寿永二年(1183年)閏11月18日、源義仲(木曽義仲)が法住寺殿という後白河法皇の御所に攻め込みました。
【法住寺合戦】と呼ばれる戦いです。
「源氏は、法皇から命令されて平家と戦ったんじゃないの?」とツッコミたくなるかもしれませんが、そこは大天狗こと後白河法皇の老獪すぎる政治外交力を忘れてはいけません。
振り回されるようにして行ったり来たりの義仲はついにブチ切れ、単に攻め込むだけでなく、後白河法皇を幽閉するという驚きの展開へ発展するのです。
義仲は、名門源氏の出自とはいえ、一介の武士が最高権力者を捕らえるなど、さすがにレアケース。
一体何がどうしてそうなったのか?

木曽義仲/wikipediaより引用
当時の状況を確認しながら進めて参りましょう。
逃げる幼君 残る大天狗
源氏と平家の戦いが始まり、前者優勢の色が濃くなってきた頃。
平家では大黒柱だった平清盛が亡くなってカオスな状態に陥ります。
そしてとりあえず「陛下(安徳天皇)をお連れして西国へ逃げよう!」ということになったのですが、幼い安徳天皇は従っても、当時実権を握っていた大天狗・後白河法皇は京都に残り続けました。

安徳天皇/wikipediaより引用
安徳天皇は清盛の孫だったので平家が保護するのはある意味当然です。
一方、大天狗は「貴様らの言いなりにはならん!」と示したことになります。
権力は法皇にありますので、当然、他の貴族たちもほとんどが京都に残りました。
しかし都の中にいてはいつ源氏が攻めてくるとも知れず、危険だということで一時比叡山へ避難しています。
自分のことばっか考えてるから人気ないんですよね、この人。
大量の兵士が流れ込み飢饉は悪化
その後、平家がすっかり都から出て行ったタイミングで源義仲(木曽義仲)達が京都へやってきました。
平家がいないのですからとりあえず京都で市街戦が起こる可能性はぐっと低くなり、天狗たちも戻ってきます。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用
そして「源氏の諸君ご苦労。けしからん平家を討て!」という命令が下りました。
ついでに都の警察機能も源氏側の人々に委任されます。
二年前に【養和の飢饉】が起きており、平家の圧政もあって治安が大幅に悪化していたからです。
なんだか江戸時代末期と似ているような……。
しかし、元々食料が足りないところへ大量の兵がやってきたのですから、食糧難はさらに悪化。
しかもこの時代のことですから軍律という概念が浸透していたともいい難く、取り締まるはずの源氏軍の中から市民へ狼藉を働く者が出始めました。
当然のことながら、天狗にがっつり怒られました。
特に義仲は源氏軍の中でも治安回復を担当していただけに、こっぴどくお叱りを受けます。
それでも義仲はうまく部下を鎮めることができず、京都の荒廃は続くのでした。
今すぐ平家をぶっ飛ばしてこい!
見るに見かねた後白河法皇は、義仲へ「警察をやれないなら今すぐ平家をぶっ飛ばしてこい!!」(超訳)と厳命します。
義仲も慣れない仕事よりは武働きのほうがまだ可能性があると考え、急いで平家の後を追って西へ向かいました。
タイミングの悪いことに、ここで関東から源頼朝の働きを知らせる使者が戻ってきました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
頼朝はこの頃、平家が分捕っていたあちこちの荘園(皇族・貴族や寺社の持っていた領地)を取り返すという働きをしており、当然のことながら大天狗以下朝廷は大喜び。
「よーし頼朝にはご褒美あげちゃうぞ!」
ということで、幼い頃に取り上げられていた位を頼朝に返した上、東国の支配権まで認めるという太っ腹ぶりを見せました。
ただし、この時点では義仲の勢力圏だった北陸から上野(現・群馬県)と信濃(現・長野県)はそのままにしており、頼朝に対しても「お前ら仲悪いらしいけど、領地もちゃんと保障してやるから仲直りしろよな」(超訳)と命じています。
結局これもうまく行かなかったのですが。
京都を出た義仲は追撃戦で負けてしまい、またしても苦境に立たされます。
しかも、頼朝の命令で「源義経と中原親能が大軍を率いて上洛する」という情報が届いたため、お株を奪われると勘違いした義仲は、側近のみを連れて急いで京都へ戻ってきました。
頼朝に乗り換えた後白河にキレる義仲
京都市民や公家からすれば、義仲の上洛は歓迎しないお客のご帰還みたいなものです。
何とかして帰ってもらおうと働きかけます。
義仲は「私に平家退治を任せるってお話だったのに、頼朝に肩入れするなんて酷いじゃないですか! 一生恨みます! 訴えてやる!」(超訳)と抗議の手紙を送りつけます。
これが大天狗・後白河法皇の怒りに火をつけてしまい、かえって義仲は苦しい立場に飛び込んでしまうのですが、本人は気付いていませんでした。
「頼朝たちを倒して、もう一度法皇に認めてもらうしかない!」
そう思い込み、平家を放り出して身内との戦を始めようとします。
身内での戦いは、もはや源氏に生まれた者の運命ですね。
ただ、このときの後白河法皇も挑発的でして。
頼朝・義経の援軍に期待して強気になっていたのでしょう。
まるで義仲に「かかってこいや!」とでも言わんばかりに、自分の住まいだった法住寺殿に堀を作ったり、多田行綱や源光長などの武家貴族を配置したり、あるいは延暦寺の僧兵を動員したり。

絵・小久ヒロ
これでもかと警護を固めさせ、先手必勝といわんばかりに義仲を攻めようとする気配まで見せます。
総大将には、院を守る北面武士だった平知康が就いていました。
前代未聞! 後白河法皇を捕らえてしまう
しかし、先に動いたのは義仲でした。
法住寺殿を襲撃し、法皇に味方する人々をことごとく討つばかりか、後白河法皇本人も捕らえるという前代未聞の行いをやってのけたのです。
しかも義仲は法皇を脅迫して自らを官軍と認めさせてしまいました。
こうなると表面上は法皇を屈服させたとしても、水面下で頼朝のほうになびいていくのは当然の話でしょう。
案の定、源義経や源範頼がやってくる頃には義仲はすっかり人望を失っており、身内から討たれることになってしまいます。

源義経/wikipediaより引用
元々有能な人物なのに、どうしてこうなった……という展開。
テンパると正常な判断ができなくなるのは人間誰しもですが、義仲の場合は特にそれが強いような気もします。
冷静な参謀役が側にいれば展開もまた違ったのでしょう。
ただ、歴史上の話って、こういうパターンが非常に多いですよね。
なお、義仲の生涯をまとめたのが次の記事になりますので、よろしければ併せてご覧ください。
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【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
法住寺合戦/wikipedia





