三善康信

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源平・鎌倉・室町

史実の三善康信は承久の乱で義時の背中を押し~鎌倉殿の13人小林隆

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和みジョークで頼朝の機嫌を直す

この後、奥州合戦や、頼朝の初上洛など、鎌倉幕府初期の重要な出来事が続きます。

三善康信はいずれも裏方のような立場でしたので、彼の働きがあまり話題に登ることはありません。

しかしその仕事ぶりは広く認められており、建久二年(1191年)1月に「政所・侍所・問注所」が正式に設置された際、康信は問注所の執事(長官)に任じられました。

名実ともにエラくなった康信ですが、人柄はあまり変わらなかったようです。

建久二年(1191年)6月9日の『吾妻鏡』に、こんな記述があります。

一条能保の姫が九条良経に嫁ぐことになり、その衣装について鎌倉幕府が世話をすることになりました。

能保の正室である坊門姫が、頼朝の同母姉妹だったことによると思われます。

公家のお姫様が嫁ぐのですから、当然、地味な輿入れというわけにはいきません。女官や侍たちも大勢出席します。

そこで女官の衣装は中原親能大江広元が京都で調達するようにと命じられ、侍たちの分については関東で手配し、仕立てることになりました。

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すると、絹の手配が遅れ、頼朝の機嫌が斜めになってしまいます。

世間体もあり、頼朝にとっては姪の慶事という私的にも喜ばしいことですから、幸先が悪くなれば気分を損ねるのも無理のないこと。

責任者が呼び出されたときには、皆が恐れおののいていた……と記録されていますので、はた目から見てわかるほど機嫌が悪かったのでしょう。

そこで康信がこんなフォローを入れます。

「先に届いた絹は早馬でした。次の絹はきっと”練り歩いている”から遅れているのでしょう」

絹の製造工程で、汚れや細かい不純物を取り、光沢を出す作業を”練る”といいます。絹独特の光沢が生まれる作業でもあります。

これと”練り歩く”をかけたジョークだったわけですが、これが頼朝のツボに入ったらしく、なんとか機嫌を直せたとか。

それを見た人々は、再び雲行きが怪しくなる前に急いで絹を届け、この件は落ち着いたのだそうです。

康信のこうした知的さと茶目っ気の共存するところは、おそらく御家人たちにとっても好ましかったことでしょう。

ただし、この頃になると康信も既に50代に入り、激務はなかなか堪える頃合い。

建久五年(1194年)10月1日に頼朝は、三善康信の末子・三善行倫に、裁判の記録係をするよう命じています。

これも元は康信の仕事だったのですが、他の要件が重なることも多いので、息子を推薦したのだとか。

康信が、晩年まで大きな病気をしたという記録がないのは、こうして早くから業務負担を減らしていたからなのかもしれません。

では頼朝の死後、三善康信はどうなったか?

 

頼朝の時代は康信邸で裁判

建久十年(1199年)1月に頼朝が逝去すると、4月1日に、問注所(裁判所)が幕府の外に設置されました。

実は頼朝の時代、訴訟は「康信の家」で行われていました。

人ん家で裁判するなよ!

とツッコミたくなりますが、ではなぜそんなことになったのか?というとキッカケがあります。

熊谷直実と久下直光という二人の御家人です。

親族でもあり、土地や生い立ちを巡って諸々の事情があるこの二人。

建久三年(1192年)に直実と直光が対決した際、直実が劣勢となりました。

直実は平家物語の「敦盛の最期」で有名な人ですね。

もともと口下手なタイプだったらしく、上手く反論できずに怒りを爆発させた結果、御所の西にあった侍所で突如髷を切り、蓄電してしまったのです。

以来、訴訟の際は、問注所の執事だった康信邸が使われることに。

しかし、いつまでも個人の家を使うわけにはいきませんので、問注所の建物が新たに建てられ、改めて康信が執事に任じられた……というわけです。

同年4月12日には十三人の合議制も設置され、康信もその一員に選ばれました。

とはいえ仕事はあまり変わっていません。

頼朝の存命中と同様、問注所の仕事や朝廷との連絡・応接、寺社関係などの役割が主要な業務だったようです。

十三人の合議制は、常に13人揃って会議をしていたわけではありませんし、康信はこれまでにも他の御家人たちとの協議の場に出ていましたので、大差がなかったのでしょう。

同年秋から冬にかけては、梶原景時の追放事件が起きています。

翌正治二年(1200年)1月に景時が一族を率いて上洛した際、康信は

「景時は謀反を起こすために京都へ行ったのだと噂されている」

と報告を受け、北条時政や大江広元らと共に協議を行いました。

結果、三浦義村比企能員などによる追討軍が出されました……が、梶原一門は駿河で既に討死・自害しています。

この事件は少々後を引きました。

およそ一ヶ月後の正治二年2月22日、康信は大江広元と共に幕府へ、以下のように重要な報告をしているのです。

「先日の梶原景時の件、京都に知らされていました。

上皇の御所では五大明王に護摩を焚いて祈祷を始めたそうです。

景時のことを誰かが上皇のお耳に入れたのでしょう。

あるいは、景時はあらかじめ上皇に連絡をとっていたのかもしれません。

何をお祈りされたのかはわかりませんが、いずれにせよ景時と何らかの関係があるでしょう」

この一件で思わぬトバッチリを食らったのが芝原長保。

景時との関与を疑われ、問い詰められます。

「景時は播磨の守護なので、私が幕府へお仕えするにあたって推薦を頼んだことはあります。しかし、私はこの度の件に関与しておりません」

長保は必死の思いで弁解。

しかし疑いは消えなかったようで、長保は小山朝政に預けられることになります。

【梶原景時の変】は、頼家に代替わりして初の大きな事件だったため、事後処理には念を入れていたようです。

 

頼家の暴挙をなだめ

父親の源頼朝からは絶大な信頼を得ていた三善康信。

息子で二代将軍である源頼家との関係は、可もなく不可もなくといったところでしょうか。

康信と頼家が直接関わったポイントを少し見ておきたいと思います。

ひとつは、正治2年(1200年)12月28日のこと。

頼家が、御家人たちにとってはトンデモな考えを提案してきました。

「平家との戦い以降に所領が500町を超えた者は、500町を超えた分を取り上げ、所領が少ない者に分け与えよう!」

一見、慈悲ある処置に思えますが、取り上げられるほうにも家があり、家臣がいて、とんでもない暴挙でしかありません。

ですので、これを聞いた広元や康信たちは必死に諌めました。

それによってひとまず延期となりましたが、頼家は諦めず「来春には施行する」と言い張っていたそうですので、康信もハラハラしていたことでしょう。

なんせ御家人たちにとって所領は命も同様です。

それを思いつき一つで右から左へ動かされては一気に政権を傾けかねない暴挙となります。

もうひとつは、康信というより彼の弟・三善康清と源頼家の関係です。

建仁2年(1202年)1月12日、康清が自宅の蹴鞠場に初めて”懸りの木”を植えたと聞き、頼家が興味を持って出かけたことがありました。

懸りの木というのは、蹴鞠場の四隅に植える

【梅・松・柳・楓】

のことです。

以降、頼家はたびたび康清邸へ出かけ、蹴鞠を楽しむようになります。

彼らの間でどのような会話があったのか、詳細は記録されていませんが……おそらくは康清と頼家の関係は良好な部類だったのでしょう。

なにせ、この年10月には秋雨が降ったり止んだりする中、康清邸へ出かけているくらいです。

これらのことからすると、頼家は三善兄弟や大江広元といった公家出身者とはあまり隔たりがなかったと考えて良いのではないでしょうか。

もちろん、頼家の母である北条政子からの信頼も得ていました。

少々リアリティは……という類の話ですが、吾妻鏡に出ているので取り上げます。

ある日、政子は、会ったことのない舅・源義朝の夢を見ました。

沼間というところに義朝がかつて住んでいた屋敷があったのですが、彼は死後もそこに霊としてとどまっていたというのです。

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政子の夢枕に立った義朝は、こんなことを言ってきたとか。

「私はずっとここにいるのに、近くの海で漁師が殺生をするので浮かばれない。どうかこの屋敷を寺の中に移築してほしい」

いや、そのお願いは頼朝が生きているうちにお願いすればよかったのに……。

そうツッコミたくなりますが、頼朝はこの屋敷を父の唯一の名残として「しばらく取り壊してはならない」と周囲に命じていたため、トーチャンも空気を読んだのかもしれません。

いずれにせよ夢や占いなどが重要視された時代のことです。

政子は目が覚めてすぐに康信へこれを知らせ、栄西の寺に沼間の屋敷を移築させることにしました。

康信が寺社に関する手続きを多く担当していたからだと思われます。

この移築は建仁二年(1202年)2月29日に行われ、これまた公家出身の二階堂行光が指揮を取りました。

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