宋おもてなし

伝統的な中国の庭園である蘇州古典園林「網師園」

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

『光る君へ』藤原為時は越前の宋人たちをどうやって“おもてなし”したか?

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宋人おもてなし考察
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朱塗り柱の「松原客館」

2023年『どうする家康』で、織田信長のいる清洲城が「紫禁城のようだ」という指摘がありました。

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私には紫禁城にも見えないどころか、失礼ではないか?とも思いました。

首里城を思い浮かべていただけると、手っ取り早いでしょう。

中国や琉球の宮殿ともなれば朱塗りの柱がなければどうにもならず、あのモノクロームの清洲城とはまるで異なります。

横店影視城(映画スタジオ)の紫禁城/wikipediaより引用

今年の松原客館は、VFX処理だけでなく、セットも作られました。

史料がないため、宋代の建築を参照して建てられたそうです。

宋代は、近代へ向かう中国文化の基礎ができた時代。

日本人は「城」というと、天守閣のある犬山城のような姿を想像するかと思います。山城や平城を想像する人は、かなりのマニアでしょう。

中国でも「昔の立派な屋敷や庭」というと、宋代以降のものを思い浮かべます。

これは時代劇の撮影事情もあります。

時代劇撮影の定番である「横店影視城」などは、宋代以降の街並みを再現。

宋代以前が舞台のはずのドラマでも、しばしば技術が進みすぎたものが映り込むミスが起こりますが、そういうものだと受け流しましょう。

宋代の建築物を再現するのであれば難易度もそこまで高くなく、お手本もあるのでよい選択といえます。

横店影視城(映画スタジオ)の街並み/wikipediaより引用

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ちなみに日本における中国の時代区分と、中国では異なります。

中国では明清代まで「古代」と呼ぶざっくりした分類もあり、時代考証の厳密性も作品次第といえます。

 


背伸びして整えられた迎賓館

では、宋人を迎えるための「松原客館」が、当時、どれほどの背伸びをして作られたのか。

いかほどの金と技術が必要とされたのか。

明治政府が必死になってこしらえた「鹿鳴館」級ではないか?とそう想像してしまいます。

平安京にある藤原為時の屋敷は、雨漏りのする貧しいものでした。

上級貴族の屋敷は立派であるし、内裏は豪華です。

しかし、「松原客館」の方が数段上ではありませんか。

まず、屋根瓦です。

屋根瓦は見た目が豪華なだけでなく、防火効果もあります。茅葺のようにすぐ延焼することがない。

防寒も考えられていると思います。内裏であろうと遮蔽物は御簾や屏風で、みているだけで寒そうに見えます。

一方で、「松原客館」は壁や窓がしっかりしていて、居心地がよさそうだ。

宋代ともなれば屋根瓦は普及しており、一方、当時の日本ではまだ限られています。

この館だけでどれほどの金がかかり、技術を用いていたか。

あの貧しい家に住んでいた為時とまひろが、別次元の高級建築を目の当たりにするのかと思うと、感慨深いものがあります。

いかにも建てられたばかりのように見えるのは、外交の舞台なので、メンテナンスも繰り返しているのでしょう。

ちなみに、歴史的に見て、日本の宮殿ともいえる内裏や江戸城は豪華だったのでしょうか。

幕末の来日外国人は、日本の城を見て驚きました。

「ここまで粗末な王侯の宮殿があるのか……」

文化の差異とか、そう単純なことでもないようです。

日本の建築物は中国ほどしっかり柱に色を塗らず、木目を愛でます。

日本人ならではのセンスと言いたいところですが、それが理解できなければ予算削減に見えてもおかしくありません。

徳川吉宗以降顕著になりますが、徳川将軍は質素な暮らしを送っています。幕府はコスパ削減を上から徹底したいと考えており、建築物も料理もそうでした。

幕末の京都御所は、幕府の締め付けでさらに貧しいものでした。

 


未知なる宋料理

室内のインテリアは、かなり凝った作りのものです。輸入頼りと思われます。

当時の日本では、威信財(威信を示す持ち物)として宋からの陶磁器が用いられていました。食器類も当然のことながら輸入です。

金属加工技術も宋には到底勝てません。金属を用いた調理器具も、持ち込まれていると推察できる。

しかし、料理となるとそうはいかない。

為時は日本料理ではなく、宋の料理をわざわざ作られています。料理を担当するのは宋人です。連れてきた羊を捌くとなれば、日本人では厳しいのでしょう。

これは時代が降ってからもそうでした。幕末に豚肉料理が導入された施設では、料理人が血と肉を嫌がるため、人員交代が激しくなったとか。

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和食と中華料理の違いは、このころから顕著になってゆきます。

何がそうさせたのか?

というと「仏教由来の制限」です。

本来は仏僧のみであったはずの菜食や禁葷食(ニンニクなどのスパイス類を禁じるもの)が庶民にまで広まりました。

ニンニクが使えないとなると、当時の料理人も頭を抱えるしかありません。

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他に、料理に関する違いが見えるのが、豚肉を表す漢字でしょう。

日中では別の字を用いられ、日本の「豚」に対し、中国では「猪」となる。

猪を狩り、肉料理を作ることはできます。

『鎌倉殿の13人』で描かれたように、肉食に無頓着な人々は猪を食べており、当時でも入手できた。それでおもてなしすることは可能です。

なお、日本における食用豚の飼育は、幕末からとなり、例えば徳川慶喜は「豚一」と称されています。

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豚肉が好きな一橋家当主という意味であって、一橋の豚野郎という意味ではありませんが、よいニュアンスではない呼び方でした。

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