こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【池田屋事件】
をクリックお願いします。
他の新選組メンバーは、池田屋から飛び出してきた逃亡者を捕縛する役目でした。
突入した四名のうち、最初に敵を斬ったのが沖田でした。
しかし、猛暑による疲労から意識を失って戦線離脱。
慌てて逃げる敵を近藤・永倉・藤堂の3人で襲いかかっていきます。
天井にぶら下がっていた「笠行灯」の光で、相手を見失わないで済んだ――という生々しい記録も残っています。
沖田総司は新選組の最強剣士だったのか~享年27で夭折した一番隊組長の生涯
続きを見る
永倉新八こそが新選組最強か?最後は近藤と割れた77年の生涯まとめ
続きを見る
お好きな項目に飛べる目次
吉田稔麿も犠牲者に……
かくして新選組は攘夷派を徹底的に追い詰めました。
応戦して斬殺された者はもちろん、池田屋から逃げたはいいものの追いつかれた者、即死はしなかったものの後日このときの傷が元で死んだ者、捕縛されて後々処刑された者まで、多くの攘夷志士が命を落としました。
特に長州藩にとっては高杉晋作や久坂玄瑞と並び称される吉田稔麿(としまろ)を失ったのは痛手だったでしょう。
松下村塾で一番優秀だった吉田稔麿~知られざる俊英は池田屋事件で散ったのか
続きを見る
事件の終了時点では7名が斬殺され、23名が捕縛となりました。
当初は「この場で全員ブッコロ!」の予定だったそうですが、後から新選組の援軍が来て余裕ができたため「一応生かして捕まえとけ」と変更されたのだとか。
前者のままだったらもっと死人が出てたでしょう。
ということで、佐幕派にとっては「けしからん志士どもを成敗した」という事件なのですが……。
当然、被害者側から見れば「新選組憎し」としかなりませんよね。
また、現場にいたからといって、関係なかったであろう池田屋のスタッフまで死んでいます。
まぁこの辺の時代は「あいつもこいつもアヤシイからブッコロ!」が当然だったので、誰もそんなこと気にしなかったのかもしれません。
もちろん池田屋自体もタダでは済まず、主人はとっ捕まってそのまま牢屋で亡くなり、旅館も半年以上営業停止になりました。
今は某チェーンの居酒屋になっているそうで
その後、池田屋は、親族が場所を改めて再出発しながら、早くに畳んだらしく、現存はしておりません。
事件当時の建物は50年ほど前まで残っていたそうなのですけども、そこもまた取り壊されてテナントになったりパチンコ屋になったり、すっかり流浪の身に(不動産ですけど)。
今は某居酒屋になっているようです。
ちなみにこの事件の発端となった長州の計画は、新選組のデッチ上げだったという可能性も指摘されたりします。
しかし、その後の展開を見ると、とてもそうとは思えません。
というのも長州藩は
◆八月十八日の政変
↓
◆池田屋事件
↓
◆禁門の変
禁門の変(蛤御門の変)が起きた不都合な真実~孝明天皇は長州の排除を望んでいた
続きを見る
という流れで、池田屋事件の後に禁門の変で御所にぶっ放し、孝明天皇の逆鱗に触れて京都から締め出されています。
さらには長州征伐が敢行されて滅亡寸前……というシチュエーションから、なんだかんだで薩長同盟により盛り返していくのですが、それはまた以下の記事でご覧ください。
薩長同盟は何のために結ばれた?龍馬が西郷と木戸を繋いだ理由とは?
続きを見る
池田屋事件は、新選組の名を天下にしらしめると同時に、長州藩を苦難の道へと落としていくのでした。
あわせて読みたい関連記事
近藤勇が新選組で成し遂げたかったことは?関羽に憧れ「誠」を掲げた35年の生涯
続きを見る
土方歳三35年の生涯まとめ~幕末を生き急いだ多摩のバラガキが五稜郭に散る
続きを見る
沖田総司は新選組の最強剣士だったのか~享年27で夭折した一番隊組長の生涯
続きを見る
永倉新八こそが新選組最強か?最後は近藤と割れた77年の生涯まとめ
続きを見る
謎多き新選組の凄腕剣士・斎藤一72年の生涯 その魂は会津に眠る
続きを見る
新選組十番隊組長・原田左之助~幕末をひたむきに生きた青年剣士29年の生涯
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
菊地明/伊東成郎/山村竜也『新選組日誌 上 (新人物文庫)』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
池田屋事件/Wikipedia