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【藤原威子】
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皇子が欲しい……と祈願を繰り返すが
そんな中の長元元年(1028年)11月、禎子内親王のいた枇杷殿(びわどの)がもらい火で焼けてしまいます。
藤原威子は法成寺へ移り、その際、火事見舞いを贈った、という記録があります。
禎子内親王も道長の外孫であり、この時期には皇太子・敦良親王(のちの後朱雀天皇=後一条天皇の弟)に入内していました。
威子にとっては義理の妹に気遣いをみせたというわけです。
残された家族を大切にしたいと思っていたのかもしれません。
威子と後一条天皇との間柄は問題なく、長元二年(1029年)2月2日に馨子内親王(けいしないしんのう)を出産しました。
時系列で考えると、前述の火事見舞いは妊娠後期に贈ったことになりますね。身重の時期によその気遣いをできた、というのは地味にすごい話なんじゃないでしょうか。
しかし、皇女誕生が相次いだため貴族たちは冷淡だったそうで、威子は居心地が悪かったようです。
一方で長元四年(1031年)9月に”大斎院”こと選子内親王が老体と病気を理由に退下したため、同年12月16日に馨子内親王が3歳で賀茂斎院に卜定(占いで選ばれること)されました。
馨子内親王はこの後(1036年)まで斎院を務め、威子はその間たびたび賀茂へ行啓したといいます。
やはり幼い娘が気がかりだったのでしょうかね。賀茂なら伊勢ほど遠くはありませんし。
『光る君へ』未婚の皇族女性が就く「斎宮」と「斎院」は何がどう違うのか?
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一方でやはり皇子を授かりたいと考えていたようで、長元七年(1034年)8月に鹿島・香取両神宮に土地や宝物を奉納して祈っています。
これは藤原安子(兼家の姉・道長の伯母)の頃、その父である藤原師輔が鹿島神社に皇子誕生を祈願し、間もなく授かったという故事に倣ったものだったとか。
鹿島神宮と香取神宮は関東の神社ですが、ともに藤原氏の氏神とみなされており、安産のご利益があるとされていたことも理由でしょう。
長元八年(1035年)6月には伊勢神宮にも皇子誕生を祈願しています。
後一条天皇の命によるものであり、禎子内親王が長元七年(1034年)に皇子を産んでいたので、後一条天皇と威子に焦る気持ちが強まっていたのかもしれません。
しかしその祈願を命じて数日後、威子は哀しくも流産。
流産はただでさえ心身のダメージが大きいものですが、このタイミングはあまりにも酷です。
威子は既に満35歳になっていたため、現代の基準でも高齢出産に入ります。
もともと近親結婚の上に高齢出産が重なったのでは、当時の医療事情で母子ともに安泰とはいかなかったのでしょう。
早い死去
不幸は続くもので、長元九年(1036年)3月からは後一条天皇が重病となり、4月に崩御。
崩御の際、藤原威子は彰子とともに後一条天皇の間近にいたらしく、『栄花物語』では死穢に触れなかったことにするために「(二人を)衣にくるんでお連れした」と書かれています。
『光る君へ』方違え・穢れとは?平安時代を知る上で無視できない風習
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同年9月4日には威子も疱瘡にかかったため出家し、直後の6日に崩御しました。
これまで大きな病気をしたことがなかったと思われる彼女が、こんなにもすぐ亡くなってしまったのは、やはり流産や年下の夫に死に別れたことが大きかったのでしょう。
また、この年はかなり暑かったらしいので、現代でいうところの夏バテも加わっていたのかもしれません。
残された二人の内親王は、祖母であり伯母でもある彰子に引き取られて育つことになります。
ちなみに威子の死によって中宮の座が空き、もともと皇后はいなかったため、後一条天皇の跡を継いだ後朱雀天皇の時代には”一帝二后”が再開されました。
後朱雀天皇の皇后が禎子内親王、中宮は藤原嫄子(敦康親王の娘・一条天皇と藤原定子の孫・関白頼通の養女)です。
禎子内親王はこの頃になると彰子くらいしか後ろ盾がおらず、関白相手に分が悪いと感じたのか、ほとんど参内しなくなりました。
しかし、最終的に皇位は禎子内親王の産んだ尊仁親王が継ぎ、後三条天皇となります。
さらに後三条天皇の子が白河天皇となり、譲位後に院政を始めて摂関家は大きく勢力を弱めていきました。
そこから平家の台頭と没落を経て、源頼朝による武家政権が幕を開けるわけです。
現代では威子について注目されることはほとんどありませんが、もしも彼女が皇子を産んでいたら、皇統は今と全く違うものになっていて、院政や武士の世への移り変わりも異なる形になっていたのかもしれません。
歴史はほんの少しのことで大きく変わるものだ、というのを実感できる一例ですね。
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長月 七紀・記
【参考】
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば (ミネルヴァ日本評伝選) 』(→amazon)
服藤早苗/日本歴史学会『藤原彰子 (人物叢書)』(→amazon)
国史大辞典
日本人名大辞典
藤原行成『権記』
ほか