幕末・維新

幕末の皇室を救った田中河内介~明治天皇の出生費用を請負い、薩摩に殺される

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田中河内介
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これも仕方ないのです。当時の朝廷は窮乏しており、潤沢な財産はありません。

田中は但馬の実家から金を借りてまで、費用を捻出します。給料をもらえるどころか、自分の金を出してまでナントカしたのですから、これは大変なことでした。

こうして苦労の末に誕生した祐宮を、田中は熱心に教育しました。

時に背負い『孝経』をくちずさみながら、その成長を見守ったのです。

田中は祐宮御用掛として『類聚国史』の校訂にも携わっています。

そして安政3年(1856年)に宮中に移されるまで、田中は祐宮を大切に育てました。

祐宮は即位して明治天皇となったのちにも、この優しく世話をしてくれた田中のことを、生涯忘れませんでした。

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勤王家として活躍

嘉永6年(1852年)の黒船来航以降、時代は大きく動いておりました。

京都では、尊皇攘夷活動家が多数活動。そんな中、田中は旧主にあたる中山忠能に様々な献策を行います。

しかし、田中と主君の中山忠能は、次第に意見が対立し始めます。

忠能は、和宮の将軍家降嫁による公武合体策を支持しておりましたが、田中はそのことを容認できなかったのです。

文久元年(1861年)、田中は西遊し、久坂玄瑞、轟武兵衛、真木和泉(保臣)らと親交を深めます。

そして京都に戻ると『安国論』を執筆しました。幕府はこの著作を危険視し、田中は監視を受けるようになります。

田中はついに中山家を致仕。
彼は自宅を「臥竜窟」と名付け、自ら「臥竜」と号しました。

と、同時に、このころから交際範囲も広がります。

国学者の矢野玄道、副島種臣と交流し、西郷隆盛平野国臣、清河八郎、宮部鼎蔵らと親交を深めたのです。

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幕府の監視が強まり、京都が騒然とする中、田中は長子・瑳磨介とともに薩摩藩邸に身を寄せるようになりました。薩摩藩士の柴山愛次郎、橋口壮介らとも、田中父子は親しくなりました。

中山忠能とは仲違いしてしまった田中ですが、基本的には人の言葉をよく聞き、背かない、誠実な性格だったのです。

こうした同志と語り合う中、京都の薩摩藩士周辺は、過激な思想に走りつつありました。

田中父子も、その中にいました。

そして文久2年(1862年)。
薩摩の「国父」島津久光がついに動きました。兵を率いて上洛したのです。

時は今、倒幕すべきだ――。

尊皇攘夷派の志士たちはにわかに色めき立ちましたが、肝心の久光と朝廷にそんな気はありません。

有馬新七ら、薩摩の若手を中心とした過激派たち。過激な計画を立てている連中を、断固として止める。それが彼らの出した答えでした。

 

寺田屋での事件に巻き込まれ……

文久2年(1862年)4月23日、夜。

久光の命を受けた手練れの鎮撫使8名は寺田屋に踏み込みました。

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そして、田中父子も捕縛します。捕縛された薩摩藩士は処分を受け、他藩の者はそれぞれの藩に引き渡されました。

問題は、田中一派と、帰国を拒んだ者です。

・田中河内介
・田中瑳磨介
・青木頼母(浪人)
・海賀宮門(秋月藩士)
・田中河内介の甥・千葉郁太郎
・千葉郁太郎の義弟・中村主計

この6名は“保護”という名の「処刑」処分に決まってしまいます。

二艘の船に分乗した6名は、大阪から出港しました。

「兄の仇!」

船上で、橋口吉之丞がそう叫ぶと、瑳磨介の腹を深く刺しました。

呆然とした瑳磨介の腹から、臓がこぼれおちます。

彼の兄で、田中と親しかった橋口壮介は、寺田屋で死亡。

弟からすれば、
「おはんが兄を誘ったから、死んでしもた!」
ということなのでしょう……。

瑳磨介の享年は17でした。

我が子が惨殺される様子を見て、田中は己の死を悟りました。

「さあ、早く殺せ」

そう言うと、胸をはだけ、辞世を詠みます。

ながらへて かわらぬ月を 見るよりも 死してはらわん 世々のうき雲

このとき、久光の密命により殺害を命じられていたのは、柴山龍五郎景綱です。柴山は田中と親しくしており、寺田屋騒動にも居合わせていました。

くじ引きで、この苦渋の役目を引き受けてしまったのです。

「おいには斬れんごっ!」

さしもの薩摩隼人、主君の命令であっても、柴山は苦悩して刀を抜けませんでした。

やむなく、柴山の弟である是枝万助が手を下し、田中は斬殺されました。
享年48。

青木も同じ船内で殺害。3人の遺体は、船から海に投げ捨てられます。

田中父子の死体は服をはぎとられ、腕を縛り上げられた状態で発見されます。父は覚悟しきった表情、子は無念のあまり歯を食いしばった形相で、小豆島に流れ着きました。

青木の死体は、ついに発見されませんでした。

残り3名は、細島港郊外の古島という場所で、大木に縛り付けたうえで斬殺されました。
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