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【原市之進も死なせてしまった慶喜の政治改革】
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慶喜の失敗
一方、息子の徳川慶喜にも多くの失敗がありました。
それが以下の通り。
・【参預会議】崩壊
【将軍継嗣問題】で失脚していた薩摩と福井の力を借り、合議制の政治を目指した。それが先見の明がある【参預会議】です。
それなのに、慶喜は孝明天皇の信頼を受けていた薩摩・島津久光の追い落としを画策。
泥酔の上に彼らを侮辱し【参預会議】崩壊へ導くという愚行をやらかします。
・孝明天皇ありきの【一会桑政権】
島津久光を追い出した慶喜は、孝明天皇の信任があつい会津藩主・松平容保と手を組むことにします。
容保とその弟であり桑名藩主の松平定敬は、政治力はあまりなく、御しやすかったのです。
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・天狗党切り捨て
水戸藩の天狗党を、自己保身のため切り捨てています。
結果、慶喜への信頼性は下落しました。
大久保利通はこの時点で「幕府は滅びる」と書き残しています。
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・【薩長同盟】
慶喜に政権から追いやられた島津久光の薩摩藩は、窮地にあった長州藩と手を組み、勢力拡大を目指します。
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・孝明天皇に押し切られて【長州征討】をするも、失敗
【禁門の変】を許せなかった孝明天皇は、幕府に対して強く【長州征討】を迫ります。
孝明天皇を利用して政治を動かしていた慶喜ですが、いざとなると出陣すらしません。
一方で薩摩と手を組んでいた長州は、電撃的に幕府軍を蹴散らしてしまいます。
福沢諭吉が苦々しく「あのとき何をしてでも長州を潰していれば!」と悔しがった引き返せない地点がここにあります。
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慶喜の不運
もちろん親子の失敗だけではありません。
天運に見放されたかのような不運なこともありました。
・家茂の夭折
【長州征討】の最中、家茂は若くして病死してしまいます。
家茂は慶喜の身勝手さ、朝廷からの干渉に疲れ果て、江戸に戻ろうとしたことすらありました。
暗殺説はないとはいえ、ストレスが寿命を縮めた部分はあったかもしれません。
なお、家茂の妻であった和宮は、あまりに優柔不断な慶喜を嫌っていました。
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・孝明天皇崩御
孝明天皇の崩御はあまりにタイミングがよく、かつ不審な点があり、暗殺説もあります。
その死については今後も明かされることはないでしょう。
確かであるのは、孝明天皇の信任ありきだった慶喜が詰んでしまったということです。
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いかがでしょうか?
ここまでたどってきて、今まで見てきたもう一度慶喜の弁明なり、擁護を振り返ってみてください。
信じられるものでしょうか?
慶喜は諦めてなどいません。
彼なりに幕政の立て直しに尽力していたのです。
ナポレオン3世のようにやればよい
幕府はフランスの支援を受けておりました。
そしてロッシュは、慶喜にナポレオン3世を目指すよう助言したのです。
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幕府を立て直し、国力を蓄え、長州藩を潰す――それそのものはよいとして、肝心の中身は?
・六局制採用:陸軍・海軍・外務・会計(貿易と物産)・内務・司法の六部局を採用し、諸侯あるいは賢い旗本幕臣から選ぶ
おおよそ実現されたものの、幕府内からの反発はあって、難航しました。
・軍役令:軍事の増強と銃隊の組織化をすすめ、近代戦に合わせた銃隊組織を作る。
こうした改革はおおよそうまくいきました。
幕府軍はフランスから提供されたシャスポー銃を採用し、幕末最強装備として活躍するのです。
『青天を衝け』においても、商才あふれる反幕府の諸藩が高性能の銃を買ったと説明されていますが、正確とは言えません。
戊辰戦争で東軍の藩が、装備面で西軍を圧倒していた局面はしばしばあります。
北越戦争の長岡藩や庄内藩が有名ですね。
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【鳥羽・伏見の戦い】の敗因を装備の性能のみに求めることには、無理があるのです。
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