佐賀の乱

江藤新平/wikipediaより引用

幕末・維新

佐賀の乱はなぜ起き どう鎮圧された? 最後は江藤と島の首が晒された

明治七年(1874年)2月1日は、佐賀の乱が勃発した日です。

明治初期に頻発した不平士族の反乱のひとつ――といえばそうなのですが、この乱についてはもう一つポイントがあります。

征韓論に対する賛成・反対」です。

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明治初期の士族反乱マトメから

まず征韓論を中心に、明治初期のできごとを時系列順にまとめると、こんな感じになります。

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明治元年(1868年)戊辰戦争開始・明治へ改元

明治二年(1869年)戊辰戦争終結・版籍奉還

明治四年(1871年)廃藩置県岩倉使節団出発

明治六年(1873年)徴兵令・岩倉使節団帰国・明治六年の政変

明治七年(1874年)佐賀の乱

明治十年(1877年)西南戦争

最初にザックリと「佐賀の乱は明治六年の政変と西南戦争の間にあった」ということを押さえていただければ。

さて、ことのキッカケとも言える征韓論は、岩倉使節団が欧米に行っている間、日本国内での政治的対立を生んでおりました。

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「征」という字がつくことから、「征韓論賛成派は、すぐに戦争をしようとした物騒な人たち」というイメージが先立ちますが、西郷隆盛などは「朝鮮に開国を勧めよう」と考えており、そうとも限りません。

一方、西郷の友人でもあった大久保利通をはじめ、その他の反対派は「今は朝鮮に構うより、欧米やロシアとの関係について熟考して動くべきだ」としていました。

ですので、厳密にいうなら「朝鮮との関係を優先するか、後回しにするか」という議論だった、とするほうが正しいような気もします。

 

征韓論に敗れた数百名が下野してしまい

結果として「朝鮮への積極的な関わりは時期尚早」ということになりました。

同時に賛成派の600人ほどが政界を離れて下野することになり、これが【明治六年の政変】と呼ばれます。

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しかし、役人がこんなに一気にいなくなっては、征韓論反対派も困ります。

ただでさえ維新から日も浅く、人手はいくらいても足りないのです。

そのため大隈重信らは「今度のことでは対立したけど、いずれまた政治に携わってもらうこともあるだろうから、地元に帰るなんてことはしないように。今帰ったら、大久保たちの思う壺だぞ」と征韓論賛成派を慰留しました。

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しかし、頭に血が上ってしまっている賛成派の多くは、慰留も聞かず地元へ。

その中に、佐賀の乱で中心となる江藤新平がおりました。

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【維新の十傑】にも数えられ、明治になってからは民法制定などに尽力した人です。

当然、影響力も強い。

彼が帰郷した頃、佐賀では征韓論賛成派(以下「征韓党」)と、「新政府なんてくそくらえ! 封建制のほうが日本には合っている!」とする「憂国党」という派閥ができていました。

征韓党が同じ考えを持つ江藤を旗頭にするのも、ごく自然な流れです。

少しずつ情勢がキナ臭くなる中、憂国党がちょっとしたトラブルで暴力沙汰を起こしてしまい、明治政府から軍へ鎮圧命令が出されます。

これが佐賀の乱の端緒となりました。

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