斎藤一/wikipediaより引用

幕末・維新 新選組

斎藤一72年の生涯をスッキリ解説!謎多き新選組・最強剣士は会津に眠る

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新選組でも屈指の、謎めいた剣士・斎藤一(はじめ)
『るろうに剣心』でのイメージが影響しているのか、成熟した人物像を抱く方もおりますが、実は沖田総司より歳下です。

彼は、新選組の中でも最強クラスの剣術だと囁かれると同時に、ファンの間で必ず話題になる議論がありました。

「斎藤は、イケメンだったのか?」

きっとそうだ、と信じたファンもいれば、肖像画を見て「ちょっと違うでしょ……」と口ごもる方も。

息子の要望で再現された肖像画/wikipediaより引用

眉毛が太く、目つきが鋭く、長身。
肖像画にしても、デフォルメされたものや、息子の顔から想像して描かれたもので、どうにもハッキリしませんでした。

美男子だと証言の残る土方歳三と違い、斎藤の容姿は、長いこと謎に包まれていたのです。

集合写真に映った姿(中段の一番右)がそうだ、とも語られたりしました/wikipediaより引用

そして、その謎に決着のつく日が遂に訪れました。

平成28年(2016年)7月15日。
遺族から提出された鮮明な肖像写真が広く発表されたのです。

斎藤一/wikipediaより引用

各種メディアでも取り上げられましたので、新選組ファンにあらずとも、この画像を見たことがあるかもしれません。

スーッと通った鼻筋に、二重まぶたの切なげな表情。
年老いてなお端正な顔つきは、斎藤が最後まで戦い抜き、心を寄せていた会津の福島県立博物館に所蔵されております(発売中の写真クリアファイル)。

もちろん新選組ファンはざわつきました。

「やっぱりイケメンだったじゃないか!!」

2004年大河ドラマ『新選組!』で斎藤を演じたオダギリジョーさんにも似ているようで、幕末ファンの心を再びかき乱した――斎藤一72年の生涯を見て参りましょう。

 

謎多き若年期

斎藤一は、天保15年1月1日(1844年2月18日)に誕生。
元旦生まれとは、なかなかおめでたいものですね。

はじめから斎藤一と名乗ったわけではありませんが、今回は統一させていただきます。

まず彼の出生ですが、詳細はよくわかっておりません。
幕末に活躍する人物としては、若い部類に入ります。

同年に生まれた人物は、陸奥宗光や雲井龍雄などがおり、参考までに他の幕末著名人と比較してみますね。

天保2年(1831年・13才年上):孝明天皇、佐川官兵衛
天保5年(1834年・10才年上):近藤勇、橋本左内、前原一誠、川路利良、江藤新平
天保6年(1835年・9才年上):土方歳三、松平容保、福沢諭吉、小松帯刀、岩崎弥太郎、高橋泥舟、三島通庸
天保10年(1839年・5才年上):永倉新八、高杉晋作、相楽総三
天保13年(1842年・2才年上):沖田総司、大山巌
弘化2年(1845年・1才年上):山川浩、新島八重

新撰組隊士としては最古参にあたりながら、最古参の中ではかなり年齢が若い――そういう位置づけです。

若いだけに、明治を迎えてからも長い人生が待ち受けておりました。
その長い人生で、学校の守衛になったこともあれば、庶務を務めたこともある。

フシギな人物です。

 

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生まれも育ちも江戸なれど、入隊まで謎多き経歴

さて、そんな斎藤の出自ですが、父の山口右助は、播磨国明石藩の足軽子孫にあたり、そのため斎藤は明石浪人とされます。
母・ますとの間には、姉の勝(ひさ)、兄の廣明、そして山口二郎がおりました。

新選組隊士の永倉新八と同様、斎藤は生まれも育ちも江戸です。
永倉の場合、幼少期のことが書き残されておりましたが、斎藤の場合はそうではありません。

永倉新八77年の生涯をスッキリ解説!新選組・最強剣士はいかに時代を駆け抜けたか

多くのことが謎めいている中でハッキリしていること。
それは、新選組が京都大坂で隊士を募集した際に、彼が入隊を果たしているということです。

十代も終わりのころ、些細な喧嘩から旗本某を斬ってしまった斎藤一。
父がツテを頼り、京都の吉田某という道場主に匿われたと伝わります。

そこでも強さの際立っていた斎藤は代稽古をつとめるまでになり、その後、新選組隊士募集の噂を耳にして入隊したというわけです。

永倉のように、試衛館に出入りしていたわけでもなく、近藤らと共に上洛してもいない――と、これもよくわからない点があります。

永倉の記憶では、斎藤は試衛館にいたメンバーの中に入っています。
土方の記録でも、試衛館時代に斎藤がいたとされます。

一体何が正しいのか?

これはあくまで推理ですが、以下のような流れであれば、経歴に整合性が生まれます。

永倉のように、試衛館に出入りしていた斎藤

そんな中、旗本を斬ってしまう

近藤らとは別に上京

旧知の近藤らが新選組を結成したと知って入隊

こう考えれば、近藤らと上洛していないことや、その割には最古参として新選組中核にいたことが矛盾なく成立します。

斎藤の若年期は、まるで霧が掛かったような印象ですよね。
おそらくや、何か語りにくい状況があったのでしょう。
あるいは同じく新選組隊士の藤堂平助のように、貴人のご落胤説があるわけではなく、ただ過去を語らないだけなのではないかと思われます

ミステリアスといえばそうですが、本人が狙ってそうしたわけではないのではないでしょうか。

 

力士との乱闘事件は斎藤の腹痛がキッカケ

文久3年(1863年)の入隊当時、山口一と名乗っていた斎藤。
メキメキと力を発揮し、副長助勤、剣術師範を務めるようになります。

新選組というと、歴史的には、語るのが難しい点があります。
特に活躍とはいえないエピソードも多いことです。

喧嘩とか。
乱闘とか。
遊女とのロマンスとか。

んなもんどうでもエエわ~と斬り捨ててしまうと、彼等の儚さという魅力が失われてしまうことも確か。
そんなわけで、斎藤のやらかしたことも見ておきましょう。

文久3年(1863年)夏。

新選組隊士は大坂で、六角棒を抱えた力士と乱闘事件を起こしました。
この事件、力士との乱闘であり、そのキッカケは斎藤が腹痛を訴えて乗船を停止させたからです。

よほど腹痛がひどかったのでしょう。
斎藤本人は参加しておりません。

元治元年(1864年)の「池田屋事件」にも現場へ駆けつけました。

ただし、あとから到着した土方隊の一人です。
そのため近藤勇や永倉新八ほどの活躍は確認できません。

それでも合計17両の褒賞を得ています。

池田屋事件は【新選組vs長州や土佐藩など】 坂本龍馬は直接関係ありません

 

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新選組最強三剣士の一人、しかしその流派は謎

なぜ斎藤一は、新選組に入隊し、そこで頭角をあらわすことが出来たのか。

ごく当たり前ながら、剣術の実力が抜きん出ていたからでしょう。
新選組最強の剣士は、年齢が若く、ともかく強かったこの三名とされております。

永倉新八
沖田総司
斎藤一

彼らは剣術師範として、隊士を指導しております。

新選組・阿部十郎の証言によれば、剣の腕前は、僅差で
【永倉>沖田>斎藤】
になるとか。

斎藤は、成人男性の平均身長が158センチ程度であった当時、170センチ前後であったと推察されております。
大柄です。
この点だけでも、有利であるといえます。
二十歳前に代稽古していたのですから、当然ながら強いのでしょう。

しかし、実は斎藤がどんな剣術を使ったのか。
これが永倉あたりと比較しますと、実はよくわかっておりません。

前述の阿部十郎によれば、この最強三名のうち、永倉だけが別流派だったということになります。

永倉は確かに新選組幹部としては毛色が違い、攻撃箇所を叫びながら攻撃する癖がありました。
実践的で騙し討ちも辞さない【天然理心流】とは異なる、道場剣術の【神道無念流】を会得していた彼らしさと言えるでしょう。

斎藤が沖田総司と同じ流派だとすれば、天然理心流ということになります。
しかしこれも、斎藤が試衛館に出入りしていたのか不明であるため、ハッキリとしないのです。

諸説ある斎藤の流派をマトメると、以下の通りです。

・一刀流(山口一刀流)
・天然理心流
・無外流

フィクションでの斎藤といえば『るろうに剣心』の牙突がありますが、何の流派なのか不明です。

 

明治以降 剣はサッパリ捨てた

斎藤の流派がよくわからない理由として、左利き説がありました。
が、これは、現在は否定。

警視庁時代の撃剣等級は四級で、劇剣世話掛でもありません。
警視庁でも、新選組時代の噂は流れ、試合に出たことはあったのですが、腕前を見せ付けるようなことには熱心でなかったようです。

明治以降も、剣の道に生きた永倉新八とは対照的です。

スポーツマンシップで剣をふるっていた永倉と、あくまで剣すら目的のための手段でなかった斎藤。そんなところかもしれません。
我が子への指導も、いかにして死なずに生き延びるかという、実践的なものであったそうです。

永倉ですら斎藤とはあまり会話していないため、流派の判別ができなかったと語っているのですから、これまた驚かされます。

出生も若年期も、流派すら謎。
そして最近まで、容貌すら謎だった……どこまでもミステリアス。

それが斎藤一なのです。

現代の漫画、アニメ、ゲームでは、斎藤のこうしたミステリアスさがプラスに働くこともあるようです。

近藤勇や土方歳三、それに永倉新八と比較すると、霧に包まれているため自由に動かすことができます。
そうしたことも、彼の人気を後押ししているのでしょう。

 

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スパイとしての斎藤一

斎藤の活躍として目立つのは、剣士よりもむしろ間者としての働きも大きい。
最大の活躍ともいえるものが、伊東甲子太郎率いる御陵衛士への潜入です。

伊東甲子太郎/wikipediaより引用

慶応3年(1867年)、正月早々、斎藤は永倉新八と共に伊東の誘いを受け、島原・角屋で酒宴にふけりました。

前年から伊東は御陵衛士を結成しており、新選組幹部でありかつ最強剣士である永倉と斎藤を、勧誘しようとしたわけです。

このことがキッカケで、二人は謹慎処分を受けております。
永倉は裏表のない性格であり、近藤ともしばしば対立し、土方が宥めることがよくありました。

彼の場合は、近藤への反発があったのかもしれません。
一方で、斎藤はどうでしょうか。

一度脱退するも復帰後、御陵衛士となった阿部十郎は、明治になってから、このときの斎藤をこう語っています。

「金を持ち逃げした、女にのろい奴」

斎藤は、国家も勤王のこともわからない、剣術ができるだけの奴。
しかも女にだらしがない。
御陵衛士の本拠地は、自分が馴染みの女との行き来に楽だから加入した。

挙げ句の果てに、伊東の50両を持ち逃げし、女遊びに使ってしまった。
そのせいで、近藤の側にやむなく戻っただけ。

斎藤は何か思うところもなく、自分が遊んでいる女の側にいたいから、所属先をふらふらしていただけだ――と証言しているのです。

果たして、そうなのでしょうか?

これは斎藤のフェイクであったと見たほうが妥当。
斎藤はまんまと阿部を明治まで騙しきったことになります。裏表のない阿部は、コロリと騙されてしまったのでしょう。

斎藤は無口でストイックな性格だったと思われます。
人となりがはっきりしにくいのは、そうした性格のせいのようで、だからこそスパイ向きと思えるのです。

斎藤は、同年11月まで仲間とみなされたまま、御陵衛士におりました。

そしてひそかに脱出すると、近藤暗殺計画を新選組側に報告。
11月18日、伊東は近藤の接待を受けた帰り道、大石鍬二郎らによって殺害されました。

伊東甲子太郎殉難の地碑(本光寺)/wikipediaより引用

囮にされたその遺骸を引き取りに来た御陵衛士の藤堂平助、服部武雄、毛内有之助も殺害されています(「油小路事件」)。

実はこのとき、御陵衛士を襲撃した新選組隊士の中に、斎藤の名もありました。

前述の通り、阿部十郎は「明治になってまで斎藤はふらふらしていただけ」と証言しているわけです。
見事にスパイの役割を果たしていたからこそ、と言えるのではないでしょうか。

 

天満屋事件であわや!の一幕

慶応3年末といえば、坂本龍馬が暗殺された時期でもあります。
このことに怒った土佐藩士は、龍馬の暗殺犯人を血眼になって捜しておりました。

現在はその犯人は確定しておりますが、当時は藪の中。
新選組の原田左之助ともされておりました。

※坂本龍馬の暗殺犯……黒幕は会津藩主・松平容保で、実行犯は京都見廻組(襲撃犯については今井信郎や佐々木只三郎の説あり)

近江屋事件で坂本龍馬が暗殺! 容疑者をまとめてみました

そんな中、陸奥宗光は佐幕論者の紀州藩士・三浦休太郎が犯人であると確信し、付け狙うようになります。

三浦休太郎/wikipediaより引用

結果的には陸奥の誤認です。
が、そう思うのも無理はなく、紀州藩と坂本龍馬の間には「いろは丸事件」による遺恨がありました。

かくして海援隊士・陸援隊士から命を狙われた三浦。
その命を守るため、紀州藩は会津藩経由で新選組に護衛を依頼したのです。

新選組というと、暗殺者集団のような印象を抱かれます。

しかし、そもそもは治安の悪化した京都警護を目的とした集団。
当時は、佐幕派も倒幕派も、殺伐として互いに殺し合っていたことを忘れてはなりません。

そんなある日。
斎藤ら新撰組隊士七名を護衛につけ、三浦は天満屋二階で酒宴を開きます。

このとき、斎藤は襲撃に備えて鎖帷子を着用しておりました。
しかし酔いが進むと、鎖帷子の手の甲が邪魔になってきます。

なんとか外せないか。と斎藤が苦戦しているところに、闖入者が現れました。

刺客でした。

「三浦か!」

連中は、そう言うなり襲いかかってて、三浦は顔面を切られてしまいます。
蝋燭も切り倒され、暗中での死闘が始まりました。

そして斎藤すら刺客に後ろから抱きつかれて危ういところ、新選組隊士の梅戸勝乃進が負傷しながら斎藤を救い、一命を取り留めます。
このとき、永倉、原田ら別働隊が応援に駆けつけようとしたものの、これまた刺客らと斬り合いになり、到着できません。

結果、紀州藩士が死者三名を出しながら、三浦は顔面負傷のみで助かりました。

幕末らしい死闘の夜。
斎藤すら死を覚悟したほどの事件でした。

※三浦は明治以降、三浦安と名前を変え、東京府知事まで務めております。

 

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鳥羽・伏見の戦い

1867年、冬。
時代はまだまだ激しく動きます。

12月9日、王政復古――徳川慶喜、松平容保、松平定敬は大坂へ向かいます。

討幕の密勅をわかりやすく解説!大政奉還と同日に出された真の意味とは?

12月18日、近藤勇は御陵衛士から狙撃を受け負傷、大坂に退きます。
そのため、土方が指揮を執ることになりました。

そして新選組が籠もった伏見奉行所が襲撃に遭いました。
京都の屋内や路上での戦いには強い新選組ですが、本格的な戦闘となると、いかんせん不利は否めません。

ここから先は苦戦が続きます。

慶応3年が明けると、もはや引き返せない方向へと歴史は突き進んでゆきます。

会津藩内でも、山本覚馬らは戦争回避を模索しておりましたが、そんな動きを探っていた赤松小三郎、坂本龍馬らが殺害され、戦争への道は不可避となっていくのです。

赤松小三郎の名はもっと広まるべき!人斬り半次郎に殺された幕末の“知られざる英雄”

慶応4年(1868年)。
このころから山口二郎と名乗るようになりましたが、本稿は斎藤一で統一します。

この年明け、斎藤は、伏見奉行所で150名の隊士と共に迎えました。
敵方には【錦の御旗】がひるがえり、賊軍とされた新選組は淀や大坂で戦い抜こうとします。

大坂から戦艦で江戸を目指す新選組。
しかし、江戸無血開城を計画していた勝海舟にとって、彼らは邪魔者でしかありません。

勝は以前から新選組を煙たがっておりました。

そこで勝は「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」という名目で新選組を江戸から追い払い、彼等は【甲州勝沼の戦い】で大敗北を喫し、そのまま分裂してしまうのです。

甲州勝沼の戦い/wikipediaより引用

永倉と原田は、ここで近藤らと袂を分かちます。
さらに近藤は、土方の制止をふりきって捕縛され、板橋で斬首されてしまいました。

近藤勇/Wikipediaより引用

斎藤は、負傷していない隊士20数名とともに、会津へと向かっています。

近藤と土方の別れの前に、別行動を取っているのです。
永倉らとも袂を分かち、江戸ではなく会津へと向かっていたのでした。




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