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【藤原公任】
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道兼と急接近するも
父親と姉による出世レースの敗北により、すっかり厳しい状況に追い込まれてしまった藤原公任。
永延三年(989年)、蔵人頭に任じられると、正暦三年(992年)で参議になるまで伸び悩みました。
藤原南家の藤原懐忠(かねただ)や、同じ藤原北家でも公任より年少の藤原道頼・伊周兄弟に追い越される――非常に面白くない状況です。
すっかりモチベーションを失ってしまい、正暦四年(993年)には一条天皇の大原野神社行幸をサボるという有様でした。
当然これは天皇からのお咎めがあり、参内を止められてしまいます。
関白は道長の長兄・藤原道隆。
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彼の息子が前述の藤原道頼・藤原伊周兄弟ですから、公任からすれば一家まるごと目の上のたんこぶのようなものです。
ただしそれは道隆の弟ですらも、同じように感じていたのでしょう。
人間、敵味方がハッキリしていると、「敵の敵は味方」という理屈で親しくなりやすい……。
結果、藤原道兼と藤原公任は親密になり、正暦五年(994年)に公任は道兼の養女(村上天皇の皇子・昭平親王の娘)と結婚し、姻戚関係まで結んでいます。
ドラマをご覧になられているから方すれば、いかにも不穏な二人ですよね。
しかし、事は意外な方向へ進みます。
長徳元年(995年)に都ではしかが大流行すると、公家の人々にも病が広がり、関白・道隆も日頃の酒が過ぎて死去。
弟である道兼が関白になりましたが、彼も数日で病で亡くなってしまうのです。
そのため「七日関白」などと揶揄されますが、いずれにせよ次の関白は道隆の子である藤原伊周か、道隆の末弟である藤原道長か、という二択になりました。
権力闘争で道長が頂点に立つ
皇太后の藤原詮子が弟である藤原道長を推したこと。
長徳二年(996年)に藤原伊周が花山法皇へ誤って矢を射掛けてしまった【長徳の変】が起きたこと。
こうした一連の出来事から、結局、身内による権力争いは道長の勝利に終わります。
藤原公任はその間、出世争いでこそ不遇な立場になりながら、文化的才覚については輝きを失ってはおらず、長徳年間(996年~999年)頃には私撰和歌集『拾遺抄』をまとめ上げています。
花山法皇が将来、勅撰和歌集を編纂する際の目安として作らせたものだとされています。
つまり、【長徳の変】というトラブルがあっても、その覚えは変わらずめでたかったんですね。
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まぁ、和歌の大家とされる人々が世を去ったり、地方に下ったりして、他に適切な人材がいなかったため……とも指摘されますが、いずれにせよ公任は運のいい人とも言えそうです。
ちなみに花山法皇がこの後作らせる勅撰和歌集は『拾遺和歌集』であり、いかにも関係がありそうなタイトルですね。
この件でモチベーションが上がったのか、仕事でも功績を残しています。
長徳二年(996年)、公任は検非違使別当という官職に任じられました。
検非違使とは都の警察であり、別当は長官を指し、そこで公任は、犯罪者の刑期を書類に明記するよう命じたのです。
実はそれまで、罪に応じて刑期が定められてはいたものの、罪人には知らされていませんでした。
つまり釈放されるまで「いつ刑が終わるのか」が全く知らなかったわけで……。
不公平だと感じた公任が指摘し、改められたのです。
斉信に追い抜かれて出仕を辞める
長徳5年(999年)になると、藤原公任の位が久しぶりに上がり、従三位となりました。
しかし、喜んでばかりもいられません。
これ以上の出世を望むのなら、兼家たちの一派である「九条流」への接近が避けられない。
だからでしょうか、道長邸の改築祝いに参加して漢詩を詠んだり、道長の紅葉狩りに随行して和歌を詠んだり、その苦労の跡が浮かび上がってきます。
なお、紅葉狩りの和歌は百人一首にも採られています。
滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
【意訳】この滝は涸れて久しいが、その名は今も流れ聞こえている
上記の一首については「他にもっといい歌があるのに、なぜ定家はこの歌を選んだのか」と突っ込まれたりもしています。
もしかすると定家は、道長に接近した頃に詠んだという点を重視したのかもしれません。
余談ですが「百人一首には暗号が隠されており、この歌もその一端で入れられたものである」とする見方もあります。
正解は定家の胸中にしかないでしょうし、永遠の謎になりそうですけれども、あったら面白いぐらいに考えておいた方が良いでしょうね。
また、この年は道長の長女・藤原彰子の入内もありました。
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公任は屏風歌を詠進していて、これらの活動が実を結んだのか、長保三年(1001年)には中納言、ついで正三位を得ています。
しかし、長保6年(1004年)には公任の1歳年下である藤原斉信が従二位になり、またも追い越された形になります。
大河ドラマ『光る君へ』の中で、二人が官位について言い争いをしているのは、こうした出世競争が実際にあったからなのでしょうね。
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追い越された公任は、出仕をやめてしまい、同年の末に中納言と左衛門督の辞表を提出しています。
ちなみに、この辞表を作ったのは大江匡衡(まさひら)・赤染衛門夫妻です。
公任は別の文人に依頼していたのですが、その出来に納得できず、匡衡にお鉢が回ってきたのでした。
匡衡も頭を悩ませ、赤染衛門が知恵を貸しつつようやく完成したそうで、彼らはおしどり夫婦で有名でしたから、公任もそれを見越して依頼したのかもしれません。
ただし、辞表は本気で辞めたくて出したものではなく、寛弘二年(1005年)に皇太后宮大夫の職や従二位が与えられると、公任は再び参内するようになりました。
もう一つの蛇足ですが、大江匡衡は『鎌倉殿の13人』で文官として活躍した大江広元のご先祖様になります。
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歴史の繋がりを感じさせてくれますね。
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