『新吉原仲之町八朔図』/国立国会図書館蔵

文化・芸術

室町時代から刀や馬を贈っていた「八朔」8/1がお祝いの風習となった経緯

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八朔
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熊本の八朔祭

まず京都・祇園などでは、新暦の8月1日に芸姑さん・舞妓さんが芸事のお師匠様の家を訪ねて、日頃のお礼周りをするのだとか。

いかにも芸の町という感じがしますね。

大規模なお祭りとして有名なのは、やはり熊本県上益城郡山都やまと町で行われる「熊本の八朔祭」でしょうか。

こちらは旧暦8月1日に近い新暦9月第一土曜・日曜の二日間にかけて行われます。

田の神に感謝し収穫の目安を立てる日とされ、高さ3~4m、長さ7~8mという「大造り物」(山車)が数十基くりだし、多くの観光客や写真家が訪れるそうで。

また、このお祭りに合わせて重要文化財・通潤橋(つうじゅんきょう)が放水したり、夜に近辺で花火が上がるとのことです。

通潤橋はアーチ橋の例としてよく挙げられますから、きっと写真で見たことがある方も多いでしょう。

通潤橋の放水

大造り物などの準備は約1ヶ月前から始まるそうなので、旧暦の八朔はまさに準備に沸き立ち始めたころでしょうか。

他にもたくさんありますが、ここではあとひとつだけご紹介させていただきます。

 

香川県丸亀市では「八朔だんご馬」を作る

香川県丸亀市では、男児の健やかな成長を祈り、地元で獲れた米の粉で「八朔だんご馬」を作る風習があるといいます。

これは、丸亀藩出身で馬術の名人・曲垣(まがき)平九郎にちなむものです。

三代将軍・徳川家光が寛永11年(1634年)春に増上寺への参詣の帰り、愛宕神社(現・東京都港区)を通りかかった際、山の上に見事な梅が咲いているのを見つけました。

そこでこう命じます。

「誰ぞ、馬であそこまで登りあの梅を一枝持って来い」

しかし、ここの石段は非常な急勾配で、誰もそんなことはできないと思って名乗りを上げませんでした。

そこで、丸亀藩の家臣だった平九郎が石段を見事馬で駆け上がり、梅の枝を献じてみせます。

家光は喜び、
「この太平の世に、馬術の訓練を怠らぬとはあっぱれである。そちは日本一の馬術の名人じゃ」
と褒め称えました。

無茶振りしたとしても、できた人がいるとちゃんと褒めるのが家光のいいところですよね。

褒め言葉だけでも地元の殿様やお偉いさん(この場合は当時の丸亀藩主・生駒高俊や江戸屋敷の人々など)の覚えがめでたくなり、出世の糸口になることもありますから。

平九郎もその後出世したか、扶持が上がるかしたらしく、愛宕神社の石段(男坂)を「出世の石段」と呼ぶようになったといわれています。

それが地元にも伝わり、八朔の祝い事と合わさって、この地域独特の風習になったと思われます。

ちなみに、その後も愛宕神社で騎乗による石段上りに挑戦した人がたびたびいたらしく、明治から大正にかけて3人成功例があります。

出世したかどうかはよくわからんところですが。

 

「8月の雛祭り」が行われる地域も

また、八朔に歴史的経緯によって日付をずらされた「8月の雛祭り」を行う地域も複数あります。

◆香川県三豊市旧仁尾町

戦国時代に仁尾城が長宗我部氏に攻められ、落城したのが旧暦3月3日だったため、日をずらしたのだそうです。

端午の節句(5月5日)にやらない理由も何かありそうですね。

端午の節句が男の子のお祭りになったのは江戸時代ごろとされていますから、それまでは5月5日に女の子のお祭をやってもおかしくなかったはずですし。

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◆兵庫県たつの市御津町室津地区

永禄九年(1566年)1月11日に、地元の室山城主・浦上政宗の次男・清宗と、小寺職隆(こでらもとたか・黒田官兵衛のトーチャン)の娘が祝言を挙げました。

しかし、当時敵だった龍野城主・赤松政秀が城に攻め込み、政宗・清宗と花嫁が落命したため、月日の近い3月3日ではなく、半年遅れの八朔に雛祭りを延期したのだそうです。

一時途絶えていましたが、最近は町おこしの一環として復活しているとのこと。

昔の一般人が領主やその家族に深い愛着を持っていたからこそ、こういった習わしができたのでしょうね。

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ちなみに果物の「はっさく」は八朔とはほぼ無関係だそうです。

従来は「八朔のころから食べられるから」といわれていましたが、この時期のはっさくの身ははまだ成長しきっていません。

現代では12~2月に収穫し、1~2ヶ月ほど冷暗所で熟成させてから出荷されるそうです。ということは、はっさくが出回るようになるのは3~4月ごろということになりますね。

上記の通り八朔にいろいろな行事をやるため、「めでたいこと」という意味にあやかったか、験担ぎのためにこの名になったのでしょう。

行事ひとつとっても、その地域の背景がうかがえるようで面白いものです。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
日本国語大辞典
『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』
八朔/wikipedia

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