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【藤原詮子】
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円融天皇の中宮争い
こうなると、次は円融天皇に娘を入内させる、新たな外戚レースの始まりです。
権力志向の特に強い藤原兼家がこれに乗らないわけがありません。
なんとしても、我が娘を入内させ、ゆくゆくは中宮とする!――このようにして藤原詮子の人生は決まったのでしょう。
詮子の父・藤原兼家はもともと、長兄の藤原伊尹(これただ)と二人三脚で歩んでいました。
しかし天禄3年(972年)に伊尹が急死してしまい、二人の間で除け者にされていた二兄の藤原兼通が、対立していた弟である兼家のふるい落としにかかります。
兼通が味方にしたのが、藤原北家小野宮流の藤原頼忠でした。
貞元2年(977年)、病に倒れた兼通は、関白の座を頼忠に譲るのです。
これで頼忠の野心にも火がついたのか。兼家らの藤原北家九条流にあって小野宮流にない力を手にしようとします。
天元元年(978年)4月、藤原頼忠は娘の藤原遵子(じゅんし/のぶこ)を入内させたのです。
対抗するように兼家も、遠ざかっていた参内を6月に復帰させ、8月に詮子を入内させました。
こうした熾烈な権力争いが、大河ドラマ『光る君へ』の第1話で描かれた時代背景となります。
第1話の詮子は、家族の前で気丈に振る舞っていました。
「顔も見たことのない帝を好きになれるのか……」
そんな疑念を漏らす彼女は15歳であり、不安だらけでもおかしくはありません。
それでも気丈にふるまう詮子を見た円融天皇は、父の兼家に似ていると複雑な笑みを浮かべていました。
史実においても複雑な状況は変わりなく、かくして円融天皇の周辺はこんな状況となります。
ここからは新たな権力レースの始まり。
円融天皇の子を、どちらの娘が先に産むか? 表現は悪いですが、現実問題、そこが運命の別れ目となります。
おまけに天元2年(979年)には、中宮だった藤原媓子(藤原兼通の娘)が亡くなり、その座も空位となった。
どちらが先に産むか、中宮は誰のものになるのか?
いよいよ白熱してゆきます。
懐仁親王(のちの一条天皇)を産む
天元3年(980年)、藤原詮子は東三条邸にて、懐仁親王(のちの一条天皇)を産みました。
これにて藤原兼家は、孫である“天皇の子”という最強のカードを入手。
俄然、有利になったようでいて、実際は番狂せが起きてしまいます。
天元5年(982年)、子を産んでいない藤原遵子が、中宮とされたのです。藤原頼忠の子であり、遵子の弟である藤原公任は勝ち誇ったようにこう言いました。
「こちらの方(詮子)は、いつ立后なされるのでしょうねえ」
兼家は、怒髪天を衝くような怒りだったことでしょう。詮子と円融天皇の仲も悪化し、東三条から戻ることはありませんでした。
しかし、遵子が中宮になったところで、子が産まれないことには厳しい。
口さがない宮中の裏側では「素腹の后」と陰口を叩かれてしまい、彼女にとってはいたたまれない状況が続きます。
大河ドラマ『光る君へ』では、兼家が陰陽師である安倍晴明にこう依頼していました。
遵子が不妊になるようにせよ――。
むろん実際に手をかけるわけではなく呪詛でしょうが、重大犯罪に変わりはありません。
野心家の兼家がそんな危険な道を渡ったのは、外戚ポジションが完全に安泰とは言えなかったから。
遵子が皇子を産む前に、確たる基盤が欲しい。それには孫・懐仁親王(後の一条天皇)を東宮にして、いずれ即位させるしかない――。
兼家は孫を人質同然にその手中に収め、円融天皇と我慢くらべのような状況に突入します。
参内を取り止めると、その後いくら円融天皇が求めても、病だのなんだの言い訳して決して応じなかったのです。
結果、譲歩したのは円融天皇でした。
現東宮(師貞親王・冷泉天皇の皇子で後の花山天皇)に位を譲るとして、帝の叡慮を知ることもなく不満を訴える兼家に対し、最大限に譲歩しました。
花山天皇退位の謀略
円融天皇の言葉はその通りとなります。
永観2年(984年)8月に譲位し、花山天皇が即位。
とはいえ、兼家の孫である懐仁親王はあくまで東宮です。花山天皇はまだ若く、藤原頼忠も関白の座を譲ろうとしない。
しかも花山天皇は、兼家の亡兄・藤原伊尹の子である権中納言・藤原義懐(よしちか)を頼りにしています。
さらに頼忠は娘の藤原諟子(ただこ/まさこ/しし)を花山天皇に入内させました。
兼家にとっては非常にまずい状況です。
なんとか打開できないものか?
と、ここで藤原詮子の兄である藤原道兼が、父・兼家の意に沿い、謀略を駆使します。
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このころ花山天皇は、熱愛していた藤原為光の娘・藤原忯子(しし/よしこ)を亡くし、世を儚むようになっていました。
寛和2年(986年)、藤原道兼は、そうして落ち込む花山天皇に「いっそ出家してはどうか」と持ちかけるのです。
自分も共に出家するとそそのかし、しかし、いざとなると「出家前に父に顔を見せてくる」と言って姿を消す。
花山天皇が「騙された!」と気付いたころには時すでに遅し――ついでにライバルの義懐まで出家させ、ついに兼家は権勢を確たるものとするのです(【寛和の変】)。
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結果、頼忠も関白を辞することになり、実権のない太政大臣に就任。
以降は兼家が関白として政治を取り仕切ることになりました。
一連の騒動に疲れ果てたのか。藤原頼忠は永延3年(989年)に世を去ることとなります。
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