美保関事件

艦首が大破してしまった川内型軽巡洋艦「神通」/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

四隻の日本海軍艦艇が衝突~海の八甲田山「美保関事件」の悲劇とは

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艦長が自決

この多重衝突事故の結果、「蕨」乗組の92名、「葦」乗組の27名の、計119名が殉職しました。

事故を受けて、最初に衝突した「神通」艦長の水城圭次(みずきけいじ)海軍大佐は海軍の査問会にかけられます。

査問会で水城大佐は、

「このような事故の最終的な責任は、先頭艦の指揮官の負うべきものだ」

と証言し、判決前日の1927(昭和2)年12月26日、自宅で自決しました。

事故は、無燈火での複数艦での戦闘訓練という実戦さながらの厳しい訓練の過程で起きたもので、安全軽視の一面もあり、また、艦隊の練度や技量をはるかに超えた訓練内容でもあったことから、「海の八甲田山」とも言われています。

 

安全性軽視の訓練はその後も5年ごとに発生

しかし、この後も同様の訓練は継続されました。

結果、艦艇同士の衝突事故が昭和5年(1930年)10月25日、昭和9年(1934年)6月29日、昭和14年(1939年)2月2日と、ほぼ5年おきに発生してしまいます。

現在、日本海を見下ろす美保関灯台の中には、美保関事件の説明版とともに、ここに沈んだ駆逐艦「蕨」の模型が展示されています。

筆者撮影

筆者撮影

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