新選組でも屈指の、謎めいた剣士・斎藤一(はじめ)。
『るろうに剣心』でのイメージが影響しているのか、成熟した人物像を抱く方もおりますが、実は沖田総司より歳下です。
彼は、新選組の中でも最強クラスの剣術だと囁かれると同時に、ファンの間で必ず話題になる議論がありました。
「斎藤は、イケメンだったのか?」
きっとそうだ、と信じたファンもいれば、肖像画を見て「ちょっと違うでしょ……」と口ごもる方も。
眉毛が太く、目つきが鋭く、長身。
肖像画にしても、デフォルメされたものや、息子の顔から想像して描かれたもので、どうにもハッキリしませんでした。
美男子だと証言の残る土方歳三と違い、斎藤の容姿は、長いこと謎に包まれていたのです。
そして、その謎に決着のつく日が遂に訪れました。
平成28年(2016年)7月15日。
遺族から提出された鮮明な肖像写真が広く発表されたのです。
各種メディアでも取り上げられましたので、新選組ファンにあらずとも、この画像を見たことがあるかもしれません。
スーッと通った鼻筋に、二重まぶたの切なげな表情。
年老いてなお端正な顔つきは、斎藤が最後まで戦い抜き、心を寄せていた会津の福島県立博物館(→link)に所蔵されております。
もちろん新選組ファンはざわつきました。
「やっぱりイケメンだったじゃないか!!」
2004年大河ドラマ『新選組!』で斎藤を演じたオダギリジョーさんにも似ているようで、幕末ファンの心を再びかき乱した――。
斎藤一72年の生涯を見て参りましょう。
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謎多き若年期
斎藤一は、天保15年1月1日(1844年2月18日)に誕生。
元旦生まれとは、なかなかおめでたいものですね。
はじめから斎藤一と名乗ったわけではありませんが、今回は統一させていただきます。
まず彼の出生ですが、詳細はよくわかっておりません。
幕末に活躍する人物としては、若い部類に入ります。
同年に生まれた人物は、陸奥宗光や雲井龍雄などがおり、参考までに他の幕末著名人と比較してみますね。
天保5年(1834年・10才年上):近藤勇、橋本左内、前原一誠、川路利良、江藤新平
天保6年(1835年・9才年上):土方歳三、松平容保、福沢諭吉、小松帯刀、岩崎弥太郎、高橋泥舟、三島通庸
天保10年(1839年・5才年上):永倉新八、高杉晋作、相楽総三
天保13年(1842年・2才年上):沖田総司、大山巌
新撰組隊士としては最古参にあたりながら、最古参の中ではかなり年齢が若い――そういう位置づけです。
※以下は近藤勇の生涯まとめ記事となります
近藤勇が新選組で成し遂げたかったことは?関羽に憧れ「誠」を掲げた35年の生涯
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若いだけに、明治を迎えてからも長い人生が待ち受けておりました。
その長い人生で、学校の守衛になったこともあれば、庶務を務めたこともある。
不思議な人物です。
生まれも育ちも江戸なれど
さて、そんな斎藤の出自ですが、父の山口右助は、播磨国明石藩の足軽子孫にあたり、そのため斎藤は明石浪人とされます。
母・ますとの間には、姉の勝(ひさ)、兄の廣明、そして山口二郎がおりました。
新選組隊士の永倉新八と同様、斎藤は生まれも育ちも江戸です。
永倉の場合、幼少期のことが書き残されておりましたが、斎藤の場合はそうではありません。
永倉新八こそが新選組最強か?最後は近藤と割れた77年の生涯まとめ
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多くのことが謎めいている中でハッキリしていること。
それは、新選組が京都大坂で隊士を募集した際に、彼が入隊を果たしているということです。
十代も終わりのころ、些細な喧嘩から旗本某を斬ってしまった斎藤一。
父がツテを頼り、京都の吉田某という道場主に匿われたと伝わります。
そこでも強さの際立っていた斎藤は代稽古をつとめるまでになり、その後、新選組隊士募集の噂を耳にして入隊したというわけです。
永倉のように、試衛館に出入りしていたわけでもなく、近藤らと共に上洛してもいない――と、これもよくわからない点があります。
永倉の記憶では、斎藤は試衛館にいたメンバーの中に入っています。
土方の記録でも、試衛館時代に斎藤がいたとされます。
一体何が正しいのか?
これはあくまで推理ですが、以下のような流れであれば、経歴に整合性が生まれます。
永倉のように、試衛館に出入りしていた斎藤
↓
そんな中、旗本を斬ってしまう
↓
近藤らとは別に上京
↓
旧知の近藤らが新選組を結成したと知って入隊
こう考えれば、近藤らと上洛していないことや、その割には最古参として新選組中核にいたことが矛盾なく成立します。
斎藤の若年期は、まるで霧が掛かったような印象ですよね。
おそらくや、何か語りにくい状況があったのでしょう。
あるいは同じく新選組隊士の藤堂平助のように、貴人のご落胤説があるわけではなく、ただ過去を語らないだけなのではないかと思われます
ミステリアスといえばそうですが、本人が狙ってそうしたわけではないのではないでしょうか。
力士との乱闘事件は斎藤の腹痛がキッカケ
文久3年(1863年)の入隊当時、山口一と名乗っていた斎藤。
メキメキと力を発揮し、副長助勤、剣術師範を務めるようになります。
新選組というと、歴史的には、語るのが難しい点があります。
特に活躍とはいえないエピソードも多いことです。
喧嘩とか。
乱闘とか。
遊女とのロマンスとか。
んなもんどうでもエエわ~と斬り捨ててしまうと、彼等の儚さという魅力が失われてしまうことも確か。
そんなわけで、斎藤のやらかしたことも見ておきましょう。
文久3年(1863年)夏。
新選組隊士は大坂で、六角棒を抱えた力士と乱闘事件を起こしました。
この事件、力士との乱闘であり、そのキッカケは斎藤が腹痛を訴えて乗船を停止させたからです。
よほど腹痛がひどかったのでしょう。
斎藤本人は参加しておりません。
元治元年(1864年)の「池田屋事件」にも現場へ駆けつけました。
ただし、あとから到着した土方隊の一人です。
そのため近藤勇や永倉新八ほどの活躍は確認できません。
それでも合計17両の褒賞を得ています。
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新選組最強三剣士の一人、しかしその流派は謎
なぜ斎藤一は、新選組に入隊し、そこで頭角をあらわすことが出来たのか。
ごく当たり前ながら、剣術の実力が抜きん出ていたからでしょう。
新選組最強の剣士は、年齢が若く、ともかく強かったこの三名とされております。
永倉新八
沖田総司
斎藤一
彼らは剣術師範として、隊士を指導しております。
新選組・阿部十郎の証言によれば、剣の腕前は、僅差で
【永倉>沖田>斎藤】
になるとか。
斎藤は、成人男性の平均身長が158センチ程度であった当時、170センチ前後であったと推察されております。
大柄です。
この点だけでも、有利であるといえます。
二十歳前に代稽古していたのですから、当然ながら強いのでしょう。
しかし、実は斎藤がどんな剣術を使ったのか。
これが永倉あたりと比較しますと、実はよくわかっておりません。
前述の阿部十郎によれば、この最強三名のうち、永倉だけが別流派だったということになります。
永倉は確かに新選組幹部としては毛色が違い、攻撃箇所を叫びながら攻撃する癖がありました。
実践的で騙し討ちも辞さない【天然理心流】とは異なる、道場剣術の【神道無念流】を会得していた彼らしさと言えるでしょう。
斎藤が沖田総司と同じ流派だとすれば、天然理心流ということになります。
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しかしこれも、斎藤が試衛館に出入りしていたのか不明であるため、ハッキリとしないのです。
諸説ある斎藤の流派をマトメると、以下の通りです。
・一刀流(山口一刀流)
・天然理心流
・無外流
フィクションでの斎藤といえば『るろうに剣心』の牙突がありますが、何の流派なのか不明です。
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