頼朝と義経の対立

源頼朝と源義経/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

義経はなぜ頼朝に排除された?軽視はできない怨霊対策 鎌倉殿の13人

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怨霊と天皇

『鎌倉殿の13代』は、天皇と怨霊の関係が最も濃い時代を扱っています。

具体的には以下の四名。

崇徳天皇
安徳天皇
後鳥羽天皇
順徳天皇

いずれも怨霊伝説がある人物です。

崇徳天皇は後白河天皇と争った【保元の乱】に敗れ、讃岐に配流となりました。

女房たちと慎ましやかに暮らしていたとされるのですが、物語では全く異なります。

舌を噛みちぎり、血で「日本国ノ大悪魔」(あるいは「日本国ノ大魔縁)になると書き記したというのです。

この血で記した「五部大乗経」はあると言われながら実在は確かめられておりません。

もっとも、こうしたものは「見たら祟りで死ぬ! ゆえに誰も見たことがない……」と理由をつければどうとでもなりますが。

崇徳天皇本人は、慎まやかな性格だと目されていますが、周囲がそうとは限らず、怨霊伝説の発端は、天皇に仕えていた者からのようです。

あんな酷いことをしてただで済むと思うなよ……

そんな思いを周囲に言いふらしたため、巡りに巡って噂が大きくなってゆく。ゆえに、ただでさえ罪悪感のあった後白河天皇側も怯えるようになった。

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実は、頼朝の父・源義朝も、崇徳天皇の怨霊に怯える代表格でした。

義朝は【保元の乱】で、頼朝の祖父・源為義、頼朝の叔父・源義賢などの家族までを敵に回し、結果、父と弟を失っている。

ゆえに息子の頼朝が信心深くなるのは当然ともいえます。

平家に敗れた父や兄のみならず、崇徳天皇関係者までも慰霊の対象。

特に崇徳天皇はおそろしい……嗚呼、天皇を悲運に陥れたら恐ろしいことが待っているのだな……頼朝がそう思っていたことは確かです。

恐怖心があればこそ、平家も安徳天皇を船に乗せ逃げていったのでしょう。いわば天皇を盾にしたのです。

しかし、歴史とは何とも皮肉なもの。

頼朝の弟である義経たちは、安徳天皇が船にいようがお構いなし。

苛烈なまでに敵を追い詰め、ついに安徳天皇は祖母・二位尼に抱かれ、海に沈んでしまいます。

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そして、その非難の対象は、頼朝に向かいました。

安徳天皇を海に沈めた主犯格と見なされるようになるのです。

頼朝にとってはあまりに予想外、義経の暴走が引き起こした悲劇ですが、そんな言い訳、世間には通じません。

三種の神器の剣と安徳天皇が水没してしまった事実は変わらない。

ゆえに頼朝が義経に激怒し、鎌倉入りを許さなかったことも致し方ないことでしょう。

安徳天皇のあまりに悲惨な最期について、当時の人々は驚愕しました。

成人していて、かつ争いに積極的に関わった崇徳天皇を、存命のまま配流したことですらおぞましいのに、まだ6才の安徳天皇を追い込むとはいかがなものか。

その慰霊に頭を悩ませた人物が九条兼実です。

崇徳と安徳の慰霊――彼らにとって浮上した喫緊の課題。

どちらも「徳」と諡号についていますが、「徳」は怨霊の鎮撫を行うための字です。

安徳天皇の慰霊は『平家物語』にも込められています。

物語を知った人が嘆き悲しみ、安徳天皇を思うことが慰霊になる。

三種の神器のうち剣だけが見つからなかったのは、海の底にいた竜神が持ち去ったのだろう。海の底にある竜宮に帝と平家は向かったのだろう……そんな語り口からは、怨霊を鎮めたい願いも感じられるものです。

琵琶を弾きながら語られるとき。

ドラマやアニメとして人々が鑑賞するとき。

その間、人々が平家を思い、涙することで、怨霊が鎮められる――そんな考え方ですね。

しかし……当の頼朝にとって、壇ノ浦の戦いで起きてしまった悲劇を覆すことはできません。

結果、信心深い頼朝にとって、怨霊対策はもはや人生を賭けた課題にもなりました。

果たしてその効果はあったのかどうか?

 


当時の人は「全部頼朝のせい」

建久9年(1198年)末、頼朝は病に罹り、翌年正月に出家して亡くなってしまいます。

吾妻鏡』は、この死後3年分の記述が欠落していて、頼朝に何が起きたのか、については諸説あります。

相模川にかけた橋の落成供養で落馬し亡くなったとか。

あるいは飲水(糖尿病)であるとか。

疲労がたまり亡くなったとか。

フィクションならばアレンジができますので、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではどう描かれるか注目されるところですね。

ミステリも得意とする三谷幸喜さん次第で、当時の中世人であれば、こんな怨霊解釈の一例もあります。

『保暦聞記』を見てみましょう。

相模川に出かけた頼朝は、源義広、義経、行家ら、自らが滅ぼしたものたちの怨霊を見かける。

そのまま進んでゆくと、海の上に十歳ほどの男児がいる。

この男児は安徳天皇であると名乗った。

亡霊をみて鎌倉に戻った頼朝は、そのまま急死したのである。

おわかりいただけたであろうか。

源頼朝は、平家の怨霊に殺されたのである――。

怨霊の効果はそこだけにとどまりません。

息子である源頼家源実朝が、非業の死を遂げ、源氏将軍が断絶したことも、大量に人を殺した祟りだと語られたのです。

さらには、頼家の娘である竹御所が難産で亡くなった際にも、藤原定家が「平氏を子どもまで殺した祟りだろう」と書き記しています。

安徳天皇にせよ、三種の神器にせよ、頼朝が海に落とすよう命じたとはとても思えません。

現場で義経が暴走した結果であり、それが許せなかったからこそ頼朝は義経を拒否したのでしょう。

しかし皮肉にも、頼朝が義経を自害に追い詰めたことにより、義経の罪まで頼朝が背負うことになったのです。

そしてこのあと、怨霊を考える上でさらに深刻な事態が起こります。

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