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蘇軾/wikipediaより引用

中国 週刊武春

天才・蘇軾(そしょく)のエンジョイ流刑66年 詩を料理を愛し、トンポーロウを産み出した

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流刑という言葉にどんなイメージを抱きますか?

須磨に流され、悲しみに暮れた光源氏
讃岐で夜叉のような姿と化した崇徳天皇
奄美大島で鬱憤を晴らすべく、剣の素振りをしていた西郷隆盛

日本史では無念を連想してばかりですよね。

ところが、悠久の歴史を誇る中国には異端の傑物がいるもんで。

「流刑、めっちゃ楽しい! 地方グルメ最高!!」
と、全力で流刑ライフを満喫した人がおります。

その名は蘇軾そしょく
号から蘇東坡(そとうば)とも呼ばれた詩人です。

彼は三国志屈指の大決戦「赤壁の戦い」を詠んだ『赤壁賦』の作者としても知られているのですが、多芸多才なだけあって、トロトロの食感がたまらない料理・東坡肉(トンポーロウ)の産みの親だったりします。

一体彼は、どれほど流刑をエンジョイしたのでしょうか?

 

スーパーエリート・三蘇

時は北宋1057年。
日本は平安時代です。

超難関で知られる官吏登用試験「科挙」の試験委員長をつとめる欧陽脩(おうようしゅう)は悩んでいました。

【関連記事】科挙を体感してみません?

「どうにも最近の答案は、必勝パターンに乗っかったものが多いんだよなぁ。もっと個性が欲しいねぇ」

中国のスーパーエリート試験・科挙。
受験生もいろいろと対策を練っていまして、合格への必勝パターンなんてものを対策として学んでいるのです。

これがどうにも欧陽脩は気に入らなかった。
彼は試験委員長として、少しでも必勝パターンの臭いがする答案を片っ端から落としたのでした。
受験生からすれば悲鳴があがりそうな展開です。

結果、その年の合格者はわずか3名。しかもそのうち2名は、蜀(四川省)出身の兄弟でした。

兄の蘇軾(そしょく)
弟の蘇轍(そてつ)
です。

あの超難関を、しかも二十歳そこそこの兄弟が揃って合格したのですから、これはもうミラクル。
こんな兄弟を育てた親もきっと凄いんだろうな……と、調べて見たら実際、父の蘇洵(そじゅん)もすごくて、遅咲きの官界デビューとなります。

「三蘇」
彼らはこう呼ばれて、北宋きっての文章家として名を残すようになります。

そんな蘇軾、さぞやエリート街道を驀進したんだろうなぁ、と思いますよね。
しかし実は……。

エリート兄弟を育てた父・蘇洵/wikipediaより引用

 

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新法党vs旧法党

当時の北宋は、新法党と旧法党と呼ばれる官僚が政治闘争を繰り広げておりました。

この争いは、王安石が政治改革を断行しようとしたことから始まります。
世界史で習った記憶がある方もおられるのでは。

王安石/wikipediaより引用

蘇軾は、この争いにおいて旧法党に所属していました。
そして政治闘争に敗れ、エリートコースを外れてしまうのです。

36才となった1071年からは、地方勤務になりました。

「まぁでも俺って、地方勤務の方が好きだしね。中央はギスギスしてやってらんねぇし」

意気消沈することもなく、田舎生活を満喫し始めた蘇軾。
さらに彼は1079年、「皇帝を誹謗した罪」で黄州(湖北州)へと流刑となってしまうのでした。

このとき44才。
新法党の神経を逆撫でしたことが原因でした。

 

流刑ライフ、悪くないじゃん!

流刑の地に流された蘇軾は、当初こう思いました。

「やっぱ流刑やばいっす。ちょっと人生舐めてたのかもしれ……ん? よく見てみりゃ、黄州ってよさげじゃね? 長江の魚はめっちゃうまそうだし、竹藪あるってことは筍食べ放題じゃん! ヒャッハー!」

さすが生まれついてのグルメ。
実は黄州は魚や筍だけではなく、豚肉も絶品として知られておりました。

この豚肉を最高に美味しく食べたい!
そう思った蘇軾は早速、研究を始め、そして完成したレシピが「紅焼肉(ホンシャオロウ・豚肉の醤油煮)」、つまり「東坡肉」の前身でした。

そんな蘇軾をみて、慌てふためいたのが、わざわざ駆けつけた弟の蘇轍です。

「兄上、口は災いの元でしょ。そもそも流刑だってその口の悪さのせいなんだから。おとなしくしてください!」

しかし、蘇軾はそんなことはお構いなし。
本物の天才って、こんなもんなんですよね……。

給料も貰えないのに友人を接待し、真夜中まで酒を飲み、ときに詩を詠む悠々自適の流刑ライフ。

とはいえ、収入がないのはやっぱり痛い。
一年間も遊んで暮らせば金がなくなります。

見かねた友人が、役所にかけあって荒れ地を借りてくれました。

「とりあえずこれでも耕せば、まあ、死なない程度には生きていけるか!」

蘇軾は晴耕雨読の日々を送る合間、近くの名勝を訪れては詩を詠む日。
この黄州時代に詠んだ作品に『赤壁賦』があるのでした。

 

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今度は南国リゾート! 毛虫がウマい!

蘇軾の楽しい流刑ライフも、政治闘争とともに終わりを告げます。

1085年、新法を支持していた神宗が崩御し、幼い哲宗が即位。
実権を握ったのは、哲宗の祖母で摂政となった太皇太后でした。そのおかげで旧法党が復活し、蘇軾もお呼びがかかったのです。

いやいやながら中央官界に戻った蘇軾。
すぐさまギスギスした政治闘争に嫌気がさしてしまいます。口が悪い蘇軾ですから、敵も作りやすかったのでしょう。

そして志願して地方勤務、呼び戻されて中央、やっぱり嫌になって地方、また中央……と、そんな官僚人生を送ります。

そんな中、哲宗の親政が開始されるとまた新法党の時代となりまして。

1094年、再び、恵州(広東省)へ流刑。
さらには1097年、中国最南端・海南島に流されてしまいます。

このとき、蘇軾は62才。同行した家族は三男だけでした。

住民の大半は少数民族の黎族(リー族)です。
食べ物だって全然違う。
生活習慣も当然異なります。

流石の蘇軾も参るだろうと思いきや……。

「毛虫うめえ~! 中央官界には内緒だぞ、あいつらにこの美味を知られたら食い尽くされるからな」

なんと、毛虫の味をえらく気に入ったのです。
めげない蘇軾は、官舎を追い立てられても、現地の人と楽しく小屋を建ててそこで暮らし始めます。

海南島での蘇軾は、笠を被り、足下は下駄履きで、酒入りの瓢箪を頭にのせて、昼間っからフラフラしておりました。
こんな変なジッチャンを周囲の人々も面白がり、女子供や犬(!)までもが周囲で盛り上がっていたそうです。

 

もしかして中央に帰りたくなかった?

1100年、哲宗の崩御に伴い、蘇軾は罪を許されます。
その翌年、中央へ戻る旅路において、蘇軾は病に倒れ亡くなりました。

享年66。

そんな蘇軾の作品は高い評価を受け、北宋最高の詩人とされています。
古文の教科書でもおなじみですし、もちろん前述の「東坡肉」も有名ですね。

しかも生き方がこんなに自由なのです。
後世の人々は「蘇軾さんの生き方、最高にクールでロック!」と憧れのまなざしで見ました。

義や国家に殉じる、諸葛亮や岳飛といった生き方ももちろん賞賛に値します。
しかし、それだけではなく、義や国家よりも自分の自由を重んじて、ゆる~い悠々自適ライフを送った老荘思想家、竹林の七賢、明代の唐寅のような生き方も中国の歴史において絶賛されました。

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蘇軾ももちろん、この悠々自適タイプです。

こういう生き方は確かに理想的で、何よりも楽しそうです。
どんな逆境でもふてぶてしいほどに楽しむ生き方は、確かに憧れてしまいます。

皆さんもこれから「東坡肉」を召し上がるときは、そんな蘇軾の楽しい人生をちょっと思い出して、自由に生きる勇気をもらってみてはいかがでしょう。

文:小檜山青




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【参考文献】
井波律子『酒池肉林

 



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