幕末・維新

新島八重の軌跡を辿れば幕末と会津がわかる~最強の女スナイパー86年の生涯

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留守を守る会津藩士の家族

会津藩は、京都守護職拝命以来、新選組を配下におさめ、治安が悪化した京都を守る為に力を尽くしました。

その忠誠心は孝明天皇から篤い信任を得ました。

これがのちに会津藩の悲劇に繋がるのですが、彼らにとって誇りであったこともまた事実です。

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夫や息子が京都に出払った会津藩士の家族たちは、国元で留守を守り続けました。

山本家もそうです。

覚馬の妻・うら、娘の峰。そして、八重と夫の川崎尚之助。この二人は慶応元年(1865年)頃、夫婦となっておりました。

八重の男勝りは有名でした。

それゆえに縁談もなかなか舞い込まず、山本家に恩義がある川崎と結ばれても自然なことです。

禁門の変】といった戦乱で犠牲になる藩士もおりました。

八重の親友である高木時尾の父もその一人です。

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ちなみに天皇のおわす御所を守ったにも関わらず、こうした犠牲者が会津藩士であるからという理由で、靖国神社の合祀から外され、明治時代に紛糾しております。

苦労はある。
それでも、孝明天皇に信頼され、京都を守っているんだべ――そんな誇りを胸にして、彼らは耐え忍んでいたのです。

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「禁門の変」では、覚馬は目に怪我を負いました。

のちに、この怪我が失明へとつながることになります。

 


一会桑政権と薩長同盟

孝明天皇の信任あつかった会津藩。

しかし、そのことが憎しみを集めてしまうことにもつながります。

長州藩は、孝明天皇への弁明の機会を逃したのは会津藩が阻んだからだと怒りを募らせます。

これは言いがかりに近いもので、孝明天皇の憎しみこそが長州藩への厳しい態度につながったのです。

◆八月十八日の政変
◆禁門の変
◆長州討伐(長州征伐)

いずれも孝明天皇の意志で長州は京都から追い出され、朝敵と認定されました。

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しかし、長州藩としては憎悪を天皇にぶつけるわけにもいきません。

そのかわりに、孝明天皇から信頼されていた会津藩を憎むことになったわけです。

薩摩藩は、途中までは会津藩と共闘する関係でした。

しかし、【一会桑政権 ※一橋慶喜・会津藩・桑名藩】が孝明天皇の信任を背景として権力を掌握すると、一橋慶喜と対立した薩摩藩は、巻き返しの必要性を感じます。

こうして政権から弾き出された薩摩藩と長州藩が手を結んだ先にあったのが【薩長同盟】です。

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当初から倒幕を目的に組まれた同盟ではありません。

あくまで権力巻き返しのためで、具体的には

・幕府の長州征伐に協力しない

・長州の朝敵認定取り消しに尽力する

などでした。

しかし、ここで急展開を迎えます。

孝明天皇が崩御するのです。

これにより「一会桑政権」も崩壊して、慶喜はフランスへの接近を始めました。

 


会津藩内にもあった、内乱回避への動き

慶応3年(1867年)。
会津藩の内部でも今後の風向きに対する不安感が募っていきます。

薩摩や長州などとの内乱を如何にして回避すべきか――。

そのために会津でも対策が練られました。

山本覚馬
広沢安任
神保修理
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当時の覚馬は、会津藩の洋学校に上田藩士・赤松小三郎を招聘しています。

赤松は佐久間象山とも交流があり、覚馬との縁がある人物です。

生きていれば必ずや日本の行く先に影響を与えたであろう――そんな人物であり、イギリス式兵学や議会制度に関して一流の見識を持っていました。

薩摩藩でも厚遇を受けていた赤松は「幕薩一和」を唱えており、内乱回避に尽力していたのです。

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ところが、です。
慶応3年(1867年)9月3日。中村半次郎(桐野利秋)ら薩摩藩の手によって、赤松暗殺。

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同年11月15日には、大政奉還による穏健な政権交代を目指していた坂本龍馬が、京都見廻組によって暗殺されてしまいました。

赤松の死の背後には、武力倒幕に舵を切りたい薩摩藩の思惑があり。

坂本の死の背後には、倒幕を阻止したい会津藩の思惑がある。

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そんな覚馬たちの願いも虚しく、破局に向けて突き進む両陣営。

会津藩内部でも、武力による戦闘を望む声が高まるのでした。

 

鳥羽伏見の戦いで弟が戦死

視力を失った覚馬が京都にとどまる中、事態は緊迫してゆきます。

慶応4年(1868年)。

鳥羽・伏見の戦いが始まりました。

覚馬の恩人である林権助、そして弟の三郎が、この戦いによって戦死。

敗れた徳川慶喜は、大坂から江戸へ向かいます。

大坂から船で脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年)/wikipediaより引用

慶喜や同行した容保に怒りを向けるわけにもいきません。

かわって、非戦派だった神保修理に怒りが向けられ、切腹に追い込まれます。

覚馬はこのままでは会津が戦争に巻き込まれると焦りをつのらせます。

そこで、門人と共に大坂へ向かうのですが、混雑の中で捕らえられ、薩摩藩邸に連行されてしまいます。

覚馬は『万国公法』で裁いて欲しいと訴えます。彼は『管見』を執筆し、新たな国作りを説きました。

薩摩藩のおける覚馬の扱いは、決して粗略ではありませんでした。

これは、覚馬の優れた見識ゆえとされています。それだけではない何かも感じさせます。

薩摩藩士には、赤松の教えを受けた者を中心として、内乱を起こすべきではないと信じる者が多くおりました。

赤松の死後、彼らは黙らざるを得ませんでした。

しかし、内心は、内乱を起こすことに忸怩たる思いを抱いていたのではないでしょうか?

赤松と交流のあった覚馬の扱いから、そんなことを感じさせるのです。

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