幕末のロシア南下政策

ゴールデンカムイ 幕末・維新

ロシアの南下政策には幕府も警戒~蝦夷地=北海道は幕末から危機に面していた

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ロシア南下政策の歴史
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幕末の南樺太警備

幕末期、幕府は南樺太の警備も行っておりました。

彼らの認識では、南樺太を「北蝦夷地」とみなしていたのです。

例えば安政元年(1854年)。

秋田藩が樺太警備を命じられました。

安政3年(1856年)から、シラヌシ(白主/のちの好仁村、現シェブニノ)とクシュンコタンに、夏期のみ警備をつけることになったのです。

会津藩は、京都守護職となったため途中で抜けるものの、さらには仙台藩・鶴岡藩(庄内藩)も加わり、幕府は南樺太の警備を行いました。

南樺太にも、こうした奥羽諸藩の陣屋が残されたのです。

 


明治維新後に一転して

ロシアへの備えとして不十分とは言えるものの、まったくの無警戒でもなかった――それが幕府の蝦夷地政策です。

それがノーガードとなってしまうのは、戊辰戦争が原因。

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この戦乱期、会津藩と庄内藩は蝦夷地をプロイセンに割譲することを条件に、支援を取り付けようとしました。

「あまりに酷い外交政策だ」と非難される行為ですが、そもそも蝦夷地に警備空白の状況を作ってしまったのは、戊辰戦争を仕掛けた側といえるのではないでしょうか。

争いの中、蝦夷地は、最後まで屈しなかった幕臣たちが希望をつなぐ場所となりました。

彼らは松前藩を蹴散らし、幕臣として最後の望みを繋いだのです。

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そして戦争が終結し、明治維新となってから、北海道と名を変えた蝦夷地と、東北出身者の関係は別の縁でつながれます。

東北諸藩の人々は、蝦夷地警備の経験もあることだからと、屯田兵として北海道開拓に従事させられます。

そもそも戦争敗者として、他に行き場もありません。

過酷な北の大地。

現代のように整備のされてない、荒涼とした野原。

条件は日本で最悪と言っていいでしょう。

彼らに蝦夷地の滞在経験があったとかそういうことではなく、戊辰戦争の敗者ゆえに開拓で苦労するのは自業自得――新政府側にはそんな考え方があったと目されます。

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開拓と流刑をセットにした一石二鳥の待遇=屯田兵。

大人気作品『ゴールデンカムイ』には、中央への不満を露骨に漏らし、その冷淡さを怒る人物が出てきます。

『ゴールデンカムイ』単行本10巻収録第97話より土方のセリフ

「旭川の発展をもたらした『上川道路』

札幌と旭川を結ぶ道路脇には…

おびただしい死体が埋まっている

ヒグマと狼に怯えながら寒さと飢えに苦しみ

死んでいった囚人たちだ」

「樺戸集監に収容されたのは

戊辰戦争や西南戦争で負けた国事犯と呼ばれる武士たちだ

勝てば官軍

負ければ賊軍

戦争というのは負けてはいかんのだ」

『ゴールデンカムイ』単行本14巻収録第131話より鶴見中尉のセリフ

「蝗害も暴動も 中央の人間がこんな地の果てまで確かめに来ることはまず無い 中央なんぞいつだって事後報告で充分だ」

北海道の歴史があまり語られないため、

『この人たち、何でこんなに怒っているの?』

と疑問を感じる方がおられるかもしれません。

しかしそこには、幕末から繋がる歴史があったのです。

江戸幕府も、異国船の脅威に対して重い腰を本格的にあげたのは、江戸に近い浦賀に黒船がやって来てから。

明治政府は、北海道開拓を東北出身者中心に実質ぶん投げていた。

中央はあまりに冷たいのではないか?

そんな無関心への怒りが、劇中の彼らの胸中にあったとしても無理のないことではないでしょうか。

 


今では立派な観光シンボルに

そんな五稜郭は、時代の荒波を潜り抜け、今では函館市民の憩いの場となりました。

函館市民をワクワクさせる五稜郭の歴史は長いもの。かつて北海道名物として「函館氷」がありました。

幕末の日本人は、居留地の外国人が氷を求めることに驚きました。

江戸時代の氷といえば、将軍様や殿様が山から取り寄せ食べるもの。それを外国人は使いこなし、アイスクリームなんてものまで食べているのです。

「これからの時代、氷を売れば、大儲けじゃねえか!」

そう思いついた中川嘉兵衛という商人がおりました。輸入頼りの氷を国内で産出販売すればビジネスチャンスだと考えたのです。

そして目をつけたのが、五稜郭の堀でした。

幕末から明治にかけて、【箱館戦争】へ向かう中、氷を求めた連中もウロウロしていたのですから、興味深いものがあります。ドラマにしたら面白そうです。

こうして売られた「函館氷」は北海道名物になりまして、銀座には「函館屋」という店までできました。

モダンな店に、エプロン姿の女給がいて、アイスクリームを提供する――そんな浪漫あふれる時代の需要に、氷は欠かせません。函館氷はブームに乗り、北海道名産品代表となったのでした。

そうはいっても、気になることは衛生面です。次第に人造氷ができるようになると、函館氷は役割を終えます。今では函館銘菓にその名を残しているのでした。

そして昭和ともなると、高度経済成長期が訪れます。

昭和30年代から40年代にかけて、北海道旅行ブームが到来。

五稜郭にはタワーができます。五稜郭最大の特徴である形を見るために、タワーは最適。城郭跡にタワーがあるなんて、五稜郭の大きな個性といえます。

展望台には土方歳三のブロンズ像が飾られ、函館の街を見守っているようです。立派な観光資源として、修学旅行生はじめ観光客が訪れる定番スポットとして、五稜郭は存在しています。

幕末の動乱から、観光立国のシンボルとして――日本が歩んできた150年が、五稜郭には凝縮されています。

その歩みを知る書籍として、濱口裕介氏『「星の城」が見た150年: 誰も知らない五稜郭』(→amazon)は必読の一冊です。

北海道の歴史を凝縮したおもしろさがぎっしりと詰まった一冊です。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
濱口裕介『「星の城」が見た150年: 誰も知らない五稜郭』(→amazon
濱口裕介/横島公司『松前藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon
戸祭由美夫『絵図にみる幕末の北辺防備: 五稜郭と城郭・陣屋・台場』(→amazon
一坂太郎『幕末維新の城 権威の象徴か、実戦の要塞か (中公新書)』(→amazon
野口信一『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon

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