歴史上の人物は、生まれによって大きく人生を左右された人が多いですよね。
しかし中には、身分にそぐわない行動をしたり、自ら地位を捨てて行動したことがきっかけで、名を残した人もいます。
今回は、その中でもダイナミックさでは一・二を争う……かもしれない人に注目。
貞観七年(865年)1月27日は、平城天皇の皇子・高岳親王(たかおかしんのう)が天竺へ向けて出港したとされる日です※1。
遣隋使・遣唐使ですら命がけで海を渡っていた時代に、どうして皇族がそのような危険な旅に出たのか。
その歴史を振り返ってみましょう。
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天皇候補であったが薬子の変に連座して……
高岳親王は美男として有名な在原行平・業平の父である阿保親王の弟にあたります。高岳親王も美形だったかもしれませんね。
そして当人は、もしかすると五十三代目の天皇になっていたかもしれない人物です。
父の平城天皇が、弟(高岳親王にとって叔父)である嵯峨天皇に譲位したとき、皇太子になったのが高岳親王でした。
しかし、平城天皇と嵯峨天皇が対立し、【薬子の変】というクーデター未遂事件が起きたとき、高岳親王は連座して皇太子の地位を追われてしまいました。
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騒動の中心ではなかったこともあり、12年ほどで高岳親王の名誉は回復されます。
ただ、その間にかなり苦しい生活をしていたのでしょうか。仏門に入って「真如」と名乗っておりました。
なんだか本願寺の法主(トップ)にいそうな名前……というか本当にいるんですが、もちろん高岳親王とは関係ありません。
「真如」には元々仏教用語で「あるがままであること」という意味があります。皇太子という至尊の地位から自分に関係のないことで一気に落とされて、ある種の悟りを開いていたのかもしれません。
そして奈良の僧侶や空海などの弟子となり、高野山に「親王院」というお寺を開くまでになりました。また、空海入定の際には埋葬にも立ち会っています。
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「空海は今も高野山にいるんじゃないのか」というのはこの際気にしてはいけません。空海ほどの高僧になると、霊魂として存在を保つことができる……のかもしれませんし。
「大陸でさらに高度な仏法を学びたい!」
そうして仏道修行とお勤めに励んでいた高岳親王でしたが、60歳くらいのときに一念発起。
「大陸でさらに高度な仏法を学びたい!」と考えました。
60歳と言えば、当時としては老人も老人です。
何がキッカケだったのかは判然としませんが、自分の弟子たちや一般人のために、よりよい教えを伝えることが自身最後の仕事と思ったのでしょうか。
最初は遣唐使船に同乗させてもらおうとしたのですが、この時期はあいにく使節が送られる予定がありませんでした。
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そのため、高岳親王の一行は、一般の商船に乗って唐(当時の中国)を目指しました。
風と波に恵まれ、高岳親王らは無事長安へ到着します。
しかし、この頃の中国は道教を重んじ、仏教を廃する政策を採っており、期待していたような師となってくれる僧侶が見つかりませんでした。
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