武蔵野合戦「小手指原の戦い」

新田義貞像

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武蔵野合戦「小手指原の戦い」で足利vs新田が激突!父の恨み晴らす也

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所沢市から東京台東区当たりまで大逃走

新田義宗はその中で、尊氏方の中に向こう見ずな戦い方をする若い一隊がおり、そのせいで他の軍に支障をきたしていることに気付きました。

義宗だけでなく、新田一族にとって尊氏は義貞の仇。

一気に士気を高めた新田軍は、足利家の家紋である【二つ引】の旗、つまり尊氏の陣に猛攻をかけました。

あまりの攻勢に尊氏は撤退し、現在の東京都台東区付近まで逃げたといわれています。

同じく現在の道路では車で1時間・徒歩で7時間くらいの距離のようですので、騎馬の軍であればその間くらいですかね。

尊氏が単身かつ馬に乗って逃げたのであれば、車と同じくらいだったかもしれませんが、それもなさそうですし。

ここで尊氏はまた例の鬱気質が出たらしく、自決しかけて止められているので、もし一人で逃げてきていたら、そこで室町幕府が終わってしまったかもしれません。

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まぁ、仮に一人で逃げていた場合は部下に「(゚Д゚)ハァ?」と思われていたところですが、日頃の人望があってよかったよかった。

そして……。

 

ヤケクソになって鎌倉へ これが功を奏し……

義宗は尊氏へ追撃をかけるも、日が暮れてきたため断念。

はぐれた一族と合流すべく、笛吹峠(現・埼玉県比企郡)に布陣して待つことにしました。

この後、起きたのが笛吹峠の戦いです。

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一方、兄の義興は300ほどの小勢になっていたものの、尊氏方の仁木頼章・義長と戦闘を繰り広げていました。ニーチャン無謀すぎ。

しかも「このまま帰るのも難しそうだし、いっそ鎌倉を攻めてやれ!」と半ばヤケクソになって鎌倉へ向かっています。

これが功を奏しました。

他の新田方の軍と合流し、まとまった数になったことで、鎌倉を攻め取ることができたのです。義貞が草葉の陰で感涙してそうですね。

ちなみに、このとき鎌倉公方(室町幕府の鎌倉出張所みたいなものの長官)は尊氏の四男・足利基氏でした。新田方にとっては、二重にも三重にも爽快な出来事だったでしょう。

当コーナーでは新田家をひいきしておりますので、新田方がこのまま勝ち続けた歴史も見てみたかったな、と思います。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
武蔵野合戦/wikipedia
観応の擾乱/wikipedia

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