藤原威子

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

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道長の三女・藤原威子は甥の後一条天皇に入内~愛されながら皇子出産の悲願ならず

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実家との付き合い

寛仁三年(1019年)1月2日、藤原威子が初めて大饗(だいきょう)を行いました。

大饗とは皇族や貴族が行う大規模な宴会のこと。

年間行事としては、臣下が中宮や皇太子へ年初の挨拶をする「二宮大饗(にぐうのだいきょう)」というものもあります。

威子が行ったのも、日付から考えるとおそらく二宮大饗のほうでしょう。

中宮としての公的デビューとでもいいましょうか。

同年3月には道長が出家をしており、その際に威子を含めた娘たちと小一条院(敦明親王)が行啓しました。

実家に関することでは威子を含めた娘たちの名もよく見られます。

例えば、治安二年(1022年)には道長が建てた無量寿院の開眼供養に参列したり。

治安三年(1023年)4月には倫子が病気になったため、妍子と威子と嬉子が行啓したり。

さらに同年秋には倫子の還暦祝いに妍子と威子も加わって準備を進め、当日も行啓したり。

母と娘の仲睦まじい様子が浮かんできますね。

ちなみに道長は、出家後もまだまだ影響力を保持しており、頻繁に表舞台へ登場しています。

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赤裳瘡(麻疹)の流行

家族との触れ合いについてはよく登場する藤原威子。

不思議なことに本人の性格に関する記録はあまり見られません。

『栄花物語』などでは、長姉・彰子と次姉・妍子が対照的な性格だったことが描かれていますが、三女の威子と末っ子の嬉子にはあまりそういった描写がないのです。

姉たちに気後れしたのか、本人たちが控えめだったのか、どちらですかね。

威子については『栄花物語』内で道長から

「彰子と威子は女房の服装を六枚以上着せないので(倹約しており)結構。妍子には困っている」

と褒められていて、どちらかというと彰子に似ていたのかもしれませんね。堅実というかシッカリしているというか。

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しかし、当時は仏教でいうところの「末法」が信じられていたほど不安定な時代です。

万寿二年(1025年)7月に小一条院の女御で異母妹の藤原寛子(源明子の娘)が亡くなると、8月には同母妹の藤原嬉子が19歳の若さで薨去。

さらに同年11月には和泉式部の娘・小式部内侍が30歳くらいで亡くなってしまいました。

なぜ、これほど立て続けに不幸が?

というと、嬉子の出産を祝うため各国の国司が都にやってくると、それと前後して赤裳瘡(麻疹)の流行が起きていたのです。

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同年7月27日の『小右記』にもこんな記録があります。

「(後一条)天皇の近辺にいる年少の者の間で病が流行っている」

朝廷内でも流行していて、上記の三人以外にも宮中の女房やその縁続きの人が亡くなっていたと思われます。

身近に迫る病に対し、威子も気が気でなかったでしょう……というか、彼女も赤裳瘡に罹患してしまうのです。それも嬉子の出産前後に。

ただ、このときの威子は幸いなことに早く回復できたようで、万寿三年(1026年)1月には威子が子供を授かったらしきことが記録されています。

果たして待望の皇子に恵まれるのか。

 

子宝には恵まれたが……

藤原威子の妊娠に関しては、少々変わった記録があります。

万寿三年7月に威子自らが腹帯を巻いたというものです。

この腹帯は彰子が整えさせ、頼通が加持させたという、いわば特別製のものでした。

だからこそ威子は人任せではなく、自分で巻いたのでしょうか。

直後の7月末から安産を祈る不動調伏法が繰り返し行われたことも記録されており、摂関家の人々の期待と不安がうかがえます。

そして万寿三年12月9日(1027年1月19日)、威子は無事に章子内親王を出産。

道長はともかく、後一条天皇は初めての子供を喜んだようで、およそ1ヶ月後の万寿四年1月3日(1027年)には威子と章子内親王を呼び戻し、その後、宮中で五十日の儀(誕生50日目のお祝い)が行われています。

しかしこの年は、摂関家に不幸が相次ぐ年にもなりました。

万寿四年5月に異母弟の顕信、9月に妍子が亡くなったのです。

特に妍子については道長と頼通が深く悲しんだらしく、皆が哀泣していたため、弔問に訪れた実資は声をかけずに去ったといいます。

前述の通り、末っ子の嬉子が万寿二年(1025年)に亡くなっていましたので、若い方からどんどん亡くなったかのような順番でした。

人の死はいつでも悲しいものですが、逆縁な上に若い方から……となると、より一層辛さが増したことでしょう。

若い頃から病がちだった道長にはやはり影響が大きかったらしく、この後、病状が悪化し、万寿四年12月4日(1028年1月3日)に亡くなりました。

同日に一条天皇の時代から宮廷を支え続けた藤原行成も世を去り、時代が移り変わっていきます。

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ちなみに万寿四年は彰子がちょうど40歳を迎えた年でもあり、本来ならば長寿を祝う算賀が行われるはずでした。

しかし訃報が相次いだためか行われていません。

威子も特に反対などせず、彰子とともに家族の冥福を祈ったことでしょう。

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