幕末の将軍といえば、徳川慶喜(一橋慶喜)の印象が強いものです。
水戸藩・徳川斉昭を父に持ち、一橋家に養子入り。
島津斉彬(と西郷隆盛)や、松平春嶽(と橋本左内)に擁立されて第14代将軍を……と、目指したところで井伊直弼たちの一派に負け、【安政の大獄】で謹慎処分となってしまいました。
このとき後継者争いに勝利し、第14代将軍になったのが徳川家茂です。
慶応2年(1866年)7月20日に享年21という若さで亡くなったため、存在感は薄い人物かもしれませんが、かといって短命かつ無能と切り捨ててよい人物でもない。
井伊直弼らに支えられたのも相応の実力があったからで、勝海舟もその才を惜しんでいたとされます。
徳川家茂の儚い一生、本記事で振り返ってみましょう。

徳川家茂/wikipediaより引用
心優しく聡明な少年だった徳川慶福(のちの家茂)
徳川家茂は弘化3年(1846年)、第11代和歌山藩主・徳川斉順(なりより)の長子として生まれました。
母は側室で、若山藩士・松平六郎右衛門晋の娘・みさ(実成院)。幼名は菊千代といいます。
生まれた翌年には、第12代和歌山藩主・斉彊(なりかつ)の養子となりました。
嘉永2年(1849年)、養父が没したため藩主に就任。
それから2年後の嘉永4年(1851年)に元服すると、将軍・徳川家慶より偏諱を与えられて徳川慶福と改名します。

徳川家慶/wikipediaより引用
こうしてみてくると、早く大人にならねばならなかった大変な人物と思えます。
しかし、優しい養育係に育てられた家茂は、幸運な少年期を過ごしているのです。
勝海舟は家茂を思い出すと涙ぐんでしまった
家茂の養育係は、旗本・古屋豊展の娘であった波江という老女(役職名)でした。
波江は美しく聡明、慈愛に満ちた女性です。
家茂は動物好きで、庭のアヒルや小鳥を好みました。慶福に改名する儀式の最中にぐずりだしたことがありましたが、鳥を見ただけで泣きやんだとか。
あるとき、家茂は鶴を屋内にあげようとしてダダをこねました。
やがて悪いことをしたと悟ると、波江に謝ったそうです。
家茂は、乗馬を好み、剣術や歌や文学は好まなかったとされています。
が、実際にはそうではありません。
徳川一門の大名にふさわしい、即興で歌を詠む才能の持ち主でした。
儒教の経典もよく読み、教養も身につけていました。
勝海舟も「文武に長けた人物」と評価しています。勝は慶喜に対しては冷淡であるものの、家茂のことは心の底から主君として慕っていました。
勝は己が心血注いだ幕府海軍を生かそうと奮闘しておりました。
家茂にその重要性を説くと、彼は理解し、勝に一任すると断言したのです。さらに将軍上洛のために軍艦を用いることにも同意したのです。勝はどれほど感激したことでしょうか。
明治になってから、勝は家茂のことを振り返るとき、涙ぐんでいたと伝えられています。
「家斉公のような時代であられたら……」
そう嘆いていたともいいます。あれほど優しい公方様が、なぜ動乱の時代を生きねばならなかったのか。そんな悲しみが込められています。

勝海舟/wikipediaより引用
聡明で、責任感が強い。悪いことをしたらきちんと謝罪する。しかも優しく温厚、動物が好き。
のちの和宮とのエピソードからしても、育ちも性格もよい貴公子であったことがわかります。
性格面でいえば、これほどの好人物もなかなかいないと言えるのではないでしょうか。
将軍継嗣問題に引きずり込まれ
聡明で心優しい、徳川一門。
となれば、家茂に白羽の矢が立てられても何らフシギはありません。
そうです。第13代将軍・徳川家定の後継者問題です。

徳川家定/wikipediaより引用
家定は病弱で、島津家から正室・篤姫を迎えたとはいえ、健康で立派に成長する跡継ぎが得られるとは限りません。
そこで、徳川一門の誰かを養子にする必要がありました。
各種史料を引用してみましょう(以下、飛ばして頂いても問題ありません)。
『日本大百科全書』より
松平慶永は島津斉彬ら有志大名と図り、海防掛の旗本岩瀬忠震らの支持のもと、年長で英明な慶喜をあげて幕府の基礎を固め、そのもとに雄藩明君を結集した統一体制を樹立して内外多難の問題を解決せんと図り、老中阿部正弘の暗黙の了解を得ていた(一橋派)。一方、譜代大名の筆頭井伊直弼は、将軍相続に第三者が介入することは秩序の破綻を招くとの考えのもとに、血統近く家定自身も支持する慶福こそふさわしいとして一橋派に激しく対抗した(南紀派)。『世界大百科事典』
越前藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬らが,この一橋慶喜を擁立する運動を起こした。一橋派には幕政改革を求める雄藩主や開明派の幕臣が連なり,幕府を欧米型の近代国家の方向へ脱皮させようともくろんだ。これに対し家定は,自分の後継ぎに紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を望んだ。幕府をこれまでどおりに運営すればいいと考える譜代大名の多くが紀州派に集まった。Wikipedia
これを憂慮した島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭ら有力な大名は、大事に対応できる将軍を擁立すべきであると考えて斉昭の実子である一橋慶喜擁立に動き、老中阿部正弘もこれに加担した。これに対して保守的な譜代大名や大奥は、家定に血筋が近い従弟の紀伊藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立しようとした。前者を一橋派、後者を南紀派と呼んだ。
こうした記述を読むと、
「せっかく一橋派が聡明な慶喜を推したのに、凡愚な家茂を推した南紀派が邪魔だよね。南紀派は保身をはかりたかっただけでしょ」
という印象を受けませんか?

徳川慶喜/wikipediaより引用
家茂は慶喜より愚か――情報操作とは言わないまでも、そういったイメージにされているのは否定しきれないはず。
しかし考えてもみてください。
慶喜と家茂には、結構な年齢差があります。
いくら聡明といえども、当時の家茂はまだ中学生くらい。その年齢ではこの多難な政局では心許ないと思われても仕方ありません。
将軍継嗣問題についての記述を読まれるときは、ちょっと注意した方がよろしいかと思います。
なぜなら一橋派は、のちに倒幕派に鞍替えし、歴史の勝者となった勢力が含まれているからです。
彼ら勝者によるバイアスがかかっていることが多々ある――そこを考慮した方がよいでしょう。
もうひとつ、重要な点も指摘されています。
我が子慶喜を掲げ、一橋派を率いた徳川斉昭は、「言路洞開」(げんろとうかい)路線を主張し、阿部正弘もこれに賛同して政策を進めました。
これは従来、幕閣が進めていた政策に、外様大名や朝廷まで意見を反映できるよう転換するものです。一橋派への支持とは、慶喜の力量だけではなく、この路線への転換を促すものでもありました。
明治になってから、幕臣であった福地桜痴は『幕府衰亡論』でこの路線が幕府崩壊へ繋がったと振り返っています。
そもそも一橋派の斉昭が危険すぎた
一方、南紀派は、後に井伊直弼が【安政の大獄】という粛清をしてしまったため、どうしても悪印象を抱かれてしまいます。

井伊直弼/wikipediaより引用
しかし、冷静に考えると、どっちもどっち……といいますか、一橋派も完璧ではありません。
むしろ、コトの本質は、慶喜や家茂の人格や資質問題というよりも
【一橋派の徳川斉昭がいろいろやらかしすぎている】
という点ではないでしょうか。
折角ですので、一橋派・斉昭のやらかし例をいくつか挙げておきますね。
徳川斉昭とは?

徳川斉昭/wikipediaより引用
◆下半身がゆるすぎて大奥から嫌われまくる。家定の生母・本寿院のコメント「斉昭の息子を家定の養子にするくらいなら、私は自殺する」
◆御三家なのにイケイケの攘夷派で、絶対に実現できないような攘夷計画を主張し、幕政を混乱させる
◆老中・堀田正睦への逆恨みから、彼の「日米和親条約勅許獲得工作」を妨害
◆姻戚関係にある公卿・鷹司政通ら公卿に工作を持ちかけ、幕府の働きかけをさんざん妨害
◆【戊午の密勅】のフィクサーとされる(そうでなくとも、水戸藩に下賜されている以上関与なしとはいえない)
◆藤田東湖と強引な改革を行い、水戸藩が内部分裂する原因を作る
ご覧の始末です。
井伊直弼、一橋派に大鉈を振るう
水戸藩を中心に燃え上がった【尊皇攘夷】思想は、いろいろとやっかいな結果を引き起こしました。
幕府としては、足並みをそろえて開国して、富国強兵に進みたい。
しかし、ここで天皇や外様大名を背後に並べて、自分の意見を強引に通そうとしてきたのが、一橋派だったわけです。
幕府の強硬派・井伊直弼が最終的にキレたのは、安政5年(1858年)の【戊午の密勅】です。
これは孝明天皇が、幕府をないがしろにして、水戸藩に勅書を下賜した事件でした。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用
「国家存亡の危機に、御三家の水戸が何をしておるのか!」
そう怒髪衝天したのが井伊直弼です。
幕府の権威に泥を塗り、天皇の権威を背景に好き勝手やらかそうというのは、全くもって許しがたいことです。
いくら斉昭が誤魔化そうとしても、密勅が水戸藩に下された以上、弁解も通りません。なお、この密勅の写しは複数あります。
ちょっと家茂から話が外れましたが、この「将軍継嗣問題」については、一橋派の無茶ぶりで自滅という一面もあるわけです。
幕末は、人々が国のために尽くして維新を成し遂げたとされています。
ただし、この問題でこの二派が揉めず、「尊皇攘夷」という回り道をせず、一丸となって開国と富国強兵という正解にたどりついていれば、流れずに済んだ血もあったのではないでしょうか。
責任感あふれる少年将軍・家茂
将軍継嗣問題は南紀派の勝利に終わり、安政5年(1858年)に家茂は第14代将軍となりました。
後見人は、田安徳川家の第5代および8代当主・徳川慶頼。
松平春嶽の異母弟です。
家茂というと、ひ弱な印象がありますが、元幕臣で洋画家・川村清雄による肖像画を見れば、印象が変わると思います。
この絵は、勝海舟も「いい出来」と太鼓判を押してます。
さらには、いざ将軍に就任すると責任感もにじんできたようです。
「どことなく徳川吉宗の再来のようで、将来頼もしそうだと皆で噂しております」
そんな意見も、側近から出てきました。
本人も意識していたようで、吉宗を模した具足を作らせています。
ただし、どんなに頑張って背伸びしてみても、現在でいうならば中学生くらいの年齢です。時にはわがままも言いました。
動物が好きだからと鈴虫を献上されると……「気に入った! 虫篭を200用意せよ」と命じて周囲の者が困り果てたとか。
鬼の首を取ったようように、一橋派からは「周囲の連中はまるで、わがままな小僧のご機嫌取りをしているみたいだ」と笑いものにしたとか。
とはいえ、彼らの掲げていた慶喜こそ将器に欠けていたことは、のちに証明されることになります。それを噛み締めることになるのは、幕末に慶喜に振り回され、明治まで生き延びた松平春嶽あたりのことではありますが。
ただ、そうしたわがままも将軍として過ごすうちに落ち着いてきました。
あるとき、家茂は書道の師範の頭から水を掛けてふざけました。
側近らは、将軍らしからぬふるまいにあきれていましたが、実は年老いた師範が失禁したことを察知し、わざと水を掛けてかばっていたと後でわかったのです。
もしも失禁をとがめられたら、無礼であるとして師範は処罰を免れなかったことでしょう。家茂の機転で、彼は救われたのです。
幼く、頼りないところはあるものの、将軍として気丈に振る舞っていた――それが将軍・家茂でした。
和宮との結婚生活
そんな家茂に、縁談が持ち上がりました。
【幕府と朝廷を婚姻によって結びつけること】
そんな背景を持った縁談は、徳川家代々の将軍の中でも、最も重大深刻な論争を巻き起こします。
発案者は井伊直弼とされ、幕府だけではなく、近衛忠煕や中山忠能、岩倉具視らの公家も推し進めるべく参加。
もちろんそこに当事者の意見は入り込めません。
文久2年(1862年)、和宮は泣く泣く、家茂の元へと嫁ぎます。

和宮親子内親王/wikipediaより引用
そこで待ち受けていた家茂は、貴公子然とした心優しい青年でした。
和宮は大奥のしきたりになじめず、辛い思いをすることも多かったのですが、夫である家茂はいつでも彼女の味方でした。
政略結婚とはいえ、夫婦の間には深い情愛が存在したのでした。
将軍の上洛
和宮との婚礼の年、徳川慶頼が後見の座を退き、親政が成立します。
この年、薩摩藩の「国父」こと島津久光が動きました。

島津久光/wikipediaより引用
久光は朝廷の意思を携えて江戸に入り、慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に任命することを要求。
幕府は呑まざるを得ませんでした。
以来、後見職である慶喜の陰に隠れがちになります。
文久3年(1863年)、徳川家茂は上洛しました。
この将軍上洛には、のちの新選組となる近藤勇ら天然理心流の門人、清河八郎、山岡鉄舟、高橋泥舟、伊庭八郎らが付き従っています。

徳川家茂の上洛を描いた『東海道名所風景 金谷』/出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」
将軍上洛は、実に230年ぶりのこと。京都で家茂は、公武合体の推進を図るはずでした。孝明天皇は素直で心優しいこの義弟を気に入り、信頼を寄せるようになりました。
これにはよい面と悪い面があったともいえます。家茂は孝明天皇の意に従うしかなくなったのです。
しかし、過激な尊攘運動の攻勢にさらされてしまいます。
家茂は賀茂社行幸に供奉。このとき、高杉晋作が、「いよっ! 征夷大将軍」と声を掛けた……と伝わりますが、これは後世の創作です。
賀茂社行幸で家茂は、雨に打たれながら孝明天皇を待つことになりました。そのためか、体調を崩してしまったようです。
石清水行幸は、病だということで断りました。
しかし、そうあっさり通るはずもありません。
「本気で攘夷を実行する気はおありか?」
こう、迫られやむなく「5月15日までには攘夷を実行する」と返答してしまいます。
家茂は、6月には江戸に戻りました。
帰り道、家茂は幕臣・勝海舟から海軍の必要性を聞きます。
家茂からすすんで話を聞いたとはいえ、将軍に直接意見する勝に周囲は反発しました。しかし、家茂は素直に彼の意見を聞き入れたのです。
勝はその即断即決に感心しました。これぞ名君だ!

勝海舟/wikipediaより引用
苦悩の中で夭折
元治元年(1864年)、徳川家茂は再上洛しました。
公武合体を実現しようとしたのです。
しかし、力及ばず、江戸へ。
当時の京都はますます危険きわまりない街へと変貌していました。
夏に【禁門の変(蛤御門の変)】が起こると、長州藩を討伐せよという声があがります。
そして【第一次長州征討】を開始。
このときは、長州藩側が家老らに切腹させ、恭順の意を示し、終わりました。
元治2年(1865年)、再度、長州征討が行われました(「第二次長州征討」)。
これが幕府軍の敗北に終わってしまうのです。
高杉晋作の活躍が華々しく語られるわけですが、そもそも責任者である薩摩藩の西郷隆盛に、やる気がありません。
おまけにイギリスはじめ諸国の内政干渉により、幕府の切り札である海軍が進軍できない状態にされていたのでした。

西郷隆盛/wikipediaより引用
このころから西郷は、倒幕を視野に入れて動き始めていたのです。
そんな大変な状況の中、大坂城内で家茂は病死してしまいます。
享年21。
あまりに若すぎる死でした。この死を知った勝海舟は、これで幕府は終わったと記しています。
死後、和宮のもとへ西陣織が届けられ……
死因は複合的で、喉と胃腸の不調、脚気に苦しんでいました。
過度なストレスにもさらされていたことでしょう。
家茂の死後、和宮のもとにあるものが届きました。
彼女が欲しがっていた西陣織の着物です。
「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
せっかく美しい着物が届いても、見せるあなたがいないのに、一体何の意味があるというのでしょう
あまりに哀しい、残された妻の心情でした。
★
夭折してしまったため印象が薄く、将軍継嗣問題のこともあってか、慶喜よりも暗愚とみられがちな家茂。
しかし実際は、勝海舟の進言を素直に受け入れる、聡明さと度量の持ち主でした。
勝は「長生きしたら歴史に名君として名を残せただろうに」と嘆き、その名を口にするだけで涙ぐんでいた……と伝わります。
激動の時代に翻弄された、青年将軍の儚い生涯でした。
なお、これは勝海舟に限ったことではありません。
大半の幕臣にとっても、江戸っ子にとっても、「最後の公方様」とは家茂のことです。彼の上洛を江戸っ子たちは見守り、彼が見たであろう景色が浮世絵『御上洛東海道』として描かれ、絵草紙屋に並んだのでした。
慶喜は京都で将軍となり、勝手に政権を放り出して帰ってきたよくわからない存在です。
江戸っ子から狂歌でさんざんに皮肉られ、“豚を食う一橋”を意味する「豚一」、コロコロと見解を変えることから「二心殿」と称されることすらありました。
明治になってからも東京の人々は、慶喜のことは「一橋さん」として認識していたと伝えられています。
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【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
『国史大辞典』






