貞観政要

北条泰時と徳川家康/wikipediaより引用

文化・芸術

泰時も家康も愛読した『貞観政要』が大河ドラマに欠かせぬ理由とは

歴史ファンのみならず、広く一般の視聴者まで魅了する大河ドラマは、毎年、数多の関連書籍が発売されます。

書店によっては特設コーナーが設置。

登場人物やその背景が詳しく解説された歴史書籍がズラリと並ぶ光景はもはや風物詩ですが、基本的にはドラマ終了の12月に賞味期限を迎えてしまうものが多い。

そんな中、ほぼ毎年、長く参考にできる絶対オススメの大河書籍があります。

貞観政要』です(→amazon)。

2022年『鎌倉殿の13人』では金剛こと北条泰時が幼い頃から慣れ親しみ、2023年『どうする家康』の主人公・徳川家康にとっても愛読書でもあり。

2024年『光る君へ』の時代は貴族社会で重要視され紫式部たちが知らないはずもない。

歴代天皇も学んでいた。

将軍だろうと大名だろうと、日本史上、どの時代でも為政者が愛読していた定番中の定番、それが『貞観政要』であります。

中身は?

というと「全十巻四十篇からなる政治マニュアル」なのですが、会話スタイルなため文体は非常に柔らかく、誰にでも楽しめる。

唐の時代に成立しながら今なお参考にできることも多く、歴史的に見ても「この本を愛読している=仁政アピール」となるほどの名著として扱われてきました。

本稿では、日本社会の教養とも言える『貞観政要』について、少し考察してみましょう。

 

漢籍が知識として広まる時代

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は武士の社会進出が描かれ、その過程における主人公の成長、規範と、殺伐とした粛清が見どころの一つでしょう。

しかし同時に、漢籍教養が広まり、定着する過程も描かれています。

北条義時の親世代にあたる北条時政三浦義澄上総広常らは、史実よりも教養が低く設定されていました。

坂東で素朴に生きている彼らが、漢籍を読み、引用するような場面はありません。

このことが生かされた挿話が「武衛(ぶえい)」にまつわるものです。

上総広常は、源頼朝を「佐殿(すけどの)」と呼ばなければならないことに反発していました。

「佐殿」とは「右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)」という官位に基づいた堅苦しい敬称だったからです。

そこで義澄の子・三浦義村は「ならば武衛を使え、これは親しい者への呼び方だ」とアドバイス。

以降の広常は、源頼朝を「武衛」と呼ぶようになったところ、それが「おかしい」と気づいたのが義村と同世代である畠山重忠でした。

『武衛も佐殿も意味は同じではないか?』

「武衛」とは「佐殿」の「唐名(とうみょう)」です。

「唐名」とは、日本の官職を中国の制度にあてはめて呼ぶ名前ですから、要するに「佐殿」も「武衛」も同じことなのです。

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ここで注目したいのは“教養の格差”です。

義村や重忠は唐名であることを把握していた一方で広常はそうではない。

そしてこの教養は、この先さらに武家社会へ広がってゆきます。

一つ下の世代では、北条泰時が幼い金剛の頃から『貞観政要』を読み、漢籍教養が当たり前だったということは前述の通りです。

世代だけでなく、東西格差もありました。

京都出身である大江広元や、北条時政の妻・牧の方(りく)たちは、中国経由の知識や教養を備えていました。

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日本の仏教もそうです。

発祥はインドながら、中国を経由して導入された仏教。

仏僧だった源頼朝の弟・阿野全成が手にしていた筮竹(ぜいちく)は『易経』を基にして占うものであり、中国からの知識を駆使していました。

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こうした知による教育が広まったからこそ、武だけに頼らない、理想の政治が掲げられ、それを目指して鎌倉幕府は築かれてゆく。

その際、最も手本とされたのが【貞観の治】です。

では、貞観の治とは一体何なのか?

 

「貞観の治」を手本とせよ

日本の国家運営は歴史的に中国を手本としてきました。

とりわけ平安期には遣唐使が重要視され、積極的に中国の知識や文化を吸収。

その唐でも、理想とされた治世が「貞観の治(じょうがんのち)」です。

唐の皇帝である太宗。

父である高祖・李淵を支え、隋を倒して唐を築き。

名将と名臣を登用し、北方遊牧民族の突厥(とっけつ/テュルク)を抑え込む。

大繁栄の基礎を築いた理想の治世である――。

貞観年間(627年〜649年)は、そう讃えられました。

西暦で言えば859年〜877年に当てはまる日本の元号「貞観」も、安定した理想の治世を望んでつけられたのでしょう。

そんな貞観の治と密接に関わるのが『貞観政要』です。

伝説の名君・太宗がどんなやりとりをして、素晴らしい政治を行ったのか?

太宗の死後50年ほど経てから、呉兢(ごきょう)がまとめた言行録が『貞観政要』となります。

 

「創業」と「守成」

織田信長豊臣秀吉、徳川家康の三人を称して「三英傑」と呼んだりします。

戦国時代を終わらせ、平和をもたらした三人の天下人――そんな意味であり、現代の中国では誰が人気になっているか?

明と戦った豊臣秀吉は、まず候補から外すとしまして。

中国語圏でも大人気のゲーム『信長の野望』の影響を考えると、織田信長が最も支持されそうなところです。

実際、日本では信長が一番人気ですよね。

しかし、中国では徳川家康が最も支持されます。

21世紀のはじめには山岡荘八『徳川家康』が大ブームとなったほどであり、なぜ家康がそれほどまでに人気なのか?と疑問に思うところでしょう。

ここに日中の歴史観の違いがあると感じます。

織田信長と徳川家康を比較すると、前者が「創業」、後者が「守成」に属します。

「創業」とは、乱世を勝ち抜き、天下を統一すること。

「守成」とは、統一された天下を長続きさせるための基礎を固めること。

果たしてどちらが難しいか?

『貞観政要』を意訳してみましょう。

太宗がこう尋ねた。

「創業と守成、どちらが難しいだろう?」

房玄齢は答えた。

「麻の如く乱れた天下において、各地の群雄を倒し、天下統一を為す。となれば、創業の方が難しいでしょう」

魏徴は答えた。

「いやいや。天下統一を成し遂げたならば、民衆は喜び命令に従うもの。帝王の地位とは、天から授かり、民から与えられるもの。決して楽に手にできるものではありません。

しかしながら、そうして苦労して天下統一をしても気が緩んでしまう。そうなれば好き勝手したくなる欲が湧いてきます。

民衆に平穏な生活を送らせるには、苦労が続きます。

帝王が贅沢三昧で浮かれ、民に負担をかけるようでは、国は衰退してしまう。

ゆえに、私は守成こそ難しいと訴えたい」

太宗は返します。

「房玄齢は朕とともに苦労をして、九死に一生を得るようなこともあったから、創業を大変だと思う気持ちはわかる。そうなるだろうな。

魏徴は朕と天下の安定を現在進行形ではかっているわけで、少しでも気を緩めたらダメだと心配しているのだな。

だから守成が難しいって言ってくれたと。

考えてみれば創業の苦労は過去のものだ。

朕はこれから、きみたちと協力して守成の困難を乗り越えてゆこう」

織田信長はズバリ『信長の野望』のタイトルとなるだけに「創業」の人です。

ゲーム繋がりでいえば『三国志』の曹操が呼ばれた「乱世の奸雄」の類でしょう。

乱世を治める天下統一のためには「騙し、騙される世界」を泳ぎ切らねばなりません。

猜疑心が強く、敵を騙し、時には非情な判断を下すことが求められます。

実は唐太宗も、奸雄らしい過去があります。

【玄武門の変】で、長兄であり太子であった李建成、四弟・李元吉を謀殺し、父・高祖に譲位を迫って即位しているのです。

しかし唐太宗は、そのままではいけないと理解していました。

己が謀殺した李建成の配下にいた魏徴と王珪を登用し、「守成」の道を意識し始め、その道を歩んだ名君となるのです。

中国史で屈指の人気を誇る名君は、唐太宗が常に入ります。この評価は揺るぐことがありません。

日本ではこんな狂歌があります。

織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川

【意訳】織田信長がついて、豊臣秀吉がこねた天下という餅。徳川家康なんて、それを座って食べただけだろ。

江戸時代の狂歌であり、ときの為政者である徳川政権創始者への嫌味がこめられています。

のみならず血を流して戦い抜いた「創業」の英雄の方が偉いという価値観もある。

こうした揶揄も『貞観政要』を愛読していた家康からすれば、こう苦笑して終わりでしょう。

「わかっとらんなぁ……幕府創設をすることこそが大変なんだよ!『貞観政要』にだって、そうあるだろ!」

この「創業」と「守成」は、『鎌倉殿の13人』にも関係があります。

幕府を創設した源頼朝。

源平合戦から始まり、延々と続く御家人たちの政争を制してきた父・北条義時。

彼らは「創業」の英雄でしょう。

その跡を継いだ泰時は『御成敗式目』を制定し、日宋貿易を始め、幕府の基礎固めをした「守成」の英雄です。

そんな彼の資質と未来を示すうえで、幼い頃から『貞観政要』を読んでいたことは重要な伏線といえます。

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