それは多勢に無勢であり、新選組はあえなく全滅した……と考えられていたことです。
新選組隊士であった中島登の描いた斎藤の肖像画でも、如来堂で死亡した扱いとなっております。
味方すら結果的に欺いたほどの戦場から、斎藤は生還したのです。
しかし、この会津戦争での斎藤もよくわかりません。
如来堂で戦死したと長年考えられており、結局どこで何をしていたのか不明。
ハッキリするのは、謹慎所に姿を見せてからなのです。
会津藩領でゲリラ活動をしていたのでは?とされています。
生きていたあの男、斗南藩士に
新選組隊長にまでなった山口二郎、如来堂にて散る――。
中島登はじめ、味方まで信じたその死。
しかし、彼は生きておりました。
謹慎地すらわかりません。
一瀬伝八という変名で高田にいたとされたこともありますが、これは斎藤ではないとの見方が現在では有力。
はっきりとその消息が確定するのは、斗南藩でその消息が見つかってからの話です。
新政府軍に恨まれ、叩き潰された会津藩士たち。
明治期に迫られた道は、いくつかあります。
・会津での帰農
→町野主水、酒井峰治等
しかし、これも三島通庸に利用されるようなこともありまして……ラクな道ではありませんでした。
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会津で長州よりも嫌悪された男・三島通庸|鬼県令は薩摩の精忠組出身だった
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・蝦夷地で開拓
→『マッサン』の森野熊虎父のルートです
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・東京その他の土地へ
→秋月悌次郎、広沢安任等
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・斗南藩へ
→山川浩、佐川官兵衛、柴五郎等
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この斗南藩ですが、比較的上級藩士が向かったルートであり、ここに斎藤が入ることからしてそれなりの期待感や厚遇を感じます。
結果的には大変なこととなるのですが、たどりつくまではそんなこともわからなかったわけです。
斎藤は、会津藩士となったとは言えません。
しかし、斗南藩士としては迎えられた。
結果的に言いますと、斗南藩での生活は大失敗に終わります。
・前提条件に無理がある
・地元住民と移住者間の軋轢、統治に反発する一揆も発生している
・会津藩士、あまりに商売感覚がない
・会津藩士、農業感覚もなかった……
廃藩置県により、斗南藩の生活は終わりました。
地元に残留した者もおりますが、斎藤はじめ中には東京を目指す者も……。
斎藤は、ここで藤田五郎として生きることとなるのです。
斗南藩士としての日々は、苦しいだけのものではありませんでした。
この時代、斎藤は篠田やそという、会津藩出身の女性と結婚したとされます。ただ、上京時に残してきたようで、やそはのちに、倉沢平治右衛門という人物の家に住み込んでおります。
おそらくや離縁したのでしょう。
藤田五郎巡査
東京で、斎藤は妻を娶りました。
彼女の名は高木時尾。
松平容保の義姉かつ会津藩の姫君として慕われた「照姫」の祐筆であった才女です。父は三百石という上級藩士の出身でした。
会津戦争では、夜襲へと向かう山本八重の断髪をしており、『八重の桜』では、貫地谷しほりさんが演じました。
斎藤と時尾の夫妻の姿は、『八重の桜』でも登場しております。
弟・高木盛之輔は、軍人や教育者として、明治時代に名を残しております。
義兄の斎藤とも交流があったことでしょう。
この結婚は、まるで会津藩をあげて祝うかのようでした。
上仲人が松平容保、下仲人が佐川官兵衛と山川浩であったのです。
このように、斎藤と旧会津藩の人々との交流は、東京に移ってからも続いております。
佐川のみならず、山川浩・健次郎兄弟も飲み友達。
酒が好きな彼らと飲んでは昔話に耽る。明治の世で賊軍と指をさされていた彼らではありましたが、そこには友情があったのです。
山川浩は、斎藤の長男・勉の名付け親でもあります。
そんな生活でも、なんとかして糧を見つけねばなりません。
ここに渡りに船とばかりに、会津藩士をスカウトしている人物がおりました。
日本に警察組織を導入した、川路利良です。
2019年大河ドラマ『いだてん』で、巡査をしていた元旗本・美濃部戍行が、槍を片手に息子の美濃部孝蔵を追い回し、視聴者の度肝を抜きました。
そういう時代です。
川路は、武士の武芸こそ逮捕に役立つと、士族を積極的に登用したのです。
真剣で斬り合える巡査がウロウロしている、明治時代。怖いですねえ……。
斎藤一の人気を高めた『るろうに剣心』での彼は、
この藤田五郎時代の姿です。
週刊モーニングに連載されていた『警視庁草紙‐風太郎明治劇場‐』(原作:山田風太郎、監修:後藤一信、画:東直輝)にも、藤田五郎巡査が出てきます。斎藤一と永倉新八が顔を合わせる大変盛り上がる展開もあります。
なお斎藤の同僚には、坂本龍馬の暗殺犯説もある今井信郎巡査が登場しておりました。
明治初期の混沌とした警視庁の姿が描かれています。
薩摩芋を斬る! 西南戦争へ
明治10年(1877年)、西南戦争――それは会津ゆかりの人々が待ちに待った瞬間でした。
このとき川路利良は、警視庁からの巡査派遣を決定。
わざわざ全国から徴募するほどの気合の入れようです。
斎藤も、このことが決まると、警視庁同僚の佐川官兵衛に興奮気味で語りかけて来たのですから、いかに期待していたのかわかろうというもの。
警部補となった斎藤は、二番隊長の一員として出発します。
豊後口へ向かい、熊本へと転戦。
藤田は、会津戦争での山本八重、戊辰戦争での庄内藩が用いたスペンサー銃も装備していました。
大分県高床山付近で、斎藤は右肋骨あたりに負傷し、陸軍出張病院に入院しております。
戦後、勲七等青色桐葉章と賞金100円を受け取っております。活躍を果たしたのでしょう。
このとき、斎藤と親しかった佐川官兵衛は戦死を遂げました。
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守衛としての晩年
斎藤は、明治21年(1888年)まで警察官として生き、退職しました。
明治以降の歩みは、勤め人として淡々としているかもしれません。
永倉のように、仲間の慰霊や新聞記者の取材に応じることはなく、それでも山川兄弟のような親しい人物には過去の経験を語ったようです。
その口の重さが、彼のミステリアスなイメージを増幅しております。
そんな斎藤の会津人脈が、新たな就職先につながります。
東京高等師範学校の校長・高嶺秀夫は、会津藩士でした。『いだてん』でも中心にいる同校は、実は会津の人脈と深い関わりがあるのです。
山川浩も校長を務めております。
柔道でも知られる嘉納治五郎(同じく校長)は、会津藩家老・西郷頼母の養子である西郷四郎の師匠でもありました。
そんな会津人脈を頼って、斎藤にも声が掛かります。
明治27年(1894年)から明治31年(1898年)まで。
東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館史跡・湯島聖堂)の看守(守衛長)を勤めたのです。何気に、ここでは剣術も指南したとか。
嘉納治五郎が柔道、斎藤一が剣術。
東京高等師範学校の指導者、スゴすぎます。
明治32年(1899年)から明治42年(1909年)にかけては、東京女子高等師範学校に庶務掛兼会計掛として勤務。
なお斎藤としては、女子は男子よりも対応が楽であったとか。別に可愛らしいということではなく、男子は新選組時代の逸話を聞き出そうと興味津々で困惑させられたからとのこと。
永倉新八は新選組顕彰に熱心で、新聞記者の取材にも応じ、武勇伝も披露しております。斎藤と永倉はなかなか対照的な性格といえますね。
登下校時は人力車の交通整理もしたそうです。
特に頼まれなくても進んで誘導していたそうですから、なんとも親切ではありませんか。
人力車を引く車夫となれば気の荒い青年も多かったでしょうから、うってつけの役目とも言えます。
会計ということは、算盤をパチパチとはじいていたことにもなります。
この学校間の異動は高嶺と一致します。
彼のあとを慕ったのでしょう。
仏間で結跏趺坐したまま大往生
新選組の最強剣士だけに、その後もさぞや恐ろしい話があるのかな?と思ってしまいますよね。
永倉の場合、晩年でもチンピラを軽々と倒したなんて伝わっております。
しかし、斎藤はどうもそういう話はありません。
周囲が彼の過去を知り、勝手にあれは怖い、恐ろしい目だと感じていただけ。
トラブルとは無縁の、よい人だったのでしょう。
彼の勤務態度は「格別勉励」で、とても真面目だったとのことです。
大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため、東京の自宅で死去。
享年72。
その死を悟り、仏間で結跏趺坐(けっかふざ)したままでの大往生でした。
墓は、福島県会津若松市の阿弥陀寺にあります(会津若松観光ナビ→link)。
この境内には、取り壊された鶴ヶ城の遺構が移築され、会津戦争の死者が埋葬されています。
戦い抜いた会津の人々と眠りたい――生前から山川浩らに語っていた斎藤の願いが叶えられたのです。
阿弥陀寺では、毎年秋に慰霊祭が行われております。
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会津戦争の遺恨『遺体埋葬論争』に終止符を|亡骸埋葬は本当に禁じられた?
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なお、同年には、永倉新八も死去。
新選組隊士の生き残りは、明治を生き抜き、大正時代にかけて静かに去っていったのでした。
斎藤の魂は、その墓と写真の寄贈された福島県立博物館がある、会津に今もあるのです。

新選組斎藤一のお墓/photo by Rikita wikipediaより引用
★
この記事を読んで、
「結局、斎藤一ってわからないことだらけじゃないか!」
と思われた方も多いでしょう。
そうなのです。
永倉新八のように、積極的に語っているわけでもない。
書状も限定的。
写真すら、つい最近までなかったほどです。あれほど鮮明なものが複数あったにも関わらず、なかったとされた。
おそらくや生前の彼の性格が影響しているのでしょう。
意図的に隠したわけではなく、よほど気を許さなければ、あまり語らないタイプであったようです。
子孫によれば、斎藤は話す前に吟味して、やっとしぼり出すタイプだったとか。
ただし、明治以降の会津人脈となると、親しげな姿を見せております。
斗南藩士として受け入れられ、結婚にせよ就職にせよ、親身になって自分に寄り添ってくれたという恩義があったのかもしれません。
会津の人々に対しては、心を開いている様子がうかがえます。
『るろうに剣心』をはじめとするフィクションで描かれる斎藤は、シャープでミステリアスな像です。
しかし、実像はもっとシャイで慎重な姿がうかがえます。
根が真面目であったからこそ、守衛として極めて真面目につとめあげたのでしょう。
シャイでありすぎたために、ミステリアスにされてしまった斎藤一。
そんな像も魅力的じゃありませんか――。
生真面目で、ともすれば融通の利かない会津藩士たち、その膝下に斎藤の墓があるのも、なんとなく納得できます。
シャイでミステリアスな斎藤を迎え入れた土地で、彼とその家族は今も眠っています。
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参考文献
- 三十一人会『斎藤一〜新選組論考集』(小島資料館, 2016年4月, ISBN-13: 978-4906062102)
出版社(書誌情報): 国立国会図書館 書誌情報 |
Amazon: 商品ページ - 新人物往来社 編『新選組・斎藤一のすべて』(新人物往来社, 2003年11月, ISBN-13: 978-4404031358)
書誌情報: 復刊ドットコム(詳細) |
Amazon: 商品ページ - 赤間倭子『新選組・斎藤一の謎』(新人物往来社, 1998年6月, ISBN-13: 978-4404026262)
版元サイト: KADOKAWA 書誌情報 |
Amazon: 商品ページ - 古賀茂・鈴木亨『「新選組」全隊士録』(講談社, 2003年11月, ISBN-13: 978-4062118552)
書誌情報: 紀伊國屋書店(書誌) |
Amazon: 商品ページ - 山村竜也『新選組証言録』(PHP研究所〈PHP新書〉, 2004年7月, ISBN-13: 978-4569637180)
版元サイト: PHP研究所 書誌情報 |
Amazon: 商品ページ - 松浦玲『新選組』(岩波書店〈岩波新書〉, 2003年9月, ISBN-13: 978-4004308553)
書誌情報: 版元ドットコム(書誌) |
Amazon: 商品ページ






















